机の脇に、明らかに木工の時間に作ったと分かる本立てがある。大型の辞書が四、五冊入ってもう満杯の本立てだが、いちおう桐製でニスが塗られている。小学生時代を思い出させる通知表もノートも何も残っていないが、唯一この粗末な本立てだけが残っていた。これを見ると駅前のわりと大きな屋敷に何世帯かが雑居していた時代が蘇って来る。大家さんは昔「イチトー」という屋号を持った資産家で、あのころは良くあることだが、三、四家族に賃貸しをしていたようだ。
私たちの家族は正面を入って一間置いた奥座敷に住んでいたが、四人家族(そのころは若かったバッパさん、兄、姉、そして私)には手狭で、いつからか玄関に面した部屋も借りるようになったのではなかったか。店子の中には奥さんがちょっとセクシーな若い夫婦者もいたが、ある時彼女が進駐軍のジープに乗って帰ってきたことがあり、夫婦間にひと悶着あったことなどぼんやり覚えている。
その奥座敷はかなり広い裏庭に面していた。大きな栗の木があり、花の季節にはあの独特なむせ返るような匂いを庭中に放っていた。工作の時間の材料に窮して、その庭の中の物置から桐の板を一枚無断失敬したのだった。桐材は軽いながら頑丈で、今も立派に用を足している。と、ここまで書いてきて、さてその工作の時間が六年生の時なのか中一のときなのか思い出せない。その二年間に間違いないのは、たしか中二のときから、その屋敷のすぐ前にあった駄菓子屋に移ったからである。狭い道路を隔てた駄菓子屋の婆さんが死んで空家になったから移ったのだが……今さらバッパさんに確かめる気はないが、どうもその屋敷だと思春期を迎えた三人の子供たちには問題あり、とバッパさんが判断しての引っ越しだったような気がする。近所の子供たち相手に飴や煎餅を商っていた小さな店先を少し改造して入居したその家には、結局高三まで五年ほど住むことになる(そのころのことを「風吉の時間」という短編に書いておいた)。
現在はその屋敷も駄菓子屋もすっかり区画整理されて跡形も無い。あの裏庭の物置から桐の板は失敬したが、その代わりに、あのころ北海道から家族連れで遊びに来た叔父に貰った、握りが鹿の角でできた短刀を、その日のうちにあの裏庭で無くすという事件があり、これで桐の板とチャラになったと臍を噛んだことが今急に記憶の底から浮び上がってきた。錆びたナイフは今いずこ。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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