思わぬ展開

大震災・原発事故がもたらしたものが災厄だけでなかったことは、人間に起こるすべての幸・不幸の摩訶不思議なところである。つまりそれを機会に、思いもかけない出会いがあったり、日ごろは見えない人間の美しさや気高さが露出する機会でもあったということである。
 私の周りでも、もし大震災無かりせばありえなかった出会いがいくつもあった。そのうちのいくつかはここで紹介させてもらったが、そうした出会いはまだ続いている。そのうち最近実現した二つの出会いをご紹介しよう。
 一つは40年以上も前に遡る。当時双子の赤ちゃんをそれぞれ一人ずつ抱いて上京し、南武線稲田堤の古い木造アパートにひとまず居を定め、初めは非常勤の資格で教師生活を始めて直ぐの頃のことである。スペイン語の教師になったもののスペイン留学の経験がないどころか、旅行でさえ行ったことがなかった私に、都内の大学生のスペイン旅行への随行教師の役が舞い込んだのである。
 で、そのとき旅行会社の担当であったOさんが(ただし実際に添乗したのは別の人だったからOさんの記憶が薄れたのも無理はないだろう)、先日突然電話をかけてきたのだ。つまりOさんは、昨年七月の「週刊現代」の記事の中で私を見てびっくりしたらしい。そしてご自分が立ち上げた会社の仕事にも最近時間に余裕ができてきたので、被災地でなにかボランティアをしたいが相談に乗ってもらえないか、との電話である。
 その手の話は私にはまったく不適で、いつもの通り西内君の出番となった次第。それで先日、下見がてらそのOさんが当地に来られ、そして拙宅にも見えられたのである。いや話はここからが面白い。
 つまり話がたまたまメディオス・クラブのことに及んだとき、Oさんがこれに強く関心を示されたことから、まだ設立もしていないのに気の早い話だが、クラブの大阪支部を考えてもらえないかと提案したのだ。そして彼から思いがけない話を聞いた。というのは南相馬に向かおうと大阪を出発する日(彼の会社は梅田にある)前からの知り合いだった中桐万里子さんと会ったというのだ。つまり二宮尊徳の七代目のご子孫である。彼女が尊徳さんの娘婿である相馬中村藩士・富田高慶にどう繋がるのか繋がらないかは知らないが、ともかくご先祖とゆかりのある相馬の精神的復興に以後よろしくご助力願いたい、とOさんその場で中桐さんに電話かけてくださったのである。
 もう一つの出会いは、先日ここでも話題にしたビスカイノの『金銀島探検報告』の翻訳にまつわる出会いである。先日、とうとう■先生が相馬市教育委員会の市史担当のK氏を伴って拙宅に見えられたのだ。私より二歳年上のいかにも学者らしい誠実なお人柄に最初から親しさを覚えた私は、本論の翻訳の話そっちのけで、相馬の復興は精神的なそれが最重要であるとの持論を持ち出したところ、先生もそれにはまったく賛成で、話がどんどん発展し、最初の出会いはあっという間に終わってしまった。
 ところが昨日、今度は先生お一人で、先日約束してくださった『仙台市史特別編慶長遣欧使節』(2010年刊)という重い豪華な美本や先生の著書『歴史としての相馬』(刀水書房、2000年)などを電車と徒歩でわざわざ持ってきてくださったのだ。いらっっしゃる前から、実はこちらには大事なお願いを用意していた。つまり「メディオス・クラブ」の呼びかけ人の一人になっていただき、いずれは相馬支部のお世話をしていただきたいという下心(?)である。
 しかしそのためには、先日ここでご披露した「マニフェスト」に少し、というか大事な修正を加える必要があった。つまり当初は高校生を対象にしていたことから、会の本拠地を南相馬に限定していたが、より理想的には相馬市をも加えた「相馬地方」とすべきであるということ、さらに「本会の目的」の後のメディオスという言葉の説明に重要な加筆をすべきと思ったのである。つまり「その意味で、スペインの哲学者オルテガの<私は私と私の環境である>という未来世界へ向けての重要な指針と軌を一にしています」という文章を入れることである。
 もちろんそのことは事前に西内君の了解を得ておいた。ともかく、先生に加わっていただくことで、相馬の歴史を考える学問的根拠が一気に強まるわけだ。先生から心強いサポートのお約束をいただいたのはもちろんだが、実はクラブのことだけではなく、個人的に、もう一つの成果があった。つまり相馬中村出身の父方のルート探しにもいろいろご助力いただけることになったことである。その最初の表れは、先生が帰られた後に、相馬市教育委員会のK氏から届いた5冊の『衆臣家譜』である。
 そのK氏の説明によると、「衆臣家譜とは奥州相馬中村藩を支えた家臣団のうち、麓(ふもと)給人に係る系図」ということらしい。佐々木姓のサムライは複数おり、そのどれが私の父の系譜に繋がるか現段階では分からないらしい。いや私の方がもっと分からない。しかし今まで、まったく手がかりのなかった先祖探しが、これで大事な一歩を踏み出せたことは間違いない。メディオス・クラブの話から、思わぬ展開を見せてきたことに興奮している。
 少し、いや大変な長話になってしまった。続きはまた別の機会に。

追記 麓とはまた異な言葉よ、と思って調べて見たら、これは府本(あるいは府下)とも書き、江戸時代、薩摩藩の地方支配を言う言葉から来ているらしい。
 ついでといったらそれこそ失礼だが、■先生は東北学院大学名誉教授で経済学博士、仙台市史専門委員会委員で、東北の歴史・経済をめぐる研究書や柳田國男論など多数の著書をお持ちである。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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思わぬ展開 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     内村鑑三の『代表的日本人』の中に二宮尊徳が入っています。確か、100年以上前に書かれた本なのに、当時、英文で執筆刊行されて広く世界に紹介されていたと思います。内村鑑三が着眼し、重きを置いていたことは道徳的な偉大さという一点に集約されています。「相馬の精神的復興」には正に中桐さんの助力は大きな意味があると思います。

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