広い突堤とDDT

かなり強い日差しが照りつける突堤(というよりむしろ広場と言った方がいい)のあちこちで避難民たちが長い列を作っている。荷物検査とDDT散布のためである。彼らを日本まで運ぶアメリカの巡洋艦が数隻沖合いに停泊しているはずだが、青黒い海原もその船の姿も見えない(つまり記憶に残っていない)。五月の風がときおり熱風のように広場を吹き抜けていく。
 錦州から葫蘆島までの距離は地図の上では7、80キロだが移動には何を使ったのだろう。歩いた記憶は無い。汽車だったろうか。
 今日も朝方、バッパさんは、引き上げ時のことを書いたものがあるから、と古いガリ版刷りの短歌同人誌を30冊ほど渡して老人センターに行ったのだが、後から調べてみると当時のことを歌った4、5首の短歌のことらしく、事実確認にはまったく役に立たない。そのことの文句を言いがてら、先ほど二、三確かめることがあって下りていった。そしていくつか収穫があった。
 まず錦州から葫蘆島までは無蓋列車で移動したらしい。そして船は巡洋艦などというご大層なものではなく「ジョーリクヨシューテー」とのこと。机に戻って辞典を調べてようやく分かった。「上陸用舟艇」のことである。つまり上陸などに際して兵や車両などを運ぶ舟艇のこと。記憶の中では、敵機つまり日本の飛行機を撃ち落としたことを示す日の丸がいくつか船体上部に描かれていて、敵のことなのに「スゲー」などと感心した覚えがある。バッパさんの話だと、乗船してから時間調整のため一晩停泊したままだったということ。揺れも大きかったはずだが、その記憶はすっぽり抜け落ち、代わりに、空腹が我慢できずに厨房らしきところにあった大きな釜の底にへばりついたお焦げを仲間と盗み食いした記憶が残っている。あゝあのお焦げの美味しかったこと!
 実を言うと今回バッパさんに聞くまで、引揚げは朝鮮半島を汽車で南下して釜山から船で帰ってきたと思っていたのである。窓の外を流れ去る、夕日に照らされた真っ赤な柿の実までも覚えているのだ。どこで間違えたのであろう。いずれにせよ季節は秋のはずはない。するとその時の風景は……また謎が一つ増えた。
 ともあれ朝方、その上陸用舟艇から見えた、朝日の中の緑濃い日本の入江と、伴走する小さな釣り舟からちぎれんばかりに手を振る漁師の姿は今も鮮明に残っている。
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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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