連休最後の日、今晩のメニューは、鶏肉・蒲鉾入りの讃岐うどん。もちろん讃岐の人から見たら邪道も邪道の讃岐うどんでしょう。
「バッパさん、稔さんの誕生日いつだった?」。バッパさんのうどんをテーブルに運びながらさり気なく聞く。「八月十日」、ぶっきらぼうな答が返ってきた。
恥ずかしながら、初めて父の誕生日を知ったのである。先日来、内蒙古出身のO.Gさんとお友だちになって、急に旧満州で終戦前に死んだ父のことが気になってきた。先日電話で、昔ランペイというところにいたと話すと、なにやら中国語の発音が返ってきたが、もちろん聞き取れない。今度お会いしたとき教えてくださいと言うに留まった。そして今日、バッパさんが昔「四十七年目の証言」という短文を書いていたことを思いだしたのである。
「夫は…自宅でなくなりましたが、当時日本軍と共に満州国治安維持のため、集家工作と称する現地民の部落をまわって日夜説得を続けながらの難事業に参加して約二年間、ついに過労のため医師のいない僻地で無資格と思われる軍医(四国出身)に看取られ、薬も栄養も与えられぬまま息を引き取りました…葬儀だけは立派に県葬…遺骨は…承徳の東本願寺に安置…承徳は秦の始皇帝の離宮のあった古都ですが、それより汽車で約一時間半、北京寄りの国境県欒平(らんぺい)の公署に主人は最後まで激務に耐えて…」
これだけだったら、O.Gさんに申し訳なく、かつ恥ずかしくて、とても欒平(欒という字は、もしかすると木は偏だったかも知れない)のことなど聞けないが、最後のくだりで辛うじて面目が保たれる。
「主人が生前、省公署の役人達との宴席で、悲憤慷慨の余り、必ず繰り返した言葉は、今でも耳の底に残っています。《日本人は全部悔い改めて出直すべきだ》。主人の心中は察して余りあるものがあります」。
ところが日本人は今になっても絶対に出直してないんだな。私の尊敬する先輩のM.H教授*は、尊父が軍人であったこともあり、死ぬまで朝鮮の人に申し訳ないから、彼の地を踏むこともあるまい、と言われる。私の父は軍人ではなく軍属だから、というわけではないが、日本人より中国人の友だちが多かったと聞いたことがある。娘ほどの若さのO.Gさんに、昔のことばかり聞くつもりは無いが、来週二泊三日の予定で拙宅に来てくださることになった。今から夫婦して嬉しくてたまらない。
(5/5)
* 故・原誠先生(東京外国語大学名誉教授)