昨日の森本氏の本につられて、自分にもなにか下駄にまつわる思い出でも、と思ったが、いざとなると特に書く値打ちのあるものなどありそうもない。『たけくらべ』の信如と美登利のような、甘酸っぱい初恋物語でも書ければいいのだが。
しかし改めて考えてみると、最後に下駄を履いたのははたしていつだったか定かではない。いつの間にかつっかけ、サンダルに変わっていたようだ。これはなにも私だけの個人的な変化ではなく、日本人全体の生活に起こった変化の一つであろう。いまでは納涼会(という言葉自体も死語であるが)に浴衣姿で出かける時ぐらいしか履かなくなった。私はそれさえしたことはないが。
といかにも若ぶった言い方をしたが、実は十七、八歳ごろまで、靴などめったに履かず、年中下駄履きだった世代に属しているのだ。靴といっても運動靴、つまり当時はズックと呼ばれていたものだけで、下駄といってもいわゆる朴歯である。朴歯とは、ホオノキの材で厚く作った下駄の歯またその歯をつけた下駄のことで、足駄とも言うが私たちは高歯と呼んでいた。高校三年まで通学のときも遊ぶときも常に高歯であった。そして私たちの学年が高歯時代の最後だったようである。正確に言うと、地方では1958年(昭和33年)あたりまで、学童は小学生は普通の下駄、中学生から高校生まで、すべて高歯を履いていた。
足は人間の体の中では比較的鈍感な部分と思われがちだが、じつは素足は季節の推移を繊細に感知するアンテナみたいなものである。じっとりと足裏が板に吸い付くような梅雨時、冷や冷やと風が指股をくすぐるような初秋、足袋履きにも関わらず確実に指先が霜焼けになってしまう冬季、そのいずれの季節も真っ先にその変化を察知するのは足である。
いや、いわば受動的に季節を感じるだけではない。板を介してであれ靴よりはるかに必死に、吸盤のように、足裏は大地をつかもうとする。それはまるでギリシャ神話のアンタイオスのように、大地に触れることによって、そこから無限の力を得ようとしているかのようだ。
隔靴掻痒という言葉があるが、私たちは常時靴を履くことによって、下駄履きでは可能であった自然との接触・交流を犠牲にしてしまったのかも知れない。下駄履きはアスファルトとビルの中ではちと他人迷惑かも知れないが、田舎では誰の迷惑にもならない。よし、今年の夏は朴歯は無理としても、普通の下駄でも買ってときどき履いてみることにしよう。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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