島尾敏雄との距離(『青銅時代』島尾敏雄追悼)(1987年11月)

 

島尾敏雄との距離


佐々木 孝

 とても無神経で手前勝手な言い方に聞こえるかも知れない。しかし島尾敏雄を失って心の中にポッカリと大きな穴が開いたような寂しさ、無念さを感じると同時に、それとはまったく矛盾した感慨だが、私には以前より島尾敏雄がより身近に感じられる。彼の作品を読んだり、彼のことを考える時間が増え、雑駁な日々の中で彼との語らいが荒れた心を鎮めてくれる。

 島尾敏雄が出血性脳梗塞に陥ったことは、昨年の一一月一一日、夜七時半ごろ、相馬の母からの電話(令弟の義郎氏から知らされたそうだ)で知った。あまりに突然のことで、鹿児島に駆けつけるとか電話を掛けてみるといった現実的な才覚がいっさい働かず、ただ呆然としていた。この感じどこかで経験したな、と考えたら、もう二〇数年前、やはり敬愛していた叔父の死のときと同じであることに思いあたった。あの時も臨終の知らせを受けながら、北海道までの絶望的な距離の前にただおろおろするばかりであった。田舎の小さな大学での抜き差しならぬ雑用も鹿児島に駆けつけることを思い留まらせた。ただ長男の伸三さん夫妻が仕事で香港に行っており、八方手を尽くしているが、どうしても連絡が取れないというのが大いに気掛かりであった。もちろん何かとお世話くださる方々にはこと欠かないであろうが、ミホさんとマヤさんがどれほど心細い思いをしているか、それを思うと心が痛んだ。
 次の日の夜九時ごろ、小川国夫氏夫人から、いま出版社の人に脳死の状態になったことを知らされたが、とお電話があった。いまから思うと、この電話を受けてから一時間後に島尾敏雄の霊は天国に召されたことになる。
 翌一三日の朝七時ごろ、相馬の母からの電話で彼の死を確認した。朝刊を見ると、彼の死が報じられていた。あまりにあっけない死で実感が湧いて来ない。ただミホさんの深い悲しみだけが現実的なものとして意識を占めていた。
 彼の死からちょうど一〇日後の二二日、ようやく時間がとれて家内と二人で鹿児島に行った。そのときの様子は、めったに日記などつけたことのない家内が詳細に記録しているので、そこから借りることにする。

「空港に降り立つと、まるで夏の日差し。周辺の蘇鉄の植え込みが南国に来たことを感じさせる。リムジンにて鹿児島市内まで約五〇分。途中、以前島尾さんが住んでおられた加治木と吉野を通る。街なかに入ると景色全体が何となく薄汚れた感じを受けたが、これは後になって桜島の噴火の際の降灰であることがわかった。西鹿児島駅でリムジンを降りタクシーを拾い宇宿町の島尾宅に向かう。途中、花屋さんの前で止めてもらい、白菊とかすみ草の花束を作ってもらう。約一〇分で宇宿の商店街をちょっと入ったところの島尾さんの家に着く。石垣と松の植え込みをめぐらした二階建ての大きな家。インターホーンで案内を乞うと伸三さんの奥さんらしい人の声。玄関に入ると、ミホさんが出てこられた。『タカシちゃん、敏雄さんは死んじゃったのよ』と細い高い声で歌うようにおっしゃる。何の挨拶の言葉も出て来ず、ただおじぎをくり返した。玄関に入って左、応接間と書斎をかねた洋間に隣りあった日本間の片隅にローソク一本とひとかかえの白菊の入った壺、そして高く積まれた弔電だけで飾られた敏雄さんの写真。つつましく美しい祭壇だった。昨年一二月に越してこられた現在の家の書庫でミホさんと一緒に蔵書の整理中に気分が悪くなり、その場で数冊の本を枕がわりにあてて横たわり、救急車を呼んだそうだ。そのときの軍手とメガネ、そしてはいていた靴の片方はそのまま書庫の床に置かれたままであった。
 ダンボールの箱の上に腰をおろして『少し疲れたから休んでいいですか?』と言いますので『それじゃ私も一緒に休みましょうか』と答えてフッと顔をのぞきますと、とてもさびしそうな顔をしていますので、『そんなお顔なさると冗談でもびっくりするじゃあありませんか』と私言ったんです。でもその時、もうくちびるが真っ青でしたので、とにかくかかえて床に寝かせて救急車を呼びました。救急車に乗りますとき、『お父さま、メガネはどうなさいますか?』と聞きましたら『メガネは置いてて下さい』と申しました。一一日の夕方、パジャマの替えを取りに病院を出た頃はもう意識がなかったのではないかと思います。脳死の状態でした。一一月の一一日は敏雄さんのお母さまの命日で、今年も義郎とゆっくりお母さんの話でもしたいね、と言っておりました。特攻隊の出撃がとりやめになったのも一一日でしたので、ああ、お母さんが守ってくれたんだと思う、といつも敏雄さんが言っていました。ですから一一日という日が私はこわいような気持でした。どうぞ助けて下さいと祈っておりました。でも、お母さまの命日の日に死んだなんて……私は脳死状態になった一一日が敏雄さんの本当に死んだ日だと思っています。いつも敏雄さんはミホより一日でも一時間でも後に死にたい、ミホに悲しい思いをさせたくない、と言っておりましたのに。私はマヤさえいなければ今すぐにでも敏雄さんのところに行きたいんです。でもマヤのために、……。あの写真とても若々しいでしょう。お医者様にいつも島尾先生の身体は三十代ですと言われていたんですよ。髪も黒くて、白髪が出ると、私、毎日その白髪を根元からハサミで切っていたんです。時には三時間もかかることがあったんです。そして顔もガーゼに石鹸をつけて毎朝、私が洗ってやりました。時々『ミホ、今日は寒いから自分で洗ってもいいですか』と申しましても、『ダメダメ』と言って洗ってやりました。旅行に出てもしょっちゅう電話をくれて、そして『一人で旅行するのも二週間が限度だね』と言っていました。ようやく気に入った家も見付かって、ここでマヤと三人でひっそりと暮らしておりましたのに。『ミホのために、ミホさえよければ。家族のためなら文学もいらない』と言っておりました。でも私は、ああもすればよかった、こうもしたかったと思い残すことはありません。
 夜、お寿司と、登久子さんが作ったステーキをごちそうになりながら伸三さんと三人で話す。ミホさんはマヤさんたちと食堂で食事をしていたようだ。口数は少ないけど面白い人だと思う。『お父様によく似ていらっしゃるのでびっくりしました』と言うと『違いますよォ』と言う。『もう飲んだくれてひどいものです』と静かに言う。『母はあのように父の身体は別にどこといって悪いところはなかったなどと言っていますが、実際はいつ死んでもおかしくないくらい全部がガタガタだったんですよ。僕はわかっていました』
 八時過ぎ失礼する。タクシーに乗り込んでから後を振り向くと、暗い門の前でマヤさんがつま先立って右手をまっすぐに伸ばして手を振り続けていた……」

 その夜は鹿児島のホテルに泊まり、翌日、鹿児島を離れる前に、昼ごろもう一度お宅に伺った。ミホさんは頭から黒いベールをかぶり、黒い裾長のドレス(イヴニングドレスとして敏雄さんが作ってくれたとのこと)で盛装して待っていた。玄関脇の書庫、二階の書斎など案内してもらった。書庫にはまだ未整理のままのダンボールの箱が相当数残っていたが、本が取り出された箱は几帳面に畳んで重ねられていた。昨夜ミホさんが言ったように、彼が倒れた場所に眼鏡や軍手がそのままになっていた。おびただしい数の蔵書には、おそらく南島関係のものがかなり混じっていたように思われる。

 ところで編集同人から求められたのは、島尾敏雄追悼の文章である。その趣旨に添うことになるかどうかは分らぬが、この機会を利用して彼との出会いから現在まで交流を振り返ってみたい。かつて筑摩書房版の『島尾敏雄・安岡章太郎・庄野潤三・吉行淳之介』の月報にも書いたように、彼との最初の出会いは私の幼児期に遡るが、本当の意味で彼と出会ったのは、昭和三九年の夏であった。そのころ私は広島市郊外長束のイエズス会修練院にいた。二年間の修練のあと、ラテン語・ギリシア語やキリスト教史の勉強のかたわらそれぞれの希望で自由に本が読めるようになったとき、私は現代日本の文学に興味を感じ、小さな図書館にあった作品をいくつか読み始めた。そしてそのとき初めて彼に手紙を出した。彼からは同年一〇月二二日の日付けで次のような返事を受け取った。
 「お手紙ありがとうございます とてもなつかしく拝見しました 同封の写真もありがとう 昭和十六、七のころでしたか、千代ちゃん夫婦と一郎ちゃん夫婦(まだ結婚したばかりでした)がそれぞれ満州と蒙古に移住するときのことを思い出したりしました そのとき九州大学の学生だった私と博多航空隊に居た健ちゃんとみんないっしょに会って別れを惜しんだのです そのとき私が写したスナップ写真がのこっていますが まだ小さなヒロシ君とミチコちゃんが(名前がちがっていませんか、心配ですが)夢中になって走っているところです あなたはそのときまだ生まれていなかったと記憶します〔註 実は昭和十四年の生まれであるからそのときいたはずだが、小さくて気がつかなかったのであろう〕 その後私は熱河省欒平県鞍匠屯まで千代ちゃんをたずねて行ったこともあります
 みんな過ぎ去りましたが、ヒロシ君はすでにカナダで神父様になり またあなたはイエズス会で修練なさっていることを知り、なんだかうそのようです
 私は奄美にきてからカトリック信者になりましたが 妻の一族が明治の中ごろからの信者で自然オミドウに通うことになって洗礼を受けました
 千代ちゃんの実家の安藤氏はキリスト教の氏族だと子供のとききかされて、不思議な気持を抱いていましたが、キリシタンだったのでしょうか、などと思っています
 私の小説を読んでいただき、本当にありがとうございました
 私は文学のことなどよくわからずに書いてきましたがいつも手の力が及ばずにいます ただ一足とびに西欧の文学の方法を使うことに疑問を持ち、と言って日本の文学伝統にもあきたらぬもの、よくわからぬところがあり、手さぐりで立往生というところです。
 いつも両極に引っぱりっこしているものをいっしょにつかみとろうとしているようにも思い、うまく行きません
 日本の伝統をふまえて超日本的なものに生い立つ、という御意見は私も賛成です 善蔵と直哉の名前をあげておいでですが、きっとあなたは近代日本文学の上の私小説の問題にぶつかっていらっしゃるように思います その系譜が妥当かどうか私はよく読んでいないのでちょっとはっきりした見通しがつきません
 私のことについてはとても自分で言うことはできませんが 日本の土着性という湿地に足をとられながら、やはり普遍的な世界にぬけでて行きたいといつも思っています ただし逃げ出すのでなく
 長いあいだ九州に住み(長崎や福岡、佐世保、奄美)私は九州のもつ日本的要素にいつもぶつかり、そして東北的な気質というものを対蹠的に思い浮かべている状況です、ちょっと大ざっぱですが そうすると先の善蔵も直哉も東北的環境の出身であることが面白いと感じました しかし系譜をつくるには私はちょっと材料の持ち合わせが少ないです
 手紙ではうまく書けませんね、ゆっくりおはなしし合いたいものです
 でもこれからも時々おたよりを下さい
 伸三は熊本のマリスト学園高校一年です(マリスト修道会経営)寮にはいっています
 マヤは今 家に居て中学(二年)に通っています
 ミホはマヤに言語訓練をしています
    十月二十二日                          敏雄
孝様
 日本の現代文学研究上のことで何か私でも役立つことがあればいつでもお手伝いしたいと思っています」

 そのころ私の方から何を書き送ったのかまったく記憶にないが、彼からの手紙は彼の人柄を示す実にていねいな字で書かれている。さらに翌年二月には次のような返事をもらった。

「二度目のお手紙へ返事と思っているうち、三度目のお手紙いただきました
 去年は十一月中旬から十二月まで沖縄に行き そのあと風邪をひいて寝込んだまま歳を越しました それでおくれたのですおゆるし下さい
 ぼくのものを色々よんで下さってほんとうにうれしいです ぼく自身全く手さぐりで小説を書いていると言っていいですが、ぼくもやはり純粋に文学的な立場など考えることができません どちらかというともっと別なところで仕事をしながら(もちろん文字を使っての表現のわざになりますが)結果的にそれを文学と見られるなら それでよいと思ったりしています といっても文学以前のところで未熟ですので少しずつでも充実させたい気持ちです
 試論を書いて下さった由、いつかどこかでそれが拝見できることを待っています どうかかしゃくのない槍でぼくの書いたものを貫いて下さい 作品集の三は絶版になっていますので、手もとにあるものを別便でお送りしました その後 新潮社から出してもらった短編集『出発は遂に訪れず』があるだけです まだ本になっていない短編がそのあとに三四篇あります
 伸三はどの方面に進むやらまだ混沌としているようです ミホの一族は信者が多く、ミホも生まれるとすぐ洗礼を受けていました 伸三は小学校の二年のころの受洗ですが ずいぶん深くカトリックのことがはいっているように見受けられます ぼくは自分の身うちから二人も神父様が出るのでとてもほこりにしています どうかぼくたち家族のために祈って下さい 取急ぎ御返事したためました
 沖縄旅行の手記を同封してみます
    二月十三日                       ペトロ敏雄より
アシジのフランシスコ・孝様                        」

 二通も彼の手紙を引用したのは他でもない。ここには、血の繋がった若い神学生に対する期待感と、未熟な文学青年に対する彼のやさしい心遣いが実によく表われているからである。事実、その後、彼は上京のたびに彼の友人である作家や評論家に私を引き合わせてくれた。埴谷雄高、安岡章太郎、吉本隆明、奥野健男、森川達也、三枝和子、などの諸氏である。もちろん小川国夫氏を紹介してくれ、『青銅時代』の同人になるきっかけを作ってくれたのも彼である。昭和四一年の夏には、名瀬の彼の家に約一月押しかけたこともある。いまその当時の日記を初めて読み返してみたが、実に手前勝手な客人だったことが思い返されて火の出るような恥ずかしさを覚える。東京から彼のアメリカ人の知人の二人の男の子を同道しての訪問だったが、和室の彼の書斎兼寝室で約一月間、彼と一緒に過ごした。確かベッドがあって、それも私が占領したのだったか。いや、私はその横の畳の上に布団を敷いて寝たのだったか。文学づいた聖職者の卵の独善的な姿が目に浮かぶようだ。もっとも何日間か彼は出張で家を留守にしていたはずだ。名瀬市郊外の空港に見送りに行ったか迎えに行ったときの記憶がある。しかしそれにしても大変迷惑な滞在者だったのに、彼やミホさんの好意に甘えっ放しで、何も見えていなかったとしか言いようがない。
 ともあれ彼としては私が聖職者の道をまっとうに歩くかぎりにおいて、文学の勉強を手伝ってあげよう、という気持だったと思う。しかしその間の事情は省略するが、私の方は、翌年その期待を見事に裏切ってイエズス会を退会してしまった。昭和四二年一一月、還俗の決意を奄美に知らせたとき、彼は国内にいなかった。年譜を見ると、一〇月末から一二月中旬にかけてソビエト、ポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、オーストリアへの「東欧への旅」をしていた。留守宅のミホさんからは驚きと思い遣りに満ちた長文のお手紙をいただいた。「….御便りを戴きました時、大きなショックで文面を拝見しながらマヤと二人で涙をポロポロとこぼしました。決断を下されるまでの御気持御拝察申し上げられてなりません。御便り読み終ってすぐ、お苦しみのさなかの孝ちゃんの御声なりと…と存じましてすぐ電話を申し込みまして夜十時過ぎまで図書館の電話口でマヤと二人で通話をお待ちして居りましたが一向に東京への通話が通じませず、マヤが『十時が修院の門限ですから消灯も十時かもしれないから、お電話があまりおそくなっては孝御兄さまに御迷惑かもしれない』と申しますので、通話を取消して家に帰りました次第でございます」。
 次の一二月一五日付けのミホさんの手紙には、「敏雄さんを迎えに横浜迄いらして下さってありがとうございました とてもよろこんでいました」とあるが、私にはその時の記憶がすっぽり欠落している。一一月一二日には上石神井のイエズス会神学院を出て相馬に帰郷しており、一二月のおそらくは一五日の彼の帰国を上京して迎えたはずなのだが、そのとき初対面で以後一度も会ったことのない弓立社の宮下氏のことはぼんやり記憶しているのに(もっとも名前だけで顔の方はまったく覚えていない)、肝心の島尾敏雄の姿、そのとき交わしたはずの会話は何も覚えていない。いや、黒い鞄を肩から下げてタラップを降りてくる彼の姿が切れぎれに浮かんできたが、会話の方はどうしても思い出せない。それ以後の彼の手紙で私の還俗のことは一切触れていないから、そのとき彼がなんらかの感想を述べたはずだ。ローマンカラー無しで迎えた私の姿を見てすべてを察し、おそらく励ましの言葉をかけてくれたに違いない。
 翌年一一月、私の方は早くも結婚。その時、彼に仲人になってくれないか、などとまたまた無理難題をふっかけている。結婚式出席は無理だが九月初旬に札幌での全国図書館大会への出席の帰途、相馬に寄るからとの返事があり、事実その通りになった。
 翌四四年、あの自転車事故という災厄が彼を見舞う。しかしそのころから私の方もいろいろと不如意のことが続き、彼の気鬱が徐々に悪化していたのに、それを気遣うだけの心の余裕もなかった。実は昨年秋、彼に死が訪れる直前まで、私は出たばかりの『続日の移ろい』を読んでいた。そしてその当時の彼の日々をいろいろと思い巡らしていた。
 ところで、私が結婚して大学の教師を生業にするようになって安心したのか(もちろん自転車事故以後の「日々の移ろい」をじっと耐える必要があったからでもあるが)、以後彼からの手紙は間遠になった。しかし心のどこかで気になっていたかも知れないことは、『夢日記』の昭和四五年の次のような箇所からもうかがえる。

「 一月三日
 孝
 何かインボー発覚。彼関係していて処罰されることがきまっている。彼と会い、つい彼の行動に同情的な言葉を出す。もっとくわしくききただしたい様子。しかしそれはまだ時が来ていないのでぼくは言えぬ。あいだにへんな『時』がはさまった。言わぬと彼を裏切る事になると思う。
 彼を避けて逃げる。そばを通っても気づかぬふりをする。町歩き。城下町のようでもある。ふもと町のような所。彼は何人かとやってくる。隠れるように避ける。何とか決着つけなければならぬと思う。」

 私にとって彼の文学に触れたことが本当の意味での人間発見に繋がり(広島の修練院で彼の作品を初めて読んだ時の強烈な印象は今でも鮮明に覚えている)、それが聖職者への道を断念する一つのきっかけとなったことは否定できない(そしてそれは島尾敏雄に対する私の深い敬愛と感謝の念の根源にあるものだが)。しかしもしかすると、それが彼にとっては一つの負担であったのかも知れない。少なくとも彼がそのことを気にしていたらしいことは、今回鹿児島でミホさんから聞くことができた。
 没後一ヵ月の一二月一三日、上智大学の小聖堂で行われた追悼ミサの翌日、家内と私は、お茶の水の山の上ホテルに投宿していたミホさんとマヤさんを訪れた。ロビーで待っていた私たちの前に現れたのは外出姿の二人の姿であった。これから高輪の泉岳寺に義士祭を見に行こうという。敏雄さんが生前、機会があったら義士祭に行こうと言っていたそうで、いい機会だから一緒しようというのである。身も心もズタズタになるような心痛の日々を送ってきたミホさんたちにとって、おそらくそれが故人を偲ぶ本当の意味での追悼の行為なのだと心から納得して、さっそくタクシーで泉岳寺に向かった。その途次、車の中でミホさんがふと「孝ちゃん、八王子の純心で教えたら」と言う。実は鹿児島の彼の家を訪ねたとき以来、頭にこびり付いて離れぬ一つの妄想があった。それはもし可能なら彼が最後の職場とし、そしていまマヤさんがその図書館に勤める鹿児島純心女子短大に移れないだろうか、という考えである。それによっていままで果たせなかった恩返しが少しでも可能だなどと思い上がっているわけではない。ただできるだけ彼の世界に近付きたいがために他ならない。しかし現実的に考えてそれが無理なことは初めから明らかであった。それに、頼りになる伸三さんと登久子さんがいるのに、それはあまりにも出過ぎた行為である。
 車の中のミホさんの言葉はそうした私の気持ちを察してくれたものだったと思う。そのときは現実味のないものだったが、しかしその後、思いもかけない筋からの接触があり、近い将来それが現実のものとなりそうだ。三月末、八王子の純心を訪れた夜、ホテルからミホさんにそのことを報告したら、敏雄さんの取り計らいかも知れないね、と言う。実際、今回の推移には、彼の影が感じられてならない。同系列の短大に勤めたからといって、鹿児島に近くなるわけではないが、彼をいまもって深く敬愛する修道女たちの経営する職場で働くことはともかくも私の心を慰める。そのときお会いしたシスター・ユーゼニアが「島尾先生は私にとって実の父親以上に父親みたいな人でした」と、ふっと涙ぐみながら話してくださったのが印象的である。小川国夫氏夫人の話によると、この九月から小川氏も鹿児島純心に集中講義に行かれるそうだ。こうして私にとって純心聖母会発祥の地である長崎そして鹿児島がにわかに身近なものになって来たし、それは同時に島尾敏雄の世界に近付くことにも繋がる。そしてこれが私にとって島尾敏雄に対するいちばん相応しい距離ではないか、と思っている。つまり近過ぎもせず遠過ぎもせず。

 八王子訪問の後、足を伸ばして相馬の彼の墓に詣でた。酷しい寒さが去って、相馬にも春が訪れていた。牧歌的な風景の中にも、しかし浅薄な都会文化の波が押し寄せているのか、小高い墓所へと通じる一本道の途中に、冗談のように突如、邪悪な看板を掲げたモーテルがあったりする。おそらく墓の中の彼も苦笑しているであろうが、しかし彼はこの卑小な現実からけっして逃げ出さないであろう。「日本の土着性という湿地に足をとられながら、やはり普遍的な世界へぬけでて行きたいといつも思っています ただし逃げ出すのではなく」彼の存在が濃密に感じられる場所はと言えば、もちろん彼が後半生の大部分を過し、その文学的営為の前線基地となった南島奄美大島であることは間違いないが、彼の今でこそ言える「晩年」に、彼の郷愁を烈しく掻き立てたこの東北の一隅にも彼の気配が濃厚に感じられる。だが私にとって島尾敏雄はいまや遍在し、そしてよりいっそう身近な存在となった。
 島尾敏雄の霊よ、安らかに憩わんことを!


『青銅時代』第二十九号 島尾敏雄追悼(1987年11月)

 

渡満前、博多にて
昭和16年5月、旧満州に渡る直前の写真。相次いで渡る母方の叔父夫婦、博多航空隊にいた叔父、九州帝大在学中の敏雄さんと一緒の記念撮影。

【息子追記】父は祖母千代に抱かれている。祖父稔は長髪の学生服の島尾敏雄さんの隣。眼鏡をつけた背広姿。
博多の街を走る兄と姉
満州に渡る直前。今は亡きC叔母の姿も見える。私はまだ走るまでには大きくない。

※キャプションは父のもの。おそらくこれが島尾氏が撮ったスナップ写真か。

8. 島尾敏雄の中の東北 (1967年)

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