残酷であるということ

たとえば出血とか、たんこぶとか、見るのも嫌、というより怖い。あるとき、歩道橋の途中で母親に手を引かれた小さな男の子が、躓いて額をぶつけ、見る間にたんこぶが出来ていくのを見て、手助けもせず真っ青になって逃げ出したこともある。それほど臆病な私だが、数年前バイクの転倒事故のときには、腕や胸を強打して出血したにもかかわらず、曲がったハンドルのままバイクに乗って帰宅し、結局病院にも行かずに治してしまった(?)こともある。要は、場合によって人は臆病にも大胆にもなるということか。
 しかしこのごろ、残酷なことに興味を持つ人が増えてきているように思われる。たとえば犯罪捜査などでの残酷なシーン、生々しい事故現場のシーンなどしきりに特番が組まれるし、自分の子供が机の角に頭をぶつけるシーンを撮って、そのテープを番組に応募する馬鹿親もいる。そんな親の気持ちは絶対に理解できないし、それを見て楽しむ視聴者の心理も不可解きわまる。だからそんな場面になったら急いでチャンネルを変えてしまう。
 しかし今朝、ネット上でメキシコの新聞に載ったバグダッド市民の死体の山の写真から目をそらすことは出来なかった。係員二人に抱かれているのは明らかに少年の死体である。足元にも子供らしき死体がころがっている。そのとき漠然と考えていたのは、この凄惨な光景をしっかり記憶に留めよう、ということだった。そして自分ひとりだけでなく、このホームページを訪ねてくれるすべての人の脳裏にも刻んで欲しいと思って、フロント・ページに掲載させてもらった。
 もしかしてそれはあまりに悪趣味だとか、残酷だとか言う人がいるかも知れない。それを悪趣味だとか「不快」と感じる人とはいっさい関わり合いになりたくないと思う。少年の顔は見えない。もしかすると無惨にも……しかし私の中にこの少年はすでに生き始めている、そしてこれからも生き続けてほしいと切に願っている。
 一日中、この少年のことが頭から離れなかった。見事に咲いた美しい櫻の花を見るときにも彼の姿がちらついた。「君、大義の前に多少の犠牲はいたし方ないよ」、とホザく人に言いたい。この小さき者の命に匹敵するいかなる大義も存在しない、と。なぜならこの小さき者の命こそすべての価値の絶対の単位であって、それを無視するいかなる理論もその虚偽性を露呈するからだ。
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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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