福島市在住の■氏から、「福島刑務所初のXマス会に感動」という、「福島民友」紙「窓」掲載の短文のコピーが届けられた。氏自身が同紙に投稿した文章である。受刑者たちを前に、福島、伊達の四教会の信徒たちがキャンドルサービス、賛美歌、聖句朗読、そしてメッセージ朗読など、刑務所で初めて祝ったクリスマス会のたいそう感動的な様子が書かれている。
「女子受刑者の何人もが感動の波に抗しきれず、嗚咽をこらえ、ハンカチで目頭をぬぐ」ったのは、女性信徒の「かあさんの歌」や「あなたは愛されている」という独唱の際だったとはいえ、たとえばキリスト教で言う人類の罪を一身に背負って十字架に架けられた救世主、あるいは仏教が伝える仏や菩薩の無限の愛などなど、宗教的メッセージや思想が持つ大きな力は否定すべくもない。やわなヒューマニズムや、既成宗教とは直接の関係を持たぬ人類愛思想など、とてもじゃないが太刀打ちできないかも知れない。
今も世界中で日々愛徳(と、とりあえずは宗教用語を使うしかないが)の業を実践している宗教者あるいは信仰者の働きは賞賛に値する。「人類みな兄弟」「地球家族(なーんて言葉はないか)」などというスローガンが今ひとつ迫力に乏しく、「地球にも人間にもやさしいエネルギー」というどこかの電力会社が発する原発宣伝の胡散臭いキャッチフレーズとたいして変わりがないことは認めざるをえまい。
おや、私はいま何を主張しようとしているのだろう。宗教を抜きにしての世界平和、人類愛、万人の幸福、弱者への愛が果して可能か、という問題提起をしているのであろうか。いや正直言ってそこまでの用意もないし度胸もない。しかし先ほどの■氏の文章を読みながら、心のどこかで思っていたのは、これがキリスト教以外の宗教だったらどうだろう、仏教だったら、イスラム教だったら、あるいは創価学会だったら、といささかひねくれた考えである。いや、宗教でなくてもいい、例えばマルクス主義思想だったら?
要するに、ある特定の信仰や信条の支え無しに人類の救いや幸福を追求することは不遜か、また可能か、ということである。かつて特定宗教の内部にあったときは、神無きヒューマニズムには窮極的な根拠が欠けている、と思っていた。しかし今、そうした特定宗教の外にあって、果してそうなのか、と考え始めているのだ。「そんなに突っ張ってないで、こっちの輪に入れよ」という誘いの声が聞こえてくるような気がしないでもない。
つまり私個人の問題としては、長い間慣れ親しんできたキリスト教との距離感が未だに掴みきれていないということであろう。棄教というような劇的な決裂があったわけでもない、徐々に、というか実感としてはいつの間にか遠く離れてしまったということである。
大学時代の先生であり、後に同じ修道会の会員、心の許せる友人として長い間つきあってきた人がいる。いま現在は母国スペインで司祭として頑張っている親友である。かなり長いあいだ交流は途切れているが、おそらく互いに親友であることを疑ったことは一度もないであろう。その彼から先日、別の神父を経由した連絡が入ってきた。返事を書こうとして、またかなりの時間が経過している。遅滞の原因は、現在の私自身の精神的境位の説明が難しいからだ、と自覚している。そうだ、彼への私信の形を借りて、先ほどからの難問に、自分なりの説明をつける時が来たのでは、といま思い始めている。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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