El Estado en guerra es el Estado en su plenaria actuacion.
(戦時国家はフル回転の国家である)
これはシェーラーの言葉である。これに関しては、オルテガにも異論がない。というか、両者の意見が一致しているのはまさにここまでなのだ。平たく言えば、戦争と単なる虐殺や殺人と違うのは、戦争のなかになにか崇高なもの、単なる欲望や私怨を越えるものがあるということだ。戦争肯定論者はここで感極まって軍歌イデオロギーの世界に陶酔していく。まだ相当箇所は見つけていないけど、三島由紀夫がオルテガを《信用》したのは、戦争をしない軍隊は、あるいは本来の目的を遂行しない軍隊は、軍隊にあらず、ということに我が意を得たりと感じたからに他ならない。
とここまで書いて、念のためグーグルで「オルテガ 平和主義」を検索してみた。するとあったんですね、「志摩の素人哲学者」というウェブ・サイトに「オルテガの戦争論」というノートが。ノートと言ったわけは、それが小室直樹著『新戦争論』の中のオルテガ論からの引用らしいからである。小室直樹? えっあの変なおっちゃんのことかいな。
…《戦争とは国際紛争解決の手段である》との認識に立ち返り、これを法的次元から文明論の次元にまで高めたのがスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセである。
そして小室はこんなことも書いているらしい。
…『大衆の反抗』の…「イギリス人のためのエピローグ…平和主義をめぐって」は…今や『大衆の反抗』と不可分一体となっているのだ。しかるに、わが国ではそのように取り扱われていない。…戦後、スペイン語よりの直接訳だけでも三種類出ている。ところが、その三種類のいずれも、この「エピローグ」をまったく省略しているのだ。内容がよく理解できなかったからか、それとも何ものかを恐れはばかったのか、なんともわけがわからない。
三人の訳者の一人は恩師で、もう一人は先輩であるので彼らの名誉のために言わせてもらうが、これまで訳出されなかったのはそのいずれでもなく、たんなるスペースの関係なのだ。しかし今回の私めの訳では、スペースに余裕があるのと、新訳の「売り」として、その「イギリス人のためのエピローグ」を訳すことになったのである。つまり私の場合、内容がよく分からないままに訳したのである。もちろんこれはまったく自慢になる話ではない。だから「何ものかを恐れはばかった」のではなく、「盲蛇に怖じず」ゆえに訳したのだ。もちろんこれも自慢できる話ではない。
「変なおっちゃん」などと確かテレビかなんかで見た風貌からつい出た言葉だが、小室氏については実はなにも知らない。それで彼の著作を検索してみた。かなり見つかった。『太平洋戦争、こうすれば勝てた』、『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』、『日本国民に告ぐ 誇り無き国家は、滅亡する』、『これでも国家と呼べるか』、『三島由紀夫が復活する』…いやー参りました。やっぱり変なおっちゃんや、いやちょっと危険なおっちゃんや。
それならなおのこと、この際オルテガの政治思想、もっと具体的に、彼の戦争と平和についての思想を解明してみよう。ホセ・アントニオや三島由紀夫、そして小室直樹のオルテガ論が正鵠を射たものなら、その部分の(一人の思想家を部分部分に分けることが可能か、は別途見当の要ありだが)オルテガを徹底的に批判しよう。それもオルテガ自身の哲学、とりわけ生の理法に対する裏切りであり自家撞着であるという視点からの批判となろう。
先日、孤独の作業に戻ろう、なんて書きながら、またのこのこ出てきてしまいました、スンマソン(古っー)。