希望の弁証法(その二)

難所を越えないまま日が重なった。その間、ひたすらその難所にこだわっていたわけではないが、いろいろ考えたり読んだりしていた。その過程で、ドナルド・リチーというアメリカ人映画評論家の本に出会った。ネット古本屋で見つけた『小津安二郎の美学』(山本喜久男訳、フィルムアート社、1986年、第6刷)である。リチーという名はどこかでみたような気はするが、今回初めて彼の本を手にした。実はほぼ同時に、彼の『黒澤明の映画』(三木宮彦訳、キネマ旬報社、1981年、増補回想版)も手に入った。書かれたのは前者の方が先である。日本映画、とりわけ小津、黒澤という二大巨匠の作品が海外で知られ高く評価されるにあたって、彼の果たした役割が大きいものであったことは想像に難くない。
 ところが参考書は手に入れたが、難所越えはまだできないままである。とつぜんの恩師の夫人の死にいささか動揺していたこともその遅延の理由の一つである。以前はこちらからの連絡に逐一お返事があったが、このところ先方からの音信が途絶えていた。その悲しいニュースを伝えてくれた共通の友人によると、昨年なかごろから病に罹り闘病生活を続けてきたらしい。私にとっては恩師である夫を亡くし、続いて病気とは縁のないような頑健な体の長男に先立たれ、今で言えばその晩年はけっして幸福だったとは思えないが、しかしいつも前向きで明るい態度を持しておられたことを悲しく思い出していた。
 今日の午後、ようやく今回喪主を務めた次男にお悔やみのお手紙を書くことができた。夫人とのお付き合いで、まず真っ先に思い出すのは、恩師の遺品の本の整理をお手伝いにうかがったときのこと。一段落ついての食事の時、「佐々木さんまだタバコを吸ってるの?」との夫人のひと言で、それまで何十回試みてもできなかった禁煙が、その夜を境になんの苦労もなくピタリとできたことである。いやそんなことより、恩師とまだ婚約時代、大学に来られたときの、輝くような美しい夫人の姿である。淡路島の出であるが、ご先祖は奄美か沖縄の方だから、おそらくスペインの血も入っておられるのでは、などと同級生が噂するのを聞いたような気もする。先生にも夫人にもその後何回もお会いしたのに、遠い昔のその噂話を確かめることもないままに終わった。
 人の生き死にについては、これまでとはずいぶん違う考え方・受け取り方をするようになっているが、でも夫人ともうお会いできないことに言いようのない寂しさを感じる。妻がもらった大玉のラピスラズリの首飾りが、文字通りの形見となってしまった。私にまだ残されている日々、先生ご夫妻と長男 Y 君と三人のことを決して忘れずに時おり思い出の中で語り合っていきたい。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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