朝に道を聞かば

締め切り原稿を書くのは大の苦手の私としては実に珍しく、約束どおり昨日めでたく『スペイン文化入門』の「まえがき」を書き上げた。約4,300字、400字詰め原稿用紙11枚分、「まえがき」としては長すぎるので、「原発禍の中でスペイン文化を読む」という別題をつけ「まえがきに代えて」とした。
 いささかパセティックな文章になったが、思わぬ副産物もあった。つまり編者・碇順治さんからの叱咤激励に後押しされたことも効いたのか、長らく、もっと正確に言えば2002年以来だから13年ぶりに、スペイン思想研究への現役(?)復帰の気持ちになってきたことである。といって新たな研究に着手するというのではなく、これまでやり残してきたことを補修するだけのこと。
 そのためにはグーグルの検索エンジンが助けになることも分かってきた。たとえば先日ふと頭に浮かんだエゴラトリーア(自画自賛・自我礼賛)という言葉、どこで出会ったのだろうと思い、「ウナムーノ、エゴラトリーア」で検索してみたら全く同じ題で、サラゴサ大学のアナ・トラルバという歴史学の教授のエッセイが出てきた。
 「おそらくウナムーノは、ほとんど自分自身について、また自分自身のために書いた作家のひとりであろう」という書き出しで、19世紀から20世紀にかけて自分自身を語るエッセイという分野が急速に発達し、同時代の小説家ピオ・バロッハにも『青春、エゴラトリーア』という自伝小説があることなどを挙げている。あのとき「スペイン九八年世代」のことが頭にあったので、エゴラトリーアという単語が自然に想起されたのだろうということも確認できた。
 またウナムーノとモノディアロゴスについても、マドリード大学のアナ・ビアン・エレーロという人が20ページほどの論考を発表していて、まだ読んでいないがさっそくコピーした。
 という具合に、スペインに新たな文献を発注しなくとも、インターネットを使えばかなりの資料が手に入る。いやいくら資料を渉猟しても、こちらに明確な問題意識がなければ何の役にも立たない。要はかつてのような気力が戻ってくるかどうか、だろう。いまふと頭に浮かんだのは、碇さんの「日西翻訳通訳研究塾」のサイトの片隅にでも、たとえば「スペイン文化研究余滴」といったコラムを作ってもらい、不定期に連載させてもらうなどどうだろう。どうだろう、なんて言っても肝心の碇さんに断られるかも知れないが。
 それはともかく昨秋あたりから短い先行きのことばかり考えて、かなり萎縮していたことは自分でも気づいていた。いいじゃない道半ばにして斃れても。
 むかし常葉学園大の教師だった頃、つまり1980年代中ごろ、ひとりの思想史家の最後に感銘したことを思い出した。それは確か生松敬三氏。白水社のオルテガ著作集で「哲学とは何か」を訳されたことで一回ほど手紙でのお付き合いしただけの間柄だったが、彼が死の前年、病を押して夫人とパリまで行かれて書物を購入されたことを知り、あゝこういう生き方もあるんだ、と或る感慨を覚えたときのことである。
 朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり。なるほど昔の人はいいことを言っちょるばい(これどこの方言?)。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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朝に道を聞かば への2件のフィードバック

  1. 阿部修義 のコメント:

     文章を拝読していて、先生の著書『切り通しの向こう側』の中の「いまだ書かれざる小説へのプロローグ」にある文章を思い出しました。

     「人間にとって重要なものはすべて、不確かで不如意な姿勢から見て、はじめてその本質をあらわにしてくると言えよう。だから事が順調に進んで、自分は明晰に見ていると思うときほど実はあぶないのだ。明るみの虚妄に陥っている。だから、と私は自分の姿勢を肯定する、霧の中から出ていくのではなく、霧の中にとどまり、そしてじっと眼をこらすこと。そのうち確かに何かが見えてくるはずだ。あせらず、また他を当てにせず。」

     この文章は先生の著書全般にわたって、先生の考え方を私自身が掘り下げて思索するときに常に意識してきたものですが、「道」とは何かを究明していくためのヒントのように私は感じます。江戸初期の陽明学者中江藤樹も「古来聞きがたきものは道」と、「道」を聞くことの難しさを言っています。現代社会に欠けているものは、この「道」を知ることなのかも知れません。平たく言えば、物事を論理でなく道理に合うかを追及していくことが今、求められているんでしょう。そして『スペイン文化入門』の中にそういう息吹を私は感じます。

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    阿部修義様
     いつものことながら、書いた本人がすっかり忘れていることを、実に的確に掘り起こしてくださって、もう脱帽です。ありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
     「まえがき」は順調に行きましたら、この四月には出版されると思いますので、そのあとここで改めて披露させていただくつもりです。
     早く暖かな春が来ることを願っている今日この頃です。阿部さんも介護大変でしょうが、どうぞ頑張って下さい。

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