仕込み杖

一日中霧雨が止むことなく、まさに梅雨真っ只中といった一日であった。といって本格的な梅雨に入ったかどうかは知らない。たぶんそのせいか、からだ全体が重く、いちいちの行動がただただ億劫で、眠気もとぎれることがない。べつだん病気ではない(と思うが)なんとも重苦しく鬱陶しい一日だった。
 そんなわけで、今日の具体的収穫はゼロに近い。午後いつものとおり美子の手を引いてバッパさん訪問。最近かなり記憶が混乱していて、息子や孫たちの消息、つまり今どこに住んでいて何をしているか、など思い出せないようだ。といって、美子よりずっとましではあるが。
 中島敦の『光と風と夢』、ちびちび続けて読んでいる。全編が日記形式になっているのではなく、奇数番号の章は著者の解説、偶数番号がスティーブンソンの日記となっている。それにしても、昭和17年、原稿の一部が短縮されて掲載されたそうだが(紙の統制がきびしくなった当時としては、それでも異例の厚遇らしい)果たして執筆時に日記や評伝が手元にあったのかどうか。
 これに関しては、研究が進んでいるのであろうが、ともかくスティーブンソンの日常が実に詳細かつ正確に書かれているのには驚いた。これを書くのにどれだけ実際の資料に拠ったのかどうか、非常に気になってきた。土人(当時は原住民をそう表現した)たちの立ち振る舞いや性格描写、植物などについても実に的確な描写や紹介がなされていて、もしそのほとんどが中島敦の想像力の所産だとしたら、驚くべき知力と言わなければならない。
 ところがこの作品は中島敦の南洋体験以前に、つまりパラオへの赴任前に書かれたものである。となると、灤平再訪を実現できないとしても、父の日常やその周囲の人間や自然を書くことは可能だということである。すまん、重大な前提が抜け落ちていた。つまり私に、中島敦ほどの知力・想像力が備わっていれば、の話である。その前提は大きく崩れるが、しかし私が幼児期とはいえ、灤平で2年近く生活した事実は有利に働く。そしてもう40年以上も昔のことになるが、『ピカレスク自叙伝』を書いたときの感覚を少しずつ取り戻せたら。
 二日ほど前、もう少し安くなってからと購入を延ばしきた大江健三郎の最新作『水死』がようやく半額になったので取り寄せた。じつは昨日から『光と風と夢』と同時に読んでいる。そしてまったく偶然の符合だが、大江健三郎のこの作品が、わずかな手がかりを求めながら半世紀近くも前に水死した父に向かっての想像の旅であると同時に、自分自身の生の総決算を企てたものらしいのだ。
 そして今日、時おり気になっていたものが一つある。父の仕込み杖である。それを携えて馬で、ときおり匪賊が出没する村々を巡回した父のことが、今更のように気になってきた。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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