何気なく見ていた雑誌に、秋田のあるカトリック女子修道院での奇蹟騒ぎの記事があった(竹下節子「奇跡の聖母像」、『本』、講談社、2002年10月号)。それによると湯沢台にある修道院の桂の木製の聖母像が、1975年から81年にかけて百一回も涙を流したそうだ。科学的な検査も受けたが、本物の涙で、それを浸した脱脂綿は芳香を放ち、さらに脳腫瘍末期にあった韓国人女性にその聖母が現れて突然快復したという。そのため今もアメリカや韓国などからの巡礼が引きも切らないそうである。ただちょっと気になることがある。
というのは、この「奇蹟」に対して日本カトリック教会が現在まったくの沈黙を守っているらしいということである。何か臭う。さっそく「ヤフー」で調べてみた。するといろいろな事情が分かってきた。簡単に言うと、初めはその「奇蹟」の真実性を認め、信徒の崇敬行為を許してきた教会当局が、とつぜん何の説明もなしに、当の奇蹟の渦中にあった修道女を別のところに移したり、その奇蹟を報告した神父の著作を発禁処分にしたりと、どう考えてももみ消し工作をしているらしいこと。そして信徒の一部はそれを不服として、現在、抗議運動を続けている、などのことである。
数年前のことだが、肺ガン末期の友人を見舞った二人の修道女が、聖徳の誉れ高い修道士の死体が死後も腐敗しないことを得々と長時間自慢していったことがあり、以来この種の話にはうんざりしている。つまりたとえそれが科学的に認証(?)されようが、それがどうした、それによってその宗教の唯一絶対性の証明にはならないよ、と思うからである。
そういう奇跡があってもいい、でもそれを当局が公認するとか取り消すとか禁止するのはおかしい、というのが私の基本的な姿勢である。一昔前の教会関係の書籍には、奥付に「Nihil obstat」とか「Imprimatur」などと書かれてあった。つまり「何も不都合なし」とか「印刷可」という教会当局の検閲済みの印である。要するにこれは「真理は我が方にあり、我れそを保管し、そを死守せん」という実に思い上がった姿勢を示している。いつからかそのラテン語は奥付から消えたが、昔も今もその姿勢は毫も変わらない。だがそれだけの自信を(性懲りもなく)表明する前に、自らの過去(異端粛正の非人間性や荒唐無稽な教義発布などを含めた)をきちんと清算しては、というのが、これまた私の基本的なスタンスである。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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