どこの家でも同じだろうが、わが家でも墓が何箇所かに分散しており、それらが互いに離れているので全部回るのに相当時間がかかる。一日で回るとなるとかなりの強行軍となる。今年からは相馬に暮らすようになったのだからと、一日一箇所のペースにした。父方の先祖代々の墓は相馬市のほうに、母方のそれは小高町太田和にある。そして自分が死んだらここに入るという墓は、家から車で五分くらいの高台の公園墓地にある。しかしこの墓は相当に混んでいる。つまりバッパさんが父方と母方双方の先祖たちを合同で祀ることにしたからである(こんなこと独断で決めていいの?)。もちろん正確に言えば、墓誌には、分骨されていないものや遺骨そのものが行方不明というものも記載されている。行方不明というのは父の遺骨で、バッパさんの話だと、引揚の途次、奉天(現在の瀋陽)の西本願寺別院(?)に預けてきたそうな。このお寺その後どうなっているのだろう。
自分が死んだら入る、などと書いたが、もちろん死後のことなど分からない。ときどき遺灰を海の上とか空の上とかにばら撒いて欲しいなどという人がいるが、そこまでは考えたことがない…いや、正直言って何にも考えてこなかった。でも葬式についてはかなり本気に考えている。簡単に言えば、葬式など一切無用。できれば家族だけにみとられ、家族だけに野辺送りしてもらいたい。だから、というわけではないが、以後だれのものであれいっさいの葬式には失礼させてもらおうと思っている。
もしかして、自分はキリスト教で言う肉身の蘇りというものを信じていないのかも知れない。この一点で私はすでに正統キリスト教からは逸脱している。三月まで勤めていたキリスト教系の大学で、カトリック極右を自他共に認めるロートル教授とことごとく意見が対立したのも、なるほど無理はない(ビンゴ! 俺は異端者だ!)。長年付き合ってきたウナムーノに共感する部分が多いが、しかし私の中には人格の不滅性への執着などほとんど存在しない。いずれ肉体は朽ち果て自然に帰って行く、ということに恐怖することもない。霊魂は?魂魄(コンパク)、タマシイ、正直言って生臭い、うざったい。兄弟たる肉体と一緒に、シャリシャリと無に帰って行ってもいいじゃない?
だからこそ記憶に執着したい。エネルギー恒存の法則と同じ意味で、記憶はたとえ形を変えてであれこの世から消滅することはあり得ないのだから。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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