春風が吹き抜けた!

木曜夜7時、いつもだったら20名ほどのの受講生が「ブエナス・ノーチェス、セニョーラス・イ・セニョーレス!」の挨拶でスペイン語の勉強を始めているのに、今晩は特別メニュー。ボサノバ歌手の吉田慶子さんがミニ・ライブをして下さるのだ。
 吉田さんとの出会いは5年ほど前にさかのぼる。田舎に帰って間もないころ、人づてにプロのボサノバ歌手吉田慶子さんが地元を拠点に演奏活動をしていると聞き、インターネットで彼女のサイトを探し出し、メールにアクセスしてみた。それからまもないある夜、当時の会場であった文化センターの教室に吉田さんが訪ねてくださったのが初対面。以後拙宅に来て下さったり、コンサートに出かけたりの付き合いが続いていたが、いつか受講生に吉田さんを紹介したいという願いが今回の催しで実現したのだ。
 といってHさんやN君といった中学時代の同級生たちが彼女との交渉やら会場設営やらをすべてやってくれた。おかげで約一時間のトークを交えての演奏、その後30分ほどの茶話会と、最近に無い贅沢で心温まる時間を持つことができた。吉田さんの高校時代の恩師・詩人の若松丈太郎さんも駆けつけてくださり、私たちだけでなく吉田さんご本人にとっても楽しい時間だったようで、主催者側の一人として実に嬉しい思いをした。
 吉田さんのお話だと、ボサノバはいまのブラジルでは懐メロの一種になっているそうだが、でも良いものはいつになっても良い。演奏は「イパネマの娘」から始まり、映画「いそしぎ」や「黒いオルフェ」のテーマソング、元気のいいサンバの曲まで幅広い選曲がなされ、短時間ながら吉田さんの多彩な魅力を味わうことができた。
 お付き合いは五年近いが、私にとって彼女はちょっとミステリアスな存在だった。原町郊外の自宅から車で仙台、東京の演奏会へと平気で日帰り遠征をするそうだし、町のスーパーなどで買出しもしているそうだが、なぜか小型乗用車ならぬカボチャの馬車かなんかで(まさか!)おとぎの国へ帰っていくのでは、などと思っていた。それは彼女の実に透明な歌声からの連想なのだが、今晩は彼女から初めてパートナーを紹介されたり高校時代の思い出話を聞いたり、あゝ彼女もおとぎの国ではなくこの世の住人だったと嬉しい発見をしたのである。
 でもこれぞボサノバを歌うための声と思わせる彼女の歌声は、今夜も、春まだ浅き相馬の夜空から、春風のように舞い降り、また舞い上がっていったのである。めでたし、めでたし。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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