「久しぶりだね 、こうして呼び出されるのは。さては行き詰ってるな」
「行き詰ってるというより、このところ心ここにあらず、と言った状態が続いている」
「それはまたどうして?」
「根底にあるのは、今日もその最終チェックだったが、頴美さんの今後の治療計画がまだはっきりしないということ。でももっと具体的なきっかけはパソコンにまつわるトラブル」
「またか。今度は何?」
「先ずはラン・ディスクの不調。良くは知らんけど、つまりデータを保管し、パソコン本体が故障してもデータを取り出せるというやつで、二階の本棚の上に設置してるんだが、十日ほど前かな、ぜんぜん繋がらなくなった。それで購入後5年くらいになるからガタが来たのかと」
「それでSに勤め帰りに寄ってもらった?」
「そう、そのときも二日ほど続いていた故障が相変わらず直っていないので、彼が適当な機種を注文してくれることになった。ところがだよ、その夜、不思議なことが起こった」
「なんだいその不思議なことって?」
「急に直ったんだよ。何回も何回も確かめたんだけどすっかり直ってるんだ」
「不思議というより、なんだか生き物みたいで気持悪いね」
「ほんと。でもそれ以来ずっと調子が良く、もしかすると以前よりスピード・アップしたみたいなんだ」
「それで注文は取り消したわけ?」
「いや、すぐSに電話したんだけど、既に発送の手続きに入ってて、取り消しできなかった。でもそのうちまた具合悪くなるかも知れないんで保険として取り合えず購入しておくことにした。ところが今度はプリンターの調子が悪くなった。つまり印刷不能。でもラン・ディスクのこともあるのでこの数日間、何度も何度も試していた。挙句の果てに、壊れて捨てるばっかりになっていた古いプリンターまで引っ張り出してきて蘇生手術を繰り返していた」
「それでか、なんだか浮かない顔で心ここにあらずの状態が続いていたのは」
「そう、でも今度は奇跡は起こらなかった。やつらやっぱ機械に過ぎない。人間がどんなに本気になっても壊れたものが熱意で直ることは無い」
「でも昨今の機械類はデジタル式になっていて、先ほどのラン・ディスクのように突然直ったりするから訳がわからん」
「いやそもそも、デジタルとアナログの違い、漠然とは分かるが正確にどうなのか分からない」
「そうだよね、でもこの歳になると、もうそんなこと今さら調べる気にもならんね。世の中、分からんことがいっぱいあって」
「もちろん分からんことだらけ。これまでだったら分からんことがあってもあまり気にならなかったけど、最近では自分の無知に愕然とする。今日もね、亡くなられた真鍋呉夫さんにいただいたまま読んでなかった『天馬漂泊』(幻戯書房、2012年)の中の、保田与重郎の死にまつわる短編を読んでいると、たった20年くらいしか差が無い先輩たちの、とりわけ中国や日本古典の造詣の深さに驚いている。つまりいま彼等の教養を受け継いでいる人たちがいるのか、いないのか。少なくとも私自身は断絶している」
「生涯の大半をスペインに関わる勉強をしてきたといっても知れたもんだし…」
「やめよう、この話。だんだん気が滅入ってきた。ま、自分の能力が許す範囲の勉強は死ぬまで続けようや。それにしてもパソコンの話からやけに湿っぽい話になっちゃったね。さあ、明るく頑張ろ」
「で、プリンターはどうする?」
「念力で直すのは諦めて、今日安い中古のものアマゾンに発注した」
「そうだよね、漱石さんにも、はたまた呉夫さんにもなかったパソコンにまつわる悩みだけど、わが生活にここまで深く食い込んでしまっては今さらどうすることもできない。死ぬまで続く腐れ縁と諦めて、うまく付き合っていくしかないね」
「そういうこと」
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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