海を渡る平和菌

いよいよ平和菌が海を渡ることになった。先ず最初はスペイン、次いで韓国へ。
 3.11が近づいてきたせいか、このところいろいろなところからの取材が続いた。記事などになる前にここですっぱ抜くことは控えたいが、ただ平和菌渡海については海外のことなので事前に書いてもかまわないだろう。
 先ずスペイン。実は今日の午後、友人のロブレードさんの先導でスペインの日刊紙「エル・パイース」の記者氏とカメラマンが訪ねてきた。時おりロブレードさんの助け舟に頼りながら、へたくそなスペイン語でインタビューに応じたり写真に撮られたりしていたが、途中から、きっちり数えたわけではないがおそらく五,六人の同行の若いスペイン人たちが部屋に入ってきた。こんなにたくさんのスペイン人を一度に見たのは、36年前のスペイン旅行以来である。なんと言うカメラか分からないが、ロブレードさんの話だと360度ぐるっと見れるような動画を撮影するためらしい。つまり「エル・パイース」のホームページ掲載のための動画のようだ。最後は全員が部屋の外に出て、残った一人のカメラマンが書庫全景を写した。ウナムーノやオルテガの全集の側に美子の紙パンツや尿取りパッドの袋が並んでいるという奇妙な光景だが、まあいいや。
 そんなことより大事なのは、その彼ら全員にひとくさり「ケセラン・パサラン」の歴史を講釈したあとでそれがリフレインになっている「平和菌の歌」の豆本を、お守り(talisman)もしくは護符(amuleto)として携帯して欲しいと渡したことである。ケセラン・パサランの後に私がコモ・パサラン(将来起こるであろうように、といった意味)を付け加えたことも言い添えて。
 実はその直前、美子の「声まねワンちゃん」を持ち出してきて、「このワンちゃんはとても賢い。スペイン語も話せるから声をかけてごらん」と言ったら、彼ら本気になって「君、カタルーニャ語も話せる?」と聞いたら、その通り応えたので大うけ、大笑い。
 そんな奇癖を持つ被災地の老教授が帰り際に渡した豆本、断ることもできずに皆さん喜んで(?)もらってくれました。正確な数は覚えていないが、或る人には2、3個渡したから、たぶん合計13、4個進呈したか。
 韓国には、3月3日、たぶんソウルで行われる鄭周河さんの『奪われた野にも春は来るか』の韓国語版出版記念会に出席する予定のY・Yさんが韓国にも平和菌を広めてあげましょう、という寛大な申し入れに、たぶん最低10冊(T新聞のS記者の言い方に倣えば凶弾十発)をお渡しする予定。
 以上「平和菌」海を渡るのお粗末でした、♬♫

※ あのT新聞のS記者、人を乗せる天才です。豆本もしかすると千冊まで作り続けるかも、とメールしたところ、「まさに、千冊は、祈り込めた「千羽鶴」の様相ですね!」と来た。よっしゃ!これにも乗りましょう、チェーン店の拡大を目指すキャバレーかパチンコ屋のオーナーじゃないけど、「目標、千発!」と行きまーす。ちなみに今朝現在、232発(20日記す)

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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