学ある糞

私たち夫婦が住む旧棟一階の、トイレへと続く北側廊下の壁面いっぱいに九段に及ぶ本棚がしつらえてある。ここに帰ってきた2002年か、あるいは翌年か、量販店から板を買ってきては家中の空いた壁面に本棚を作りまくったときのものである。そこに未だに整理しないままの本が雑多に並べられている。それでも上二段には推理小説の文庫本だけが、アイウエオ順に作者別に並べられている。もちろんそれでは間に合わず、残りは二階寝室の鴨居のところに作った本棚三段に続けて並べられている。
 推理小説が好きだった美子のために買いあさった文庫本だが、いまは読む人もなく寂しく並んでいる…いやそんな話をするつもりではなかった。その大事な本を喰いちぎっていたにっくき虫のことを話すつもりだったのだ。
 一昨夜のことである。小林秀雄の初期エッセイ「アシルと亀の子」を読む必要があって、それが入った合本を探して真ん中上方あたりの本を引き抜いたときである。すると、な、なんとおよそ五、六冊の壁に面した部分が虫に喰われているではないか! 壁のところには小さな蟻塚のようなものがへばりついている。虫は、虫はどこだ! 実は動転していたし、あまりの暑さも手伝って、どんな虫がいるかも見ないまま、蟻退治の噴霧器を探したのだが、噴霧口のところが壊れていて使いものにならない。仕方なく蚊・蝿用の薬を噴霧器で吹きつけたのだが…
 悲しいことに老眼なのでどんな虫がそこにいたか、はっきり確かめたわけではない。服用ブラシで喰われた部分をこそぎ落とし、床に落ちた屍骸やら塚みたいなものを水道で流してしまったからだ。ただゴキブリのように逃げるでもないし、こちらに向かって飛び掛ってくるでもない。つまり米粒くらいの虫とその屍骸が一塊あったような気がするが、先ほども言ったように動転していたし老眼でもあったので、しっかり確認しないまま片付けてしまったのである。
 何冊かは本の下の方がざっくり鋭利な刃物で切り落とされたようになっていて、廃棄処分にするしかない。でもいつごろから紙魚はそこに居ついたのだろう。いま紙魚と言ったが、本当に紙魚だったのだろうか。屍骸は米粒ほどもあったから、いわゆる紙魚にしては大きすぎる。でも本好き(?)だからやはり紙魚か。この暑さで巨大化した紙魚?
 要するに本棚に納めただけでは駄目で、ときおり本の後ろのゴミやら虫を払ってやらなければならないわけだ。つまり本当の本好きなら、ときどき虫干しをしたり空気に当てるなどしてやらなければならないのだろう。それにしても虫がこれだけのダメージを与えるものであることを初めて知った。これからは定期的に本棚を掃除したり、ところどころに虫除けのナフタリン錠(でしたっけ?)をばら撒いておかなければならない。
 蔵書の管理・保存ということでは、先日読んだ余秋雨の『文化苦旅』(楊晶訳、阿部出版、2005年)の中の「風雨天一閣」というエッセイが印象的である。天一閣とは浙江省寧波市にある私設蔵書楼の名前で、今のように公設図書館などない時代に何万冊もの版本やら写本を、ある一族が自らに厳しい戒律を課しながら守ってきたという史実に触れたエッセイであった。
 さて我が家の天一閣「貞房文庫」は、この先どのような注意と習慣を守りながら次代に引き継いでもらおうか。なーんてそんな希覯本も貴重本もない貧しい書庫だけど、せめて五十年、うまく行けば百年は利用できる私設ミニ図書館であって欲しい
 いまさら言っても詮無いことではあるが、あれは本当に紙魚だったのだろうか。平べったい蟻塚のようなものはたぶん糞だったろうが、しかし黒っぽい色になっていたのは活字を喰っていたからだろうか。糞といっても純粋に紙と印字だけの排泄物なのだから、そんじょそこらの糞とちがいまっせ。まっ言うなれば学のある糞でっせ。なめたらあかんぜよ!

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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学ある糞 への1件のコメント

  1. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    エトワールさん
     おやまあ、またもやたちどころに謎を究明してくれましたね。ありがとう。ザウテルシバンムシ、なんだか恐竜みたいなカッコいい名前ですね。こんど見つけたら捕獲しておきましょう。ともかくムシできない虫害、以後気をつけましょう。

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