バッパさんを訪ねた後、家に向かう道を走りながら、とつぜん海に行こうと思いました。ずいぶん長いあいだ、おそらく昨年の夏以来、海に行かなかったので、妻も喜ぶかな、とバックミラーを見ると、眼をつぶっている。寝ているのだろう。
ちょっとしたことで空回りが始まると、とたんに意思の疎通がむつかしくなる。今日も出掛けにトイレに連れて行ったのだが、便器に坐ったままなかなかしようとしない。昼食前にしただけだから、もうしてもいいはずなのだが。こちらのイラダチに気づくと、とたんにことが面倒になるので、努めて優しい声で促すのだが、一向に応ずる気配がない。けっきょくあきらめて外出した。
次は手袋のことでうまく行かない。午前中に雪が降って、今年いちばん、というより昨年来いちばんの寒い日になったので、手袋をはめさせ、いいかい家に帰るまで脱がないのだよ、と言い聞かせたとたん、うんと言いながら手袋を脱いでしまう。頭の中と実際の行動が噛み合わないのである。
そんなことは認知症の介護ではイロハのことなのに、一生懸命説得しようとして、イライラが募り、疲れてしまう。そんなことで妻も疲れて眠っているのであろう。六号線を抜けて北泉に向かう直線道路の行く手に火力発電所の白い煙突が夕陽に映えてさらに白く見え、空はそれをさらに際立たせるかのように暗さを増している。午前中の雪はすでに止んでるとはいえ、寒気を凝縮したような重い空模様なのだ。
いつもの駐車場には車が一台止まっていた。運転席の男はシートを深めに倒して仮眠中らしい。お得意先回りの途中で休んでいるのか、それともこの不況で仕事そのものがないのか。浜に抜ける山道を妻の手を引いて歩いていく。なんだか以前より足どりが重く感じられる。海沿いのもう一つの駐車場を通って土手に上がると、夕陽に波頭を輝かせた海が広がっている。浜辺では制服の上に交通整理の時に着るようなベスト姿の20名ほどの警察官がリーダーらしき人の前に整列して話を聞いている。腰にピストルがなさそうなので交通整理のおじさんたちかな、と思ったが、そんなに沢山のおじさんたちが集まってるはずもないから、やはり警察官が年頭の訓練でもしていたのだろう。
眼を凝らして海面を見ていくと、黒い点がいくつか見える。こんな天気でもサーファーが頑張っているようだ。駐車場の自動販売機で買ってきたお汁粉の缶を二人で回し飲みをして、また来た道を帰ってきた。どうだ懐かしいだろう、覚えていた?と聞くと小さくうなずいた。こちらの気持を反映してか、もうすっかり明るい顔になっている。
こう言ったのになぜ?と咎めるのは止そう。妻にとっては、その時その時が新たな局面なのだ。手順とか約束とか、因果関係とか、そんなものにこだわるのはもう止めた。こと彼女に関するかぎり、その瞬間瞬間に生きているのだ。
町に向かう車の先に鉛色の空と赤い夕陽が、そして茜色に染まって棚引く幾筋かの雲が見える。先ほどまで頭のどこかに蟠っていたいやな感じはいつの間にか消えていた。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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