病室から(その四)家族控え室

八月四日(火)小雨
 いま午後一時半、十分前ほど美子はストレッチャーの上で笑いながら、そして小さく鼻歌をうたいながら手術室に向かった。手術の覚悟はできていた、と思う。最近は独り言の途中で、どこかから音楽が聞こえてくると、その音域に合わせて鼻歌をうたうようになっているので、いつもの癖で歌っていたのか、それとも手術の怖さを忘れようとしてそうしていたのか。どちらにしても体調はよさそう。朝から飲まず食わずのはずだが、顔色もよく、いたって元気そうである。
 さて終了までの長時間をどこでどう過ごそうか。結局、手術室近くの家族控室という小部屋に入った。若い女性四人ほどの先客がテレビを見ながらお弁当を食べていた。手術患者の家族とは思えない。病院従業員たちだろうか。もろ相馬弁の賑やかな会話の傍で、頴美の作ってくれた弁当を食べる。少し量があるので、半分は夕食に取っておこう。
 今度はおばさんたち三人が入ってきた。こちらも患者の家族とは思えない屈託のない雰囲気である。控室はそういう役にも立っているんだろう。こちらにいっさい文句はない。むしろ手術が無事終わることをひたすら暗い気持で待っている家族にとっては救いだろう。現にこの私がそうである。でも仮眠をとるにはちと賑やか過ぎるか。駐車場に停めている車の中でちょっと寝てこようか。いや手術が無事終わるまでここで待とう。
 美子が集中治療室から個室に戻るまでの間(一日それとも二日後?)、結局は今までいた部屋に戻るにしても、一人の病人のために二つのベッドを同時に確保することはできないから、付添の私は家族控室で寝てもよろしいという(それ以外の方法はあるの?)、分かったような分からないような説明がこの階の看護師からなされる。そのたびごとに車から荷物を移動させなければならない。といって大した荷物じゃないから、ここは我慢しよう。でも同じ部屋に戻るなら、そのまま人も(つまり私も)荷物もそのまま使わせてほしいのだが。
 いつのまにか相部屋の顔ぶれが変わっている。少し年の食ったおばさんたちと三人とおじさん一人。袋から取り出した烏賊の煮物の匂いが部屋中に立ち込める。やたら声は高いし、笑い声も下品。目をつぶって聞いていたら、花見の宴なみの賑やかさ。相馬人の悪いパターンだ。遠慮がなく他人の迷惑など考えてもみない。これなら家のばっぱさんの方がよほど上品に思えてくる。八畳あるかないかの部屋中にわんわんと笑い声が反響する。
 白状すると、ここでとうとう我慢ができず「ウルセーッ!」と怒鳴ったのだ。瞬間湯沸かし器の自然沸騰である、止めようがない。すみません、といちばんうるさい中年女があやまった。その後は何事もなかったように和やかな、すこーしばかり音量を絞った話し合いが続く。あれっ怒鳴られ慣れ(?)してるのか。いずれにせよ根に持たないでくれて助かったが。
 六時を回ったころからさすがに落ち着かなくなった。他の客人たちもそれぞれ引き上げ、周囲も急に静かになった。部屋の畳の上を行ったり来たり歩き回ったが、それでどうにかなるものでもない。七時半ごろ、息子夫婦が孫を抱っこして来てくれた。部屋の中でみんなして待っていると、廊下を執刀医のS医師が通りがかり、にこやかな笑みを浮かべて手術の終わったことを教えてくれる。
 しかしとうぶんは麻酔も切れてないことだし、幼い孫のこともあるので、息子たちをひとまず帰すことにする。だいぶたってからストレッチャーが二人の看護師に押されてやってくるが、顔は見えない。S主治医に呼ばれて手術の説明を受ける。大きな写真を示しながら話してくれるのだが、大きな蝶番のようなものが背骨に埋め込まれているのが分かるくらいで、あとは正直なところよく理解できない。ともかく六時間以上かかった大手術、S医師に心からの謝意を述べて部屋を辞す。
 ベッドの上の妻は大きなうめき声をあげていた。麻酔が切れて一挙に痛みが襲っているのだろう。看護師の説明ではそろそろいた痛み止めの効果が表れてくるでしょうとのこと。管などを外す危険があるため大きな手袋をはめられた右手を強く握ってやることぐらいしかできない。声をかけてみるが、聞こえているふうでもない。だが徐々にうめき声は低くなり、そのうち静かになった。痛みが消えてきたのだろう。
 その夜は控室の畳の上で、ひとまずの安心と数日間の疲れのためか、翌朝五時近くまでぐっすり寝ることができた。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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病室から(その四)家族控え室 への4件のフィードバック

  1. ミチル のコメント:

    先生、奥さまの手術無事に終わったようで良かったです。
    でも読んでいて先生のおからだも心配になりました。
    休める時はしっかり休んでくださいね。息子さんご夫妻に
    甘えられるところは甘えてください。何もかも先生ひとりの
    背中に背負わないでくださいね。

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    ミチルさん、お見舞いとご心配、ありがとう。今日の「病室から」に書いたように、妻は順調に快復しているようです。そして私も、控え室に居ついたヤモリ、あるいは牢屋に居座った牢名主みたいになっていますが、体調もよく、この思いがけないシンプル・ライフでかえって元気かも知れません。といいながら時おり独房で深いため息が思わず出ますから、気づかない疲れが蓄積しているのかも。でも無理をせず頑張ります。貴女も、ご家族の皆さんも、そして可愛いロバ君もお元気で!

  3. さいとうかずこ のコメント:

    今日、奥様の手術を聞きました。生活環境の変化に適応して、「シンプルライフ」空間を創られるエネルギーに、元気をもらいました。
    島尾と小川国夫の対談集を、読み直したところです。今日は、小川国夫の「ある聖書」論を興味もって伺いました。小川狂は、大部昔に卒業しましたが、彼の人間くさい面を知りました。
    スケジュールの大変なときにも、「文学の香り」を届けていただけること、驚きとともに感謝です。
    奥様のご回復をお祈り申し上げます。先生もご自愛くださいませ。

  4. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    かずこ様、コメントありがとうございます。昨日は準備不足でお話を始めましたが、最後あたりで思わぬ拾い物をしました。これも熱心に話を聴いてくださる皆様のおかげです。
     家内のことご心配いただき、ありがとうございます。今朝もおかげさまで、「完食」でした。良い夏をお過ごしください。

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