南相馬市原町区だけでも私と同姓同名の人がもう一人いる。どんな人か知る由もないが、どんな人か気にならないでもない。もちろん調べたり尋ねたりする気などさらさらない。同姓同名など多くの場合まったくの偶然だからである。また姓名判断などしてもらったこともないし、これからその予定も無い。どちらかと言うと、姓名判断に限らず、占いそのものを信用していない。だから朝のテレビで、今日の運勢は、などまことしやかにやっているのを見ると腹立たしさを越えて不快な気持ちになる。
和服を着たデブと女装をしたおじちゃんが出てくる番組など、神妙にその前に座るゲストの反応につられて何秒かチャンネルを変えないで見ることがあるが、それも文字通り何秒かのあいだであって、カメラが二人のイカサマ師にターンしたとたん、耐えられずに他局に変えるかテレビそのものをを消す。
ところで現在、我が家の車では、取り替えるのが面倒くさいのと、妻が気に入っているようなので、いつもテレサ・テンのテープを聴いているが、彼女が歌う誰かの歌のカバー曲の歌詞の中に、バーの女がボトルの名前で客が遊び人かどうか分かる、というくだりがあって、その度ごとに吹き出してしまう。
でもやっぱり不思議なもの、というか不思議な力を持っていることは認めたい。テレサ・テンの歌は、なんのことはない、昔から言われている「名は体を表す」を酒場風にアレンジしたわけである。そういえば哲学の歴史にも、実名論か唯名論かという論争があったが、名前そのものについての論争ではなかったにせよ、大いに関係があったはずである。調べるのもなんだから話を続けるが、私はなにも名前そのものに神秘的な力があるなどとは思っていない。ちょうど伝統校の生徒や名門家庭の子息が、校名や我が家の姓を意識することによって、そこに一種の牽引力が働くのだろう、くらいに思っているに過ぎない。
つい名前のことを言い出したのは、もう少しで誕生する孫の名前のことが頭にあったからだ。いい名前があったら教えてと言われ、「佳織」という名を候補の一つに挙げた。言い忘れたが、女の子なのだ。若夫婦とも「佳織」を気に入ってくれたようだが、先日まだ入院中の嫁が、「愛」という名も気に入っていて、迷っていると言う。そう言われれば、なるほど「愛」はなかなかいい。あまりにストレートな言葉なので、ふつうは尻込みする言葉かも知れないが、生まれてくる孫を、この名前がしっかり牽引してくれそうな気がしてきた。それに「愛」は中国語でも日本語と同じ発音をする数少ない言葉の一つで、中国のおじいちゃんおばあちゃんにも呼びやすい名前であることがなおいい。
いまやインターネットの時代であるから、自分の名前がどんな人と同じか大いに気になる時代になってきた。ちなみに私の場合、グーグルを検索すると、いろんな人と同姓同名であることが分かる。たとえば津軽三味線で有名な吉田兄弟の師匠だったり、高校野球で活躍した駒大苫小牧のスラッガーであったりする。
ところで「佐々木愛」の場合、一人の新劇・映画女優が同姓同名である。だから親馬鹿ならぬじいちゃん馬鹿は、さっそく彼女の本『劇場の外で』をネットの古本屋で探して嫁に届けたりしている。そうだあの卓球の福原愛ちゃんも愛ちゃんだった。愛、いいんじゃない。もともと「佳織」という名前は、ギタリストの村治佳織からヒントを得たのだから、じいちゃんの最初の提案など却下してもらってもいっこうにかまわないのだ。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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