1967年10月7日夜、ユロ渓谷にいたゲバラら17人のゲリラ兵士は、ボリビア政府軍6個小隊に包囲され攻撃を受けた。指揮官ゲバラは左足を負傷しながら応戦したが及ばず捕らえられる。捕虜となった翌9日、小学校の教室に連れて行かれたゲバラは、そこで銃殺された。
一方、偽ゲバラはそれから約一ヵ月後の11月12日の昼過ぎ、I会神学院を出て、ふるさと相馬に帰るべく上野駅に向かった。当時の日記にはこう書かれている。
11月13日(月)晴れ
朝八時半ごろ起きた。母はもう学校に出かけた後だった。昨夜は九時十五分に原町に着いた。母が一人迎えに出ていた。タクシーに乗り、途中母一人だけY病院に祖父を見舞うために降りた。ぼくは挨拶は明日、と思い、まっすぐ家まで行った。
母と十二時近くまで話をする。がんばろうと思った。
朝方、それも十一時近くになってから教会に神父さんを訪ねた。喜んでくださった。ぼくがなにか修道院にいずらくなって出てきたような話し振りだったので、そうではないことを説明した。
お昼ごろY病院に行き祖父と会う。可哀相なくらいやせていた。餅を食べたいと言うので、菓子屋に買いに行った。
午後は手紙書きに時間を当てた。夕方、本屋に行き、講談社世界文学全集の「カフカ・リルケ」を購入。
夕暮れが美しい。ぼくは詩人だ。
そして数日後、ノートの隅っこにこんな詩らしきものを書きつけている。
一、修道生活を断念して 故郷に帰る私を
友はボリビアに降る 革命家ゲバラに譬えた
それはあまりの買い被りというものだが
(そう言ってくれた友情を まことに有難いものと思った)
二、故郷は、寒さに向かって厳しく 身を固くしていた
青黒い空の下に 土蔵の白と柿の実の橙が
疲れた私の眼にはまぶしかった
(私はみちのくという名より 東北という無骨な名が好きだ)
三、ある日、幼い姪と甥をつれて 近くの丘に登った
鈍色の空に白い雲が光り 薄が風に揺れていた
あゝ、それはあまりに物悲しい風景
(四、五人の女学生が 自転車に乗って野原を横切る)