アリバイ

アリバイとはラテン語の alibi(どこか他のところに、の意)の英語読みである。つまり空間的な存在である人間は同じ時刻に違った場所に同時に存在することはできないことから、犯罪捜査における不在証明を指す言葉となった。
 話はとつぜん変わるが、最近新聞の購読をやめた代わりに、ヤフーの検索エンジンのところに毎回十ほどの最新ニュースのタイトルが並んでいるので、大きな出来事はたいていそこで知るようにしている。そんな中にこんなものがあった。

「GWの写真 SNS投稿に注意を」
 何のことかと思って記事を検索してみると、こう出ていた。

「ゴールデンウィークの思い出の写真をブログやSNSへ投稿したことで思わぬトラブルに巻き込まれる場合もあるとして、情報処理推進機構(IPA)が注意を呼び掛けている。投稿した写真に含まれた位置情報で居場所が特定されたり、一緒に写っている人に無断で投稿してトラブルに巻き込まれる場合もあると指摘している。」

 SNS、そう、このあいだ知ったばかりの「出会い系サイト」のことだが、IPA(Information- technology Promotion Agency)なんて奇妙な組織があることも初めて知った。記事を読んでみてもどうも釈然としないのは、写真によって居場所が特定されることをなぜ避けなければならないのか、ということだ。先ほどのアリバイにかこつけて言うなら、避けるということはその当人が警察から追われている犯罪者であるからなのか、あるいは居場所を知られることによって、たとえばマフィアなどから危害を加えられたり、時には殺されるリスクがあるからなのか。
 どちらにしても一般人が、例えばいかがわしい(?)場所に出入りしていることを知られたくないなどのごく特殊な場合を除いて、居場所を知られることを避けるのは実におかしな話だ。
 先日もたまたま見たテレビ画面で、なんとも嫌な感じを味わった。或るイケメン男性歌手がアポなしで街中を取材するという番組らしく、一軒の食堂の中で取材許可を求めて店長と交渉している場面だった。店内には一人の男性客の後姿が見えたが、店長はこんなところでよかったらどうぞ、と応諾しているのに、その男性客が迷惑がって断れ、と言っているらしい。もちろんそれで交渉は決裂したのだが、しかしなんともいやーな感じが残った。つまりその男性客がまるで犯罪者のように見えてきたのだ。
 最近、ラーメン屋かどこかで元ラガーの巨漢が空いた隣席に座ることをを断られただけの理由でその相手を踏み殺した事件などを連想して、なんだか街全体が殺気をはらんでいるような気がした。一昔前など田舎はもちろん、東京でも下町など誰の家も開けっ放しで、今で言うプライバシーなどプの字(?)も気にしなかったのに、今じゃだれもがガードを固くして他人を寄せ付けまいとしている。でもどんなにガードを固くしても、プロにかかったらどんな鍵も個人情報も易々と開けられたり盗まれたりする時代になっているのに。
 先般来の特定秘密保護法などという国家的規模のいかがわしい法律が制定されたかと思うと、国民レベルでは個人情報保護条例とやらがどんどん一人歩きして、いまじゃガキ、失礼、幼稚園児までがプライバシーを口にする時代になってしまった。もうどこかで書いたことで繰り返したくはないが、ちょっと前まではご近所のだれかれについて一通りのことは知っていたのに、最近ではまさに隣りは何をする人ぞ、で町内全体がブラックボックス化している。大袈裟に言えば(いえ、決して大袈裟じゃありません)巨大犯罪都市の隣近所とひとつも変わらなくなってきているのだ。
 私なぞ自慢じゃないがホームページに、見る人もいないのに赤ちゃんの時からの写真を載せている。一時期ホームページ全盛の時代、私のもののようなホームページはどこでも見かけたが、さて今ではどうだろう。すっかり無くなっているのではないだろうか。先日もむかしの伝言板について■さんが言っていたが、ネットの世界も激変しているようだ。
 でもなにも有名人やスターだけではなく、ふつうの人の姿や日常がふつうに見れるというのは楽しいことじゃない? 誕生日が私と同じサローヤンやフィリップの小説世界、つまりふつうの、当たり前の人間たちのことを知ること、いや、その前にそういう人たちに共感し興味を持つということ、これとても大事なことだと思うよ。

「でも最近では合成写真やCG(computer graphics)が容易に作れる時代だから、そうしたほのぼの写真にころっと騙される危険もあるって? もちろん騙されることだってある。でもだからといってすべてを疑ったり避けたりするのはちょっと行き過ぎじゃない? そんなことを言ってたら君(だれ?)の世界はどんどん狭く味気なくなっていくよ。貞房さんがいつも言ってるだろ? 自分の目で見、自分の頭で考え、そして何よりも大事なのは自分の心で感じること、だって」
「あゝそうか、結論はそこに行くか?」
「そう、その原則さえしっかり守れば、あとは大きく心を開いて、おおらかな気持ちで生きていけばいいじゃない? 瞬間湯沸かし器の異名を持つぼくだけど、そのくらいの度量は持ちたいものだね」
「君の理想像だった笠智衆さんみたいに、ニコニコしながら、それはよかった、よかった、と言いながらね」
「よーく分かってるじゃない。だからさ、ぼくは連休でも家内の面倒をみなけりゃならないので出かけられないけど、出先でカメラを向けられたら、やめてください、なんて無粋なこと(別にブスに掛けているわけじゃありません)言わないで、その花のような顔(かんばせ)をにっこりカメラに見せてほしいね。いずれアヤメかカキツバタ、どんな不美人でも美人に見えるぜ」
「ちょとそれ失礼だよ。そうだ、ボクも出かけて被写体になろっと」
「君も僕とおなじ、出かけけられないんだぜ」
「…あっそか。残念! 今度の連休に出かけられる人、私たちの代わりに楽しんできて!」

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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