報徳仕法と大震災

十和田経由で我が家にやってきた祖父幾太郎の古本の中に、大槻吉直著『相馬藩士 富田高慶傳』があった。恐ろしく薄汚れた、薄い表紙の和綴じ本である。明治三十年、興複社発行。印刷は東京市麹町の近藤活版所だが、発行所の住所は磐城國相馬郡石神村、つまり現在の南相馬市石神である。前半のおよそ36ページほどが伝記、そして後半65ページほどが「富田高慶翁遺稿」で純然たる漢文からなっていて私の手には負えない。といって伝記の方も、漢字カナ混じりというのか、たとえば「富田翁名ハ高慶字ハ弘道任斎ト號ス通稱ハ久助…」という具合の書き方がされていて読み解くには一苦労必要だ。
 いやそんなことより、富田高慶その人のことは一般にはあまり知られていないだろうから、そこから話し始めなければなるまい。なんて偉そうな物言いをしたが、実は私自身、2002年相馬に戻ってきてから知った名前である。富田高慶(こうけい、あるいはたかよし)はあの二宮尊徳の高弟である。
 ここに「報徳仕法原町市版 二宮金次郎・富田高慶からの贈りもの」という大判の62ページほどの本がある。野馬追の里原町市立博物館編集の小中学生向けに易しく説明した本である(2004年発行)。
 要約すれば、天明七年(1787年)に旧相模の国に生まれた尊徳が天明の飢饉との苦闘の中から編み出した農村復興のプログラム、いわゆる報徳仕法に深く感銘し共鳴した相馬藩士富田高慶が、ここ相馬藩の各所で師の教えを実践していく。特に相馬(中村)藩は天明の飢饉で藩内から逃げ出す人などがいて人口が激減し(北陸地方から浄土真宗門徒を移民として受け入れるきっかけとなった)、財政も悪化の一途をたどっていたが、高慶らの努力で徐々に、用水路、溜池などの設置、損壊した家屋の修築、農民の勤労意欲を強め互助の精神を涵養するための常会の新設など、つぎつぎと大胆なプログラム(仕法)を実践していった。
 尊徳の死後、報徳仕法はその子尊行(そんごう)に受け継がれ、また娘文(ふみ)は富田高慶と結婚するが翌年亡くなる(1853年)。戊辰戦争(1868年)が始まると尊徳の妻歌子らは江戸から中村藩に移り住み、そして明治3年には藩の用意した石神村(現南相馬市)の家に住むこととなる。
 にわか勉強でおおよその流れをたどってみたが、書きながら思っていたのは、天明の飢饉などのあと、相馬は荒廃し人口が減ったなかで、命がけで藩の建て直しをはかったこと、そして今回の地震・津波さらには原発事故によって再び相馬が危機に瀕していること、そしてこの危機からの起死回生はいかにして可能か、ということである。要するに時代背景も危機の実態もまるで異なるこれら二つの歴史的事実を結びつける何かがあるはずではなかろうか、といった漠然たる予感である。
 答えはすぐに出てくるはずもない。しかし長い間、尊徳翁や高慶の顕彰を引き継いで来た先輩たちに、まさにいまこそ、その継承されてきた智慧と知見を、荒廃した郷土のために役立てていただけないだろうか、という期待である。
 江戸時代とは違って明治になると、この報徳仕法は政府に頼らず自分たちがお金を出し合い、それによって独自に運営するという新たな展開を見せたという。まさに自治の精神であろう。また昭和63年(1988年)からは、報徳仕法ならびに二宮尊徳とゆかりのある29市町村の首長が集る報徳サミットが毎年持ち回りで開催され(第10回は原町市)、また2002年には「国際二宮尊徳思想学会」が設立されて北京でシンポジウムが開催されるなど国際的な関心も生まれつつあるそうだ。
 尊徳や高慶が八戸の安藤昌益と共に、これからの東北を考えていくための貴重な里程標であることは間違いない。ともあれ、従来の爺さんたちが集ってする顕彰の集いというイメージ(私だけのものではあるまい)から抜け出して、新たな角度から尊徳や高慶が見直されるきっかけを作って欲しい、というお笑い用語でいうところの唐突極まりない無茶振りである。いや言いだしっぺなりに、この私も応分の貢献ができればとは思っている。そのためには尊徳や高慶についてまずはしっかり勉強しなければ。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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報徳仕法と大震災 への1件のコメント

  1. 宮城奈々絵 のコメント:

    私は歴史や伝記物が大好きなので、日本のこの危機に対処を学ぶべき先人の方々がいらっしゃるはず…と思っていたところで、blogを読み「やっぱり!!」と大きく頷いてしまいました。
    この国には藩立て直しに尽力してきた方々の模範があるのに、今のこの国は先人方に学ばず…さらに働かずでしょうか…。何の為に国を運営しているか、どこに行こうとしているのかがサッパリ分かりません…。
    学校でのことを見ていると、時々、江戸時代の寺子屋教育や藩教育の方が人格、能力、優れた人物を生めたのでは…などと考えたりもします。
    誕生年で一斉に一年生に上がり、後は硬直化した一年一年を積み重ね社会へ船出…「金太郎飴君」になりきるか「金太郎になれず飴」ではずれるか…。硬直化した役人、政治家しか生まれないことも納得出来ます。
    「温故知新」大切だと思います。

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