ストップ・ザ・進歩(続き)

一昨日から昨日にかけて、我が家は久しぶりに大賑わいだった。成田での香取神道流の集まりに来日したエバさん(拙著『原発禍を生きる』のスペイン語版の表紙絵を描いてくれた女流イラストレーター)とスペイン大使館勤務のかつての教え子・色川紀子さんが泊りがけで遊びに来てくれたからだ。実はもう一人、やはりマドリードの道場仲間の画家ビセンテさんも一緒に来てくれ(彼はすぐ近くのホテルに泊まった)、一昨日は福島からのバスを駅前のバス停で迎えてから、その足で六号線を北上して日立木の美味しい蕎麦屋さん、次いでその向いにある百尺観音(例の替え歌「原発難民行進曲」に出てくる観音様)などを見物したほかは、夕食をはさんで四人でさまざまな話題をめぐっての楽しいおしゃべりで時間を忘れた。
 昨日は伊達市で町興しのスタッフとして働いているベネズエラ帰り(確か海外青年協力隊員として)のXさんも来てくれ、午後一時の福島行きのバス時間ぎりぎりまで、またもや楽しいおしゃべりが続き、普段は埴谷さんの『死霊』に出てくる黙狂並みにひたすら沈黙を守っている私にとっては盆と正月が一緒に来たような、いやもっと適切な表現を使えば「そのまま思い出となるような」楽しい二日間だった。
 それはともかく、先日の尻切れトンボのその尻尾をつけないことには、本当に言いたかったことが伝わらないな、と気になっていたので、取ってつけたような尻尾に見えるかも知れないが大急ぎで書き足してみる。
 今回の騒動がアホらしいと思ったのは、要するにそれほど大騒ぎをするほどのことか、と言いたかったのである。たとえばスタップ細胞とかが医療に応用されるようになって、これまで不可能だった治療に革命をもたらしたとしよう。でもそのためには莫大な医療費が嵩み、その恩恵に与れるのはほんの一握りの富裕層に限られるであろう。いやいつかそれはさらに安い費用で庶民にも使われるようになる? そうかなー。今だって世界全体に目を転じれば、医師や病院がないため、あったとしても治療費、入院費が高額なため碌な治療も受けられずに死んでいく人の方が、病院などで治療を受けられる人よりはるかに多いんじゃない?
 いやちょっと話がずれてきたようだ。もちろん私は、病人は高額で高度の治療など受けずに、すべからく従容として死を迎えるべし、などと考えているわけでもないし、あの「ものみの塔」のように輸血拒否を勧めているわけでもない。でも内臓移植あたりまで来ると、他人がそれをすることに反対するつもりはないが、しかし自分のこととなるとその手術を受ける気にはなれない。本当に? もし自分の子供とか愛する人の場合も?
 もし現実にそういう事態なっても、と自信を持って言うことは出来ないが、しかし美子の認知症に関してはすでにどこかで書いたことではあるが、もう一度おさらいしてみる。もしも適切な治療法があればもちろん何としてでも受けさせたろうが、しかし少なくとも現状では治療法がないと知っていたので、そのための診察を受けることもしなかったし、ましてや各地の大病院や大学病院を訪ね回ることなど最初から考えなかった。そしてもしもこの先、画期的な治療法が見つかった場合でも、そのために長期の入院加療が必要で、しかも治ったとしても罹病してから現在までの記憶がすべて消えてしまうとしたら、二人の老い先も短いことを考慮して、治療をことわるだろう、と書いた。つまりこの十年近くの、そして今も続く介護の日々、そのすべての時間が二人にとっていまや何物にも換えがたい貴重な宝だからだ。
 いま書いていることがたいていの人には首肯しがたいものであろうことは書いている本人も承知しているので、少し視点を変えてみよう。要は私の中には、もともとあった考え、そして原発事故のあとさらに強まり、いまや確信どころか信念にまでなった考え、すなわち進歩幻想に対する異論、というよりいまや激しい怒りともなった考えが根底にあるわけだ。
(またもや難航し始め、一夜が明けた。難航で思い出したが、韓国の客船海難事故、本当に痛ましい。犠牲者ならびに遺族のためにも一日も早い事態収束を心より祈っている。)
 話はふたたび急旋回するが、先日ある人からのメールに、小説家のA. Sさんは原発容認派らしいが、ともあれ私としては反対派の意見もよく聞いたうえで、自分なりの見解を持たなければと思います、とあった。しかし私からすれば、核エネルギーについてはもはや両者の言い分を比較考量するまでもない、と考えている。かと言って、反対派の口を封じる気もないし、議論する気もない。お天道様が東より上がって西に沈むのと同じくらいはっきりしていることだからだ。ダンテの『神曲』の地獄編にあるように、「汝見て、しかる後、黙して過ぎよ」の心境である。過激ですか?
 そうであり、またそうではない。つまり私はラディカルではあるが、過激派ではなく、いたって穏やかな根っこ派なのだ。もちろん心の中では、A. Sさんよ、作家のくせして(?)ばっかじゃなかろか、とつぶやくだけで声には出さない。でも彼女(そう女流作家です)いつごろからおかしくなったんだろう。前はもっとまともだったのに。そういえば大昔、彼女の小説について評論を、それもかなり好意的な文章を書いたこともあった。それがあの二人のしんちゃんみたく、やたら右傾化してしまった。二人のしんちゃんてだれのこと? もち首相と元都知事さーね。もう一人別のしんちゃん、クレヨンしんちゃん、はすぐお尻プリっと出して下品だけど、害はないわな。
 話はまたがらっと変わるが、事故後まもないある日、テレビを見ていたら、宇宙開発の番組らしく、アメリカの大金持ちが「かつてはゴールドラッシュだったが、これからは月にあると思われる鉱物資源を目指してのムーンラッシュだどい」なんて赤ら顔を輝かせて興奮していた。それを見て心からの軽蔑の念をこめて「ばっかじゃなかろか」と、このときは一人だったので思い切り罵倒してやった。
 どうしてこう際限なくものを欲しがったり、やたらその先を求めるんだろう。月は眺めるものであって、けっして征服さるべきものじゃない。どっかの石油成金の国の豪壮かつ高層な建築群を見て(もちろん映像を通して)なぜ人は吐き気を催さないのだろう。金に飽かせてつるつるの大理石の御殿をぶっ建てて、幸福になどなれるんだろうか?
 またもや大きく脱線気味。軌道修正しようにも、元のレールがどこに行ったかも分からなくなった。あゝそうだった、スタップ細胞のことだった。彼女、名前を忘れてしまったが、真面目なのは、真理一筋なのは分かる。でも何のため? ここで先日、ソウル大学統一平和研究所宛てのメッセージで書いた一部を引用して、今日もまた尻切れトンボのまま退散しようっと。今度は二股の尻切れトンボになっちゃったけど。あのメッセージの場合は原発推進派の研究者に対してであったが、今回のスタップ研究集団に対してもまったく同じことを言いたいのである。

 「彼ら専門家集団・推進者の思考回路には、それがなければ人間の理性がいつか踏み誤る回路、すなわちスペインの哲学者オルテガの言う「往還の回路」が欠落していた、いや今なお欠落しているのでは、ということです。つまり科学研究の場合で言うと、いま研究している対象が人間の生にとって果たして最終的に有益なものかどうかを、絶えずフィードバックする回路です。この場合大事なポイントは、作業の一貫性とか効率性ではなく「人間の生」にとって有益か、という一点です。それがなければ悪しき意味でのスコラ哲学的迷走を始めてしまいます。よく引き合いに出される中世ヨーロッパの笑い話に、煩瑣な哲学論議の果ての、あの「針の尖に天使は何体とまれるか」というのがありますが、それと同じ迷走を演じてきたのでは、と考えています。」


【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授)からいただいたお言葉を転載いる(2021年9月6日記)。

曾野綾子の小説は短編集一冊を読んだことがむかしあるだけです。そのなかの一編はその後も再読しました。作に感動したからではなく、モチーフに関心を持ったからです。自分の代わりに身代わりになって死んだ人がいた。助けられたほうの人はその後の人生をどのように生きたのか。『バラバ』から『プライベート・ライアン』にいたるまで、このモチーフは文学に扱われます。
自分は誰かを犠牲にして生き延びたにすぎない。このモチーフはヴァリエーションを伴いつつこれからも文学に繰り返し取り上げられるでしょう。
曾野綾子の短編小説がわたしに対して持った意味は、題材またはモチーフの特異さによるところが大きく、作の中身の充実によるものとは言えなかったので、さらに他の小説を読もうとするところまで関心が伸びることはありませんでした。
先生がかなりこの作家の作品を読み込みつつ、同時に辛辣な批評を寄せておられたことは当時少しも知りませんでした。
しかし、短編集一冊だけであとは事実上敬遠したわたしのなかにも、この作家に関心が湧かない理由の一端が、先生によって指摘されていたようです。なぜ書くか、という作家の執筆動機に内的な必然が稀薄と感じられたのが理由の一つですね。事実を調べて書く。そこに作家への信頼性を感じる読者は少なくないでしょうが、当時のわたしにはそれが作家を信頼する大きな理由ではありませんでした。迷路と化した現代人の意識の迷妄に分け入る勇気を持った作家の作品にもっぱら引かれていました。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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ストップ・ザ・進歩(続き) への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     人間の生とは人間の内面と私は考えてみました。人間にとっての外的要因、例えばお金とか友人、地位など、確かにあるに越したことはありませんが、それをどう思うかという内面にある心に満足感を齎すかが重要だと思います。原発にしてもスタップ細胞にしても外的要因としては何らかの有益な意味合いはあるんでしょうが、「人間の生」にとっては、確かに、先生が言われるように、有益とは言い難いと私も思います。人間にとって、科学の進歩という外的要因ばかり追いかけていても、人間の内面性に目を向けなければ人間にとっての幸福にはならないんでしょう。一歩踏み込んでいえば、文明の最高目的は自己の人格の向上に究極の意味があるのかも知れません。

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