※以下三通とも、宛先は練馬区上石神井のイエズス会神学院、発信地は豊島区東池袋3-1-1となっている。
1967年2月20日
†主の平安
2月18日号の図書新聞にのっていた座談会で埴谷雄高さんが〈島尾さんの甥の神学生で云々〉と仰有っているのを読んだ時、すぐそれが佐々木さんだと分り、先達てからあなたのすぐれた評論の愛読者である私には、そこで埴谷さんが云っておられる御言葉の意味をたぶんこの新聞のどんな読者よりもよく分っているはずだとひとりで威張っておりました。
ですから、今夕お手紙をいただけて心から嬉しく思っています。Y修女様にもそのうちお礼を申上げておきましょう。あなたに、私へ手紙を書くようにすすめて下さったそうですから。
私の下手な文章を読んで下さっているそうで、恐縮です。私は内に今尚混沌としたものを有っており、時にはサトッタような心に恵まれる事はあっても、信仰とは本来暗い認識だと思っていますので、たえず混沌の闇に帰ってゆこうとして了い、ために書くものにも、Yさんが仰有るような一種のすさまじさがつきまとって、恥ずかしく思っております。しかし、私にはサトリスマシタことを書く方がもっと恥ずかしいのですから、致し方ありません。どうぞ佐々木さんもそういう目でごらん下さいますよう、御願いします。ただ、ヒトのためなら、例えば母のためなら、時には〈母〉というようなものを書く事も出来はしますし、あのようなものを書く時に味わいうる心の和らぎも亦愛しています。が、私の本質は、例えばマリー・ノエルとかE・ブロンテとかドストエフスキーに近いものがあるので、すぐにまた夜に身を浸す、ということになります。
さて、私のことよりも、佐々木さんが島尾さんの甥でおられたことを埴谷さんの御言葉ではじめて知り、さすがにすぐれた評論をものされるわけだ、と合点しました。島尾さんの作品はこれまで文学雑誌で数篇拝見しただけですが、現代の日本文学界に在って極めて高く評価されてもいい方だと、前から思っておりました。
埴谷さんに対してはこれまで人々の “難解だ” という評におそれをなして、御作品を一つも読まずに来たのですが、昨年暮ふとした機会に〈虚空〉という本を求めて拝見しました。立派な御方のようで、私などには近ず(ママ)きがたい文学者の高峰です。ですから、あの方が私のような者の名前を覚えて下さっていると伺って、恐縮しています。
近く広島にゆかれる由、どうぞ良い旅を――私はこれから〈あけぼの〉へのエッセイを書かねばなりません。私は文章に対して大そう臆病なので、短い作品を書くために沢山の読書と黙想の時を持たねばなりません。しかしそうしてもなお、この頃は、“いいものを書こう”という心が先走るためか、却ってロクナモノが(ママ)書けず、ますます自信をうしないつつあります。
ではまた、そのうちに。
いつもお元気で!
正田 昭
※3枚にわたって横書きできっちりした書体で書かれた便箋の右隅には、小さな桜の模様の真ん中に「東」という字の入った青いゴム印が押されている。検印だろうか。