小川国夫さんの自画像

※以下は、『青銅時代』第48号への投稿原稿。

当ギャラリーへの執筆担当の順番がまわってきて、さてどの画家の作品を選ぼうか、正直まったく白紙の状態であった。そうこうしているうちに、思いもかけない、そして突然の、小川国夫さんの死が訪れたのである。しばらくは彼の作品を読むことで、私なりに喪に服す日が続いた(それは今も続いている)。だからギャラリーには当然小川さんが好きだった画家を選ぶべきだと考えた。
 小川さんの書かれた美術論あるいは画家論は、「全集」第八巻に集められているが、もちろん量的にも質的にも(つまり愛着・愛好の度合いという意味で))圧倒的なのはヴァン・ゴッホについてである。次いでピカソ、セザンヌだろうか。もちろん小川さんの関心は、西洋の画家にとどまらない。古くは「百丈野鴨子図」の仙厓から、親しく付き合われた野見山暁治さん、そして本誌を毎回飾ってくださる司修さんまで、実に多くの、そして多様多才な画家たちに及んでいる。
 ともあれ、まずは「ゴッホ紀行」と「ゴッホ素描」が収録されている『ヴァン・ゴッホ』(小沢書店、1986年)を読み始めた。そして前者の《後記》の冒頭で、小川さんはこう書かれている。

「十七、八の頃私は絵を描くことに熱中し始め、特に夏休みには、一人で野外写生に歩き回った。あの頃には、しばしばゴッホを思い浮かべた。炎天下を歩きながら、同じように歩いているゴッホを偲んだりした。当時私の網膜に印されたのは、彼の《光学》で、それは鮮明であった。しかし、一つ腑に落ちないことがあり、心に懸り続けていた。」

 その「腑に落ちないこと」とは、ゴッホの情緒(サンチマン)のことである。謎が解けるのに長い年月がかかるが、小川さん自身が二十五、六歳のころ(というと、大学を中退してフランスに渡った前後だろうか)、それは「いつとはなしに」氷解する。つまりゴッホの筆は「光を扱おうとしているのではなく、光に献身している…光を求めて、絵描きの本然の存在意義に賭けている」ことに気づいたからである。
 「腑に落ちた」のは、小川さん自身の「生きる姿勢」がゴッホのそれと共振したからであろう。つまりそのとき小川さんは、わざわざ意識してゴッホを偲ぶまでもなく、ゴッホが自分の横を(あるいは自分がゴッホの横を、と言い換えても同じことだ)同じように歩いていることに気づいたわけだ。つまり小川さんの文学に賭ける根本姿勢が、絵に賭けるゴッホのそれとぴたり重なったのである。
 だから今回ギャラリーに掲げるのは、だれもが知っているゴッホの自画像ではなく、小川さんご自身の自画像こそがふさわしい。(64年6月製作、『故郷を見よ』からのコピー)

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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