増上慢?

 本モノディアロゴスの第一巻に当たる行路社版について、アマゾンの読者評に立野正裕さんが素晴らしい文章を寄せておられる。モンテーニュやアラン、アミエルや森有正、さらには何とウナムーノとほとんど比肩させての、これ以上はあり得ないご高評を頂いたので、嬉しくてたまらず、つい数人の友人たちにコピーを送ったところ、さっそくビオリストの川口彩子さんから共鳴とお祝いのメールが届いた。さあこうなるとさらに多くの人にも読んで頂きたくなるのは、これはもう自然の理であろう。
 母の従妹のよっちゃん(あっ健次郎叔父の帰天のことまだ知らせてなかった。当分このままにしておこう)の言い草を借りると、「私ゃ煽てにはいつでも乗っかっと」を私自身のモットーにしているので、どうぞ増上慢などと非難しないでいただきたい。今や愛妻のために「しと(尿)取りの翁」と化したロートル(老頭児)のせめてもの自恣と思って。
 それでは早速その書評を以下にお目にかけよう。



★行路社版『モノディアロゴス』読者書評
トップカスタマーレビュー
5つ星のうち 5.0


独自の地平を切り開く新しい文学の試みと実践!

投稿者 homo viator 投稿日 2016/11/7

アランはルーアンのローカルな新聞にコラムを書くのを自己の思想と批評の実践とみなした人だった。政治、経済から教育、宗教、文学、芸術、存在論などにいたる人間生活の万般を主題として健筆をふるった。本書『モノディアロゴス』もまたその血脈に連なる営為の所産であると言っていい。

the fugitive(逃れ行く者)と自らをみなす現代の思索者が、中央からの視線ではなく、現代日本において沖縄と並び、いわば最も「危機的な地点」である福島に発想の根拠を置き、「魂の重心を低く」保ちつつ、そこから現代のハイテク情報発信手段であるブログを通じて、抽象的な概念やソフィスティケートされた専門用語や術語によらず、あくまで日常語を駆使し、ときに相馬方言すら交えて読者を哄笑させ、足元の日々を凝視すると同時に、日本および世界の動向へと批評的な視野を自由に拡大し続ける柔軟でユニークな、しかも右顧左眄することのない独自の思考のスタイルを確立したのである。

本書は著者の日録という趣を持つ。だが、こうして一冊にまとめられてみると、たんに日録の一年分をくくったというようなものではないことに気づかされる。日々を貫くのは有機的な全体性を持った粘り強い思考である。そこから結実した本書は一種独特の文学作品であり、一種独特の思索の書であり、一種独特の小説であると言っても過言ではない。

著者はつい先ごろ『モノディアロゴス』第13巻の刊行を果たしたばかりである。
通算13巻! その旺盛な日々の執筆力と持続する精神とに心から敬服しないわけにはいかない。モンテーニュの『エッセイ』、アランの『語録』、アミエルの日記、森有正の日記、そしてウナムーノの Diario íntimo などがたちどころに想起されるが、質においてそれらにほとんど比肩し、量においてはすでにそれらを凌駕していると言わなくてはならない。

なにをきっかけに自分がモノディアロゴスの愛読者となったのか、たんなる偶然だったのか、それともしかるべき経緯があったのか、それははっきりとは覚えていないのだが、とにかく著者「佐々木孝」をウナムーノやオルテガの研究者として、なかんずくウナムーノの代表的な小説『聖マヌエル・ブエノ』の訳者として、その作品を漱石の『こころ』と初めて関連づけながら真剣に考察した人として、自分がながいあいだ印象深く心にとどめてきたことは事実だ。

それゆえ、『モノディアロゴス』を読んでいると、「野に遺賢なし」の逆で、まさに「野に遺賢あり」と言いたくなってくるのである。

現に著者の『ドン・キホーテの哲学 ウナムーノの思想と生涯』(講談社新書) は年来わたしの愛読書であり、古書店で見つけるたびに購入し、若い意欲的な友人たちにも一読を進めるのを常としてきた。再刊される価値のある本だが、何年も品切れとなっているのは残念でならない。この『モノディアロゴス』第1巻も店頭ではなかなか見かけなくなっている。さいわい続刊は最新刊第13巻にいたるまで著者の手で私家版が作られており、希望者は実費(各巻850円から1000円程度)で送ってもらえる。(アクセスは簡単だ。インターネットで「モノディアロゴス」を検索すればいいだけである。)

およそ商業主義とは無縁の、独自の地平に耕された思考の軌跡がここにはある!

アバター画像

佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
カテゴリー: モノディアロゴス パーマリンク

増上慢? への3件のフィードバック

  1. 阿部修義 のコメント:

     先生が言われているように、立野さんの『モノディアロゴス』の書評は学問的骨格の太さを感じさせる素晴らしい文章だと思います。書評の中の『アミエルの日記』という本を昔読んだことがあったので、書棚から探し出しパラパラ捲っていましたら所々傍線が引いてありましたて、こんな文章がありました。

     「進歩は松明を燃焼させ、死を速める。非常に速く変化する社会は、ただいっそう早く終末に達するというだけのことである。あまりにも早熟な子供は成熟するに至らない。進歩は人生の香りでなければならず、本質であってはならない。(角川文庫『アミエルの日記 上巻 下巻』 土居寛之訳 昭和34年2月20日 5版発行)」

     『モノディアロゴス』の中で、先生が伊東静雄の詩※を何度も引用されていますが、その詩に通じるものが、このアミエルの言葉にもあるように思います。

     ※「2012年5月10日「クイナは飛ばずに」

     

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    忘れてました。そうです、秧鶏(くいな)は飛ばずに全路を歩いてくるんです。
    いつもいつもありがとう!

  3. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    澤井様
     ありがとうございます。家内も、息子の一家もおかげさまで大過なく過ごしております。大兄のブログも、いつも熱風が吹いているようで、陰ながら応援しています。
    どうぞお元気で。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください