ここにも信念の人が

遅い朝食を食べ終わったとき、玄関からのインタホンが鳴った。出てみると、今朝の民報を見てぜひお会いしたくて来ました、というご老人の声。急いで降りてドアを開けると、小柄で少し前屈みだが、とても元気そうなおじいちゃんのにこやかな顔があった。有機米を作っている安川昭雄(84)さんだった。実はその時点では、まだ福島民報を見ていなかった(正直言えば、二月前からどの新聞も購読していない)。
 記事を見てとても勇気づけられた、私はこんな者です、と名刺と一枚の新聞切り抜きを見せてくれた。「NPO民間稲作研究所認証センター 正会員」 住所は市内大木戸とある。新聞は、後からコンビニで買った今朝の新聞の、私たち夫婦が記事になっている「ふくしまは負けない 明日へ」という同じページの5月30日(月)のもので、そこには「有機米守りたい」という題字の下に、畦道の上でにこやかに笑う安川さんが立っている。
 先日の川内村の秋本さんと同じく、40アールの水田にコシヒカリを、別の5アールの水田には高級品種の満月もちを作付けしたそうだ。だがせっかく稔った米の放射線値の検査は断わられたと憤慨している。つまり今年は作付けしないという申し合わせに従わなかったかららしい。しかし安川さんは出荷するつもりなど最初から持っておらず、耕作を続けないと田んぼが駄目になるし、自分が工夫して作った肥料や、被爆地広島で放射能を減少させたとされるインドネシア・マドラ島産の肥料をただただ試したいとの意図もあっての挑戦であった。
 今日のコメントで田渕さんも報告しているように、南相馬にも偉いお百姓さんが他にも何人かいたんですなあ。頼もしい限りである。その五月の記事によると、安川さんはかつて満蒙開拓青少年義勇兵として満州に渡り、そこで農業を学び、戦後、原町飛行場跡地の大木戸で開墾に参加したとある。なるほどそれで分かった、彼が筋金入りの米作りだということが。
 昨年作った米だから安心して食べて、とビニール袋に入った4合ほどのお米をお土産に置き、今後とも一緒に頑張りましょう、とまたにこやかに笑って帰っていかれた。
 今度は昼近くだったろうか、電話が鳴って出てみると、中学時代の同級生高橋トシイさんだった。今は福島に避難しているが、最近体調を崩してだれとも連絡をとる気も起こらなかったが、記事を見て嬉しくて泣いたという。この避難行で身内には死者も出て、精神的にもずっと元気を失くしていたそうだ。住所を教えてくれれば本を送るよ、と言ったが、いや本屋さんで買うから、と最初よりいくぶん元気な声で再会を約束してくれた。んだどー、こうなったら意地でも長生きしなけりゃなんめー。いつか飯舘に野菜もらいさ行くときが必ず来っから、それまで無理しないで頑張っぺー。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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