「焼き場に立つ少年」報道異聞

昨晩、寝しなに二歳児・藤本理稀(よしき)坊や発見のニュースや西日本新聞の「焼き場に立つ少年」についての記事を読んだからであろうか、朝方、以下に述べるようにそれら二つのニュースが重なって、半覚半睡(これ私の造語)の中で面白い内容の夢となった。それら半覚半睡の中の夢のほとんどは起きてから思い返すと荒唐無稽なものだが、たまに今回のように目覚めてからもなお何らかの意味を持ち、それを現実に反映させたいと願う(ふざけて夢のお告げと謂う) こともある。
 簡単に言えば、私と同い年の尾畠さんが二歳坊やを発見したことと、原発被災地に住む78歳老人(私のことです)が焼き場に立つ少年を再発見したという二つの出来事が重なって見えたわけだ。尾畠さんの方は、この殺伐とした事件頻発の世の中で何か心温まるエピソードとして大きく報道されたが、じゅうぶんその価値がある。もう一方の焼き場に立つ少年については、報道された写真と法王フランシスコは確かにニュースバリューがあるが、再発見した(きっかけを作った)老人の方は無視してもいいと思われたのかも知れない。
 先日、法王のメッセージとその写真が印刷されたカードが全カトリック信者に配られた時、仙台のある信者さんたちは法王発信のきっかけを作った佐々木について何も触れてないのはけしからん、と怒ったそうだが、私としては法王がそれについて何も言っていない以上、そのカードに佐々木への言及がないのはむしろ当然と思っていた。しかし八月九日付の「朝日新聞」の記事の中で、「法王はどうしてこの写真を選ばれたのでしょう?」という意味の記者の質問にカトリック中央協議会の担当者(職員それともどこかの司教?)が「さあ?」と言葉を濁していることには納得がいかなかった。というよりその時から協議会への不信の念を強めた。なぜなら既に七月二十二日付けの「カトリック新聞」に、北海道新聞の岩本記者がその顛末をしっかり記事にしていたからだ(上のメディア情報履歴にここに出てくる関連記事が収載されている)。
 この協議会の対応には二つの可能性が考えられる。その記事を読まなかったか、読んでいても無視したか。とうぜん後者ではないかと思う。なぜなら、カトリック新聞はまさに協議会のお膝元(同じ建物)にあるだけでなく、その後の展開を見ていると、個人の手柄(?)よりもむしろ組織のそれを優先させる体質が見え見えだからだ。今さら言うまでもないが、この話の本質は、一老人の自慢話ではない。私が当時ローマにおられた元イエズス会総会長ニコラス神父に、自作のスペイン語キャプションを付けた少年の写真を送っただけでなく、相前後して送った「スペイン語圏の友人たちへ」と題するスペイン語訳書簡の中に次のような一節があったからだ。

「最近、ローマ教皇フランシスコは、核兵器は人類に対する犯罪であり、私たちは広島や長崎の悲劇から何も学ばなかった、と公式に発言なさった。そしてこのメッセージは、国や宗教の垣根を越えて多くの人たちから熱い賛同を得た。洗礼名が教皇と同じフランシスコで元イエズス会士の私としては、教皇にもう一歩踏み込んで、私たちはすべての核利用を放棄すべきであると言っていただきたいと心から願っている。なぜならだれもが知っているように、原発作動の技術は核兵器製造に容易に転用できるからだ。つまり両者は同根のものであり、互いに応用可能なのだ。愚かな日本の政治家たちが言っているように、原発開発の技術は、核兵器のためのいわば担保とみなされている。」

 つまりその写真の送り主が原発被災地に住む元イエズス会士(五年間の修練のあと還俗)であり、日ごろから熱心にあらゆる核利用に反対してきた人物であることをおそらく承知したうえで、あの写真を宣布なさった可能性大だからだ。ただし私の願いのあと半分、すなわち原発全廃についてはいまだにはっきりとは反対を表明されていない(と思う)。EUのカトリック大国フランスなどへの気兼ねがあるのでは、と愚考している。
 もちろんあの写真はかなり広く知られていたものだが、先の推定を裏付ける決め手(?)は、私が作文したスペイン語のキャプションである。つまり同じ内容のメッセージを句読点まで含めて一字一句全く同じものを作る、あるいはどこかから持ってくる可能性はほぼゼロだからだ。
 個人的なことになるが(すべてがそうだが)今月中に私も満七十九歳、つまり数えで八〇歳になる。だから残された日々、いわば我が「白鳥の歌」の叙唱として、人にどう思われようと言うべきことを言ってから死にたいと思っているので、今回しつこいようだがこの問題にこだわっている。
 前述の中央協議会に限らず、現在信徒数も伸び悩んでいるカトリック教会はどうも元気がない。ちょっと言い過ぎになるが相撲言葉で言えば「死に体」。要するに今回の写真をめぐっての対応にしても、生きた共同体の「共に喜び、共に泣き、そして共に怒る」姿勢が微弱であるということである。つまり今回の写真騒動のことだって、「田舎の教会の一人の老人が発した願いを教皇様がいち早く聞き届けてくださった。実に目出度いし勇気が出てくる。さあ私たちも神父さんや中央協議会に対してだけでなく、このネット時代、時にはローマや教皇様に自分たちの願いや喜びを直接伝えよう」となれば最高。しかし或る教会事情に詳しい人の言によれば、日本の教会は司教叙階と列聖運動しか話題にしないそうだ。
 彼ら(つまり教会やその信徒)の並走者を自認する私にとって、彼らが死に体であっては困るのである。
 一月の時点、つまり法王があの写真を宣布した直後にも書いたことだが、いわば法王庁は宮内庁みたいなところがあって、一個人の提案の由来を明確にしてことが進むはずもない。しかしかなりの確率で推定できることを下々の人間が書いたり話したりすることは許されるだけでなく、そうすべきであるとさえ言える。つまりそうすることによって雲上人がより親しく感じられ、その人間性を理解できるようになるからである。
 宮内庁で思い出したが、大昔、ある人を介してその頃はまだ皇太子妃であられた美智子妃殿下がオルテガの作品を読みたいと所望されていることを知り、私が故マタイス神父と共訳した『個人と社会』と『ドン・キホーテをめぐる思索』を献呈したことがある。今年創立八百周年を迎えるサラマンカ大学に美智子妃殿下の名を冠した広間があり、常々皇室とスペイン王室が親しく交流されていることなど、遥かなむかし私たちの訳した本がそのために何らかの貢献をしたと考えることは、なにも不遜なことでも単なる妄想でもないはずだ。※※※※
 先の話に戻るが、法王が写真を宣布してから半年以上も経って、北海道新聞の岩本茂之記者がカトリック新聞に書いた「焼き場に立つ少年・写真が教皇庁に渡った顛末」という記事を読むと、この問題に対する彼の強い関心とその記者魂に感心させられる。その間の流れを少し説明すると、1月9日に岩本さんからこんなメールが来た。

 ニコラス神父から、佐々木さんが「焼き場に立つ少年」を送られたことが、1月1日の配布指示につながった(のではないか)というご確認がとれないでしょうか。
 ニコラス神父のご確認が取れれば、大きなニュース記事として、佐々木さんの願い「全反核」を発信できるのではと思った次第です。何卒よろしくお願いいたします。いずれにせよ、佐々木さんのお話が大変嬉しく新年の希望の光であることに変わりありません。
 素敵すぎるニュースをありがとうございます

 それに対して、あの写真採用は、三人が、つまりイエズス会士で現法王のフランシスコ、同じくイエズス会士で元総会長ニコラス、そして現在は原発被災地で寝た切りの妻を介護しながらすべての核利用廃絶のために奮闘している元イエズス会士佐々木、これら三人のいわば紳士協定、つまり暗黙の友情交換だから裏を取るようなことはしたくない。佐々木の名前は出さないが、君の下手なスペイン語をそのまま使うことで私の賛意をくみ取ってほしいとの法王フランシスコの気持ちを裏切りたくない、と返事したが、彼からは「佐々木さんのお気持ちを尊重したいので、法王庁に聞くのは断念します」との答えが返ってきた。
 しかしとにかく現時点で書ける範囲のことを記事にしようと、彼は5月21日付けの自社新聞(北海道新聞)の夕刊「今日の話題」というコラムに「網を揺り動かす」を書いたのである。そして今度は、そうした経緯を見守っていたカトリック新聞の大元記者が自社新聞の「意見・異見・私見」というコラムへの執筆を岩本さんに依頼し、かくして7月22日、岩本さんの「焼き場に立つ少年・写真が教皇庁に渡った顛末」がカトリック新聞の紙面を飾ることになった。言うまでもなくこれは佐々木が企んだことではなく、あくまで大元記者の寛大な申し出と、それに快く応じた岩本記者の善意から生まれたものであった。この際、改めて両者の誠実な対応に感謝申し上げたい。
 ながながと書いてきたが、この辺で切り上げよう。最後に言わずもがな、の補足だが、一月の時点でこのニュースを知った昔の教え子の一人が、先生のスペイン語を法王が無断で借用したのは悔しい、せめて著作権マーク(©)を付けてほしかったです、と言ってきたときは、そんな馬鹿な、と笑ったが、いま考えると彼女の指摘にも一理あるなと思えてきた。
 せっかく書いたのだから、このままブログをコピーして、関連記事を書いた朝日新聞と西日本新聞の記者氏に郵送しようと思っている。あっ大事な宛先を忘れていた、カトリック中央協議会には当然送付しなければと思っている。

 以上、長のお付き合い感謝します。


※ 動かぬ証拠(?)として、送信記録が残っているニコラス神父宛ての写真に付したスペイン語をそのままここに転記する。これは法王フランシスコが全世界に向けて宣布した時のキャプションと全く同一であることはスペインの新聞に載った記事からも確認している。今回カトリック教会が信者に配布したカードの日本語は、そのスペイン語を訳したものらしい。
“Un niño que espera su turno en el crematorio para su hermano muerto en la espalda. Es la foto que tomó un fotógrafo americano, Joseph Roger O’Donnell, después del bombardeo atómico en Nagasaki. La tristeza del niño sólo se expresa en sus labios mordidos y rezumados de sangre.”

※※ 文中、法王と教皇という風に二通りの表記があるが、一般的には「法王」、そして信者間では「教皇」を使うためで他意はない。

※※※ 先日、グラナダの我が恩師マルドナード神父からの動画入り情報によると、ニコラス神父がフィリピン経由で日本へ戻られたそうだ。しかし病気療養の状態なので、上の記事の「裏を取る」ことは絶対に控えてください。そこんところよろしく。

※※※※ たしかそのころだったか、我が恩師・故神吉敬三先生が頻繁に宮中に呼ばれ、スペインやスペイン美術のご進講をしたのは。ただしオルテガについては、仲介したのは今はスペインに戻られたシスター・ガライサバルで、その頃清泉の教え子の一人が教育係侍従(たぶん皇太子の)になったはず。彼女はもう世間に(?)戻っているが。

★ ラジオ福島の番組録音は上の「メディア情報履歴」に移しました。まだの方はぜひお聞きくださいませませ。

アバター画像

佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
カテゴリー: モノディアロゴス パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください