せっかくどうも

来客もなし、さしあたってのノルマもなし、というありがたい時間を過ごしていると、不意に懐かしい言葉が浮かんできたりする。今回は「せっかくどうも」。きっかけは、父方母方ともに付き合いが完全に消えてしまった美子のことから、私の誕生日と同じ日に亡くなった義父・源一さん、そして足が不自由で最後までコルセットが外せなかった義母・ウメさんのことを思い出していたときだ。八木田水神の家の通りをはさんで真向かいの鉄工所のおかみさんに、通りで会うたびに「せっかくどうも」と愛想よく挨拶されたこともついでに思い出したのだ。
 「せっかくどうも」は同じ福島県でも南相馬のある浜通りでは聞いたことがない。なんとも不思議な方言だが、ネットで検索してみたら、実に適切な答えが見つかった。「読売新聞福島版」(06.12.09)の記事で、こう説明されている。      

 地域の日常のことばである方言の中には,当然ながらさまざまなあいさつ言葉が含まれています。たとえば「おばんです」というあいさつは,福島県を初めとして東北各地で広く使われてることばです。福島での生活の長い人の中には,東北出身者でなくても,このことばを受け入れ,自然に「おばんです」というあいさつができるようになった人が多いようです。地域社会の中で円滑な人間関係を形成するにはこうした方言のあいさつは不可欠なものなのでしょう。
 よく考えてみると「おばんです」に対応する共通語の「こんばんは」は敬意を表現することができません。尊敬する人に対しても,遠慮のいらない友人であっても,同じように「こんばんは」としか言えないのです。「おばんです」は「~です」をともなっているのでそれ自体が丁寧な言い方ですし,また「おばんでございます」のようにさらに丁寧な表現を作り出すこともできます。共通語では不可能な「相手に応じた言葉の使い分け」ができるようになるということも「おばんです」が他地域出身者に浸透していく理由かもしれません。
 福島市や伊達市など県北では「せっかくどうも」というあいさつをよく耳にします。共通語では「せっかく」ということばは「~したのに」のような表現をともなって使うのが普通なので,出身者以外には不思議な言い方に感じられるようです。資料を調べてみると,江戸時代以前の文献には「せっかく習え」や「せっかくごきげんよう」のように「~したのに」などをともなわない使い方が見られます。「せっかく」という語はもともとは「わざわざ」とか「努力をして」といった意味で,必ずしも「~したのに」をともなわずに使われていました。中央ではその後,「せっかく」の使い方が変化し「~したのに」などを後に続ける言い方が広まりましたが,おそらく福島では本来の用法が方言として残ったのでしょう。それがやがて「せっかくどうも(わざわざどうも)」というあいさつことばとして定着していったのだと考えられます。
 あまり方言を話さない若い人が,成人し,地域社会の中で生活するようになるとこうしたあいさつを身に付けることもあるようです。共通語が広まっても,最後まで根強く残っていく方言なのかもしれません。

 短いながら方言の意味と価値を見事に説明している。比較言語学や方言学については何も知らないし、今さら挑戦する時間も気力もないが、しかし日頃から主張してきた日本人のアイデンティティ回復のためには方言が重要な手がかりになることは間違いなかろう。各地方の特徴ある方言が、上からはお上の国語政策、横からあるいは下からはラジオやテレビからの標準語だか共通語だか知らないが、ともかく全国一律の言葉の洪水の中で、方言は次第に忘れ去られ消えつつあるというのが実情。だからテレビから生み出される奇妙な省略語、例えば「ハンパない」など聞くだけで背筋が凍る。
 つまり方言は、乱暴に言い切ってしまえば、さきほどの「せっかく」のようにもともとあった意味が残されて出来た言葉であって、「ハンパない」の出来かたとは真逆の現象というわけだ。言語が人間に及ぼす力はそれこそハンパじゃない。ヨーロッパ最初の文法書を書き上げたネブリハが、イサベル女王にその文法書を献呈しながら、新世界侵略・統括のためには武器より強力な手段としての言語の重要性を進言したのは有名な話だ。
 沖縄における共通語普及の歴史を、普天間基地の辺野古移設をめぐる中央政府の血も涙も無い強引な政策とからめて何か言おうと思ったが、どちらの問題についても勉強不足であることに気付いて今回はやめておく。
 その代わりと言っちゃなんだが、最初に触れたことについてちょっと補足しておく。どこかで既に美子のそうしたコゼット(あの『あゝ無情』の)状態について書いたことがあるが、認知症発症の前にそのことについて美子に聞いたことがある。すると美子、三本木(これが旧姓)の親戚と絶縁しても私はパパの親戚と仲良くするからぜーんぜん寂しくないよ、と言った。美子が認知症でなければ、それでも縁がつながる努力をしたと思うが、今となっては美子の言うとおりにしよう、と思っている。源一さんとウメさんには、昨年、公園墓地の墓に小さな墓碑を立てて改めて(ウメさんのお骨は既に入っていた)ばっぱさんたちと一緒になってもらったし、いずれ私達もそこに入るんだから美子は寂しくはなかろう。そんなことを考えていたときにふと思い出したのがあの挨拶言葉でした。せっかくどうも!

美子の家は祖父母の代から福島駅近く(置賜町)で小さな旅館を経営していた。だから一人娘の美子は、小さいときから家の手伝いをしなければならなかったが、時々ウメさんが美子に厳しく当たり、ために客からは「あの人、本当のお母さん?」と聞かれることもあったそうな。だから美子、ウメさんのことを長い間(もしかすると今も?)継母と思っていたらしい。けれどどう見てもウメさん、その顔つきからして美子の本当のお母さんにまちがいなさそうだ。ともあれ、孤児コゼットも旅館の手伝いをさせられていたことから、ときどき美子のことをふざけてコゼットと呼んだことがある。となれば、私はさしずめジャン・バルジャンということか。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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