平凡社「中国古典文学大系」全六十巻の最後の巻が届いた。最後の、といっても私が古書店から購入する最後の巻、という意味で、実際は第6巻の『淮南子(えなんじ)・説苑(抄)』である。なるたけ安い値段のものをばらばらに求めたわけだが、全巻一括のものを買った方が安く付くことに気づいたときは後の祭り。ただその場合、すでに買っていた四大奇書などがダブることになり、それはそれで気持ちが悪い。
さて改めて思うのは、言い古された言葉だが、「中国四千年の歴史」の重さである。たとえば今日届いた『淮南子』でも、書かれたのは前二世紀の中ごろ。残された時間がわずかなのに、この膨大な時の流れをなんとか勉強してみよう、などと考えた自分に滑稽さどころか、哀れささえ覚えるが、でもいいじゃない、どっちみち一人の人間の一生など中途半端なんだから。
そんなときテレビから流れるローマ教皇の危篤や、一アメリカ女性の安楽死をめぐるすったもんだが、なんだか馬鹿らしーく思えてくる。だいいちあんな爺さんの死に大騒ぎするだけの価値あんの? 十何億(?)かの信徒数を誇るカトリック教会の頂点に君臨するから? 何万という善男善女に祝福を与えようと、暗い室内から窓際にいざり寄ろうとするよぼよぼ爺さんなど、ちょっと見てられないなあ。終身制で引退できないのかも知れないが、みっともないったらありゃしない。どこぞのやんごとなきお方の最後も、下血とかなんとか哀れだったが、教皇様も尿道がどうとかこうとか、やっぱり哀れですな。
いや下血や尿道炎が哀れだというのではない。病や老い、そして死からだれも逃げることはできない。現にこの私だって、現在、ヨブのような惨めさをとことん味わっている(それはちと大げさか。昨日よりすこし良くなってきた)。哀れなのはギャップの激しさよ。つまり普段は、質素とは言っても大御殿に住み、並み居る高僧たちに恐れられ、献身的な修道女たちにかしずかれるお人が尿道炎かよ。だったら普段から三重冠や巨大指輪で着飾って防弾ガラスの御輿などに乗るなってこと。
安楽死、尊厳死がどうのこうのと言う前に、今日も政治的野望の巻き添えを食って死んでいくイラクや紛争地の何百何千という無辜の人たちの死を、おい!そこのお偉方よ、どう考えてんだ!ほんと、怒りを通り越して、こちとらなんぞ腹抱えて笑うっきゃないぜ。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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