最近は本をじっくり読む精神的余裕がない生活が続いている。こんなことでは、自分の内面がどんどん枯渇してゆくような不安さえ覚える。我が「貞房文庫」にある本の数は、いわゆる蔵書家のそれの足元にも及ばないが、それでも自分に残されているであろう時間の中ではその100分の一も読めないのではないか。そう考えると何とも言えぬ悲哀感に襲われる。
しかしそんな雑駁な日々の中で、ふと訪れた至福の時間、つまりさしあたって特にやるべきことがなく、妻と猫が居間であるいはテレビを見たり(猫は見ないが)あるいはうとうとまどろんでいるような時間、なにとはなしに手にとる本というものがある。かつてそれは『次郎物語』であったり、またあるときは魯迅の短編集であったりした。このところときおり読み継いでいるのは表題の森本哲郎氏の文庫本(PHP)である。
もともとこれは『日本の挽歌』という題で1980年に角川書店から出されたものという。氏の著作はあらかた読んできたつもりだが、これは初めて読む本である。目次にあるエッセイの表題を読むだけで、この本の視点というか狙いが伝わってくる。たとえば最初の三篇「冷たい火鉢」、「煤けた軒端」、「ゆるい下駄」である。つまり現代版『枕草子』あるいは『徒然草』とでも言えようか。そして両古典にはそれほど強くなかった悲哀感、つまり失われていく物たちに対する激しい喪失感が全編に漲っている。それは同時にそうした親しい物たちを切り捨て忘却してきた者たちに対する鋭い批判でもある。
ところで本書は氏から贈られたものである。本を出されるたびに氏からいただくようになったのはいつからだろうか。最初の出会いはもう30年以上も前のことである。最初に勤めた大学で学生たちのために講演をお願いしたのがお付き合いのきっかけとなった。そのときの講演の内容より、氏が乗ってこられた真っ赤なスポーツカー(いや赤は赤だがセリカという車だったかも知れない)に驚いた記憶が鮮明である。
次は20年ほど前、そのころ勤めていた大学にやはり講演のためお招きした。これまた氏には申し訳ないが、それがどんな形式の催しの際だったのか、しかも肝心のお話の内容より、駅から会場までのタクシーのなかでの氏の温かな声(賢弟毅郎氏と同じ声質)だけが記憶に残っている。
いやそんな個人的な感懐を述べるつもりはなかった。言いたかったのは(いつものとおり大事なことは最後に舌足らずに語られる)、氏の書かれるものが現代稀にみるきっちりした日本語であることだ。そうとしか表現できないままの評語だが、多分それは漢学者であられた父上から引き継がれた凛とした日本語の伝統ではなかろうか。
もしかして氏の著作を愛読する読者の多くは、たとえば大会社の重役とか「古き良き日本」に郷愁を覚えるいわゆる良識人たちかも知れない。しかし私としては、氏の著作の射程はそうした良質の保守主義をはるかに越え出る革新性にこそその本質があり、だからこそ若い世代にぜひ読んでもらいたいのである。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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