アオバナチョウ・ススリナメキチ

表題に掲げたわけの分からない呪文のような言葉は、実は64年以上も前の私のあだ名らしい。
 そのことが分かったのは、バッパさんの例の『虹の橋』がきっかけである。つまり今日まで45冊ほど作った『虹の橋』の贈呈者のひとりに長崎在住のI. Uさんがいた。旧満州熱河省灤平県で親しく付き合っていたMさんの一人娘である。歳は多分姉と同じだと思う。引き揚げ後、いつからまた連絡が繋がったのか覚えていないが、私が広島で修練をしていたころ、一度萩までMさんを訪ねたことがある。そしてMさんもそれをきっかけに一度か二度、相馬までバッパさんを訪ねてくださった。そのころIさんはすでに長崎の歯医者さんに嫁いでいたので、Iさんとは灤平で別れたきり会っていない。
 ともかく今日の午後、そのIさんが電話を下さったのだ。彼女は、先生はお元気?と言ったが、それはもちろんバッパさんのこと。父の死後、在満小学校の教師となったバッパさんの教え子だったからだ。また彼女は日向さんのこと覚えてる?とも言った。もちろん覚えてます。当時のことを書いた「ピカレスク自叙伝」にも小田切さんという名でこんな風に紹介している。「東京帝大出の学士さんで、満州事情研究のためと称して、単身ぶらりとこの町にやってきた青年である。別にこれと言った仕事もせず、よく俺たちの仲間になって他愛なく遊んだり、裸山をほっつき歩いたりする高等遊民といったところである。どういうわけかおやじと気が合うらしい」
 彼女の話によると、帰国後も折りにふれて「あのチビどうしてるかな?」としきりに心配してたそうだ。そしてこの日向氏(残念ながらもうだいぶ前に他界されたが)私につけたあだ名が「アオバナチョウ・ススリナメキチ」だったというのだ。当時の子供はみな洟をたらしていたが、なかでも私の青っ洟が目立ったのだろう。ところで「アオバナチョウ」の「チョウ」が何を意味するのか、電話が終わってから気になりだした。「町」だろうか?いや「蝶」ではなかろうか?つまり「青洟蝶・啜り舐め吉」。蝶のようにそこらじゅうを飛び回っていたからだろう、と勝手に解釈させてもらうことにする。
 それにしても、65年も前の自分のあだ名と再会して、懐かしいような、恥ずかしいような、そしてちょっぴり寂しいような複雑な気持ちになっている。
 なんてつまらぬあだ名の話をしてしまったが、本当は今日*の午後、かなりの難産の末に、しかし(重さは3000グラムちょっとで身長も50センチ)元気に生まれた愛ちゃんについて書きたかったのだが、あまりに嬉しいので、つい話しはあらぬ方に進んでしまったのである。さっそく孫自慢を、と笑われそうだが、母親似の可愛い赤ちゃんである。新生児室の中の彼女を、窓越しに妻と長いあいだ眺めてきた。早く、この陋屋を彼女の泣き声や、そして笑い声で満たしてほしい。

*投稿は日付が変わって午前0時06分。孫娘の愛の誕生は前日の8日の午後3時(2021年3月10日、息子追記)。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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