末期の眼から

領土問題でいがみ合う国家というものを終末から、奈落の底から、さらには右のコメント欄では末期の目から見てみる、などとちょっと意味不明な貞房用語で締めてしまい、申し訳ない。うまくいくかどうかは分からないが、いま少し説明してみよう。
 要するに(とまたまた一気に結論にもっていきかねないが)つまり終末からとは、この世のどん詰まりから逆に眺め返すことである。するとわれわれの「現在」など文字通りの「一瞬」であり、「近代」から「現代」へと続くたかだか四、五世紀ほどの時間の帯も、始原から(それがいつかなど正確な数字は知りませんが)から終末への悠久な時の流れの中では実に些少な一片に過ぎない。
 つまり言いたいのは、領土問題で互いに威嚇し合っている「国民国家」など、人間の在り方からすればまことに頼りない、ヨチヨチ歩きの、この先どう転ぶかも知れない過渡的な「くに」の「かたち」に過ぎない
 たとえば領土問題と同じ根の基地問題についても同様のことが言える。ときどきもし自分がオキナワに住んでいたら、と考えます。毎日米軍機の轟音の下で生活していたらどうだろう、と考えます。たまらんです。まるで他人事のように基地をオキナワに押し付けて、自分たちの生活の利便・快適さを追い求めてきたホンドの日本人とはいったい何様なのか、と考え…あゝ考えるだけの自分が情けない。
 昼前、たまたまひねったテレビ画面に元大臣という自民党議員のでっかい顔が映ってました。あの変に眼の据わった、愚論をいかにも理路整然風にしゃべるお方です。今日はどこのテレビ局でも視聴率稼ぎの切り札「緊急生出演」で尖閣諸島問題をめぐる民主党政権の弱腰外交をなじってましたが、あなたが所轄大臣であったときと同じ対応では、との指摘に、臆することなく、あの時と事情が違ってます、とまったく悪びれる風でもなくイケシャーシャーと弁じたてている。ああ言えばこう言う、の見事なサンプル。あゝまっことグレーツの極み。思い出しても腹が立ってきたので「緊急退場」させてもらいます。それでは皆様、お後がよろしいようで…

★追記 忘れてました、上の帯の最後にある『平和菌の歌』をクリックしてください。菅さんそろそろ曲作ってくれないかなー、正に今が歌い時なんですがなー。でもメロディーがなくても、皆さんどうぞ吟じてください。特に最後のフレーズが大事です。今こそ日本中に菌を撒布しなければなりません、ぞなもし。



fuji-teivoのコメント:

2012年8月16日 22:34

阿部修義さん
 あなたの言うとおり、ロシア、中国、韓国のそれぞれの為政者の求心力がなくなったときにいつも領土問題が浮上すると言うのはその通りでしょう。しかしそれを指摘したところで、一向に問題解決には繋がりませんよ。つまり領土問題そのものの火種が消えない以上、これからも事あるごとに再燃するでしょう。こういう問題が起こるたびに政治家は毅然とした態度で、と言いますが、確かに相手の挑発に乗って馬鹿な対応しないことは大事ですが、かと言って相手も同じテーブルに着かざるを得ないような具体的方策を打ち出さないままでしたら、相手からはただ慇懃無礼であるとか無策をごまかしているとみなされるのがオチでしょう。
 政治家は二言目には国際法上も明らかだと言いますが、明らかでないからこそ問題がくすぶり続けているわけです。まっ私が言っていることは、或る人からは腰砕けとか、右翼からは売国奴などと思われるかも知れませんが、良く読んでいただけると分かるはずですが、私自身、国を愛することでは決して彼らに負けませんよ。
 ただ何をもって国と考えているかでは天と地ほどの差がありますけど。国についても「末期の眼」から見るとはどういうことか理解していただけないなら、たぶんこの問題に関していくら議論しても噛み合わないでしょう。そして私にはそんな議論をするつもりなど毛頭ありませんので、どうぞそこんところをよろしく。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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末期の眼から への2件のフィードバック

  1. アユム のコメント:

    お話、深く共感しながら読ませて頂きました。「国民国家」というものが、普遍のもの、あって当然のものとして考えられていることが、とても怖いです。簡単に「日本人」と言ってしまうことすら、時に怖くなってしまう。
    私たちはたまたま、「日本」と呼ばれる諸島の一地域に住んでいて、生活の都合上「日本」というシステム(すいません、的確な言葉が見つからないのですが)の中で生きているに過ぎない。にも関わらず、行ったこともなければ誰も住んでもいない島に「日本」というタグが付いているだけで、それをさも自分のものであるかのように考え、その気持ちを踏みにじられたと言っては憎しみをまき散らす…そんな風にして一体何を得られるというんでしょう。日本と言う「国民国家」システムに所属して生きているということと、どこに郷里愛を感じるかということは別なのに。
    そして、震災と原発事故についても似たようなことを感じます。同じ「日本人」だから同情し、支援するのでしょうか。本当は、そんなこと関係なく、ただ人として苦しみを分かち合うべきなのに。とは言っても、やはり“身近さ”を感じる部分は仕方ないと思うのですが…。がんばれニッポン、の言葉を見るたびに悲しくなります。
    思うことが色々あり、つい長くなってしまいました。申し訳ありません。こういうことを、同世代の友人や家族にすら、上手く伝えて納得させる自信が無く、つい萎みがちです。でも、富士貞房さまのブログを拝見するたびに勇気づけられたり、新しい世界が開けた気持ちになります。いわゆる若者世代(自分で言うのは恥ずかしいですね)の私が、こういうことを考えている、ということが少しでも富士さまの励みになれば幸いです。今後とも応援しております。

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    アユムさま
     先ほど初めてあなたのギャラリー「珊瑚堂」を訪ねてみました。すごい作品群ですね。絵や音楽はいいですね、文章では表せない世界に一気に連れてってくれますから。これからも疲れたときに(いつもそうですが)訪ねて、しばし座って、黙って、休ませてください。ではまた、お元気で! 

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