3. いわゆる素朴さについて(1977年)


いわゆる素朴さについて


 外から見た清泉の印象は二つある。一つは今から二〇年ほど前のこと、友人から背広を借りて初めて出かけたダンスパーティーで、相手をしてくれた清泉の学生の清楚な印象(ついでに言えば、この女性とは、名前も聞き出せずぎこちなく別れた)。もう一つはそれから数年して、足立区のあるセツルメントで出会った十数人の清泉の学生の印象。前日やはり奉仕に来たS女子大の学生が、白手袋で作業をし、もてなしの茶菓子の後片づけもしないで帰っていったのとは対照的に、彼女たちは素手で働き、きちんと後片づけもして帰った。
 さてあの当時から長い年月が流れ、いまは清泉を内からしか見れないが、先の二つの印象はどう変わったか。制服が無くなったり学生気質もだいぶ変化してきたが、おおもとのところは変わっていないように思われる。清泉の特徴を一言で表現するなら、あらゆるニュアンスを含めたうえで《素朴さ》と言い切ってもそう見当はずれでないだろう。この特徴は学生だけでなく大学自身にも当てはまる。つまり欠点や長所がいわば等身大で現われている、と言い換えてもよい。こちらからの働きかけが遠くの方でぼんやり反響するのではなく、手のとどく範囲で反応があり、それに再度働きかけることが可能である。
 しかしこうした小規模な大学に固有の特質を教師や学生が充分生かしきっているかと言えば、残念ながら否と答えざるを得ない。自分のまわりに幾重にもタブーを作って萎縮している。すべてにわたって事なかれ主義が弥漫している。知的好奇心、知的冒険心に欠けている。こうなると美点であるはずのいわゆる素朴さはカマトトすれすれになってくる。仲間うちだけに通用する互譲の精神、謙遜、親切ごっこなど、裏を返せば知的・道徳的怯懦以外の何物でもない。自分の好み、価値観と相入れない異質のものへの無理解や恐れがあるところに真の自由はあり得ないし、真の自由が無いところに学問の喜びもないし、創造の喜びもない。おとなしいばかりが能じゃないのだ。
 たとえば静けさ。清泉のキャンパスは実に静かだ。しかしそれは死体置場の静けさだ。動を秘めた静ではない。沈黙も内に燃えるものを秘めた沈黙ではない。スペインの神秘家十字架の聖ヨハネは《響きわたる孤独》(soledad sonora)と言ったが、それがない。
 最後に具体的な提言。何かを聞かれて、「分かりません」とは口が裂けても言わないこと。手もちのカードでとにかく答えを組み立てること。それと知的ダンディズム、ペダントリーの活用(それと知って利用すること)。結果として一ページさえ読み通すことができなくても思いきってむつかしい本を借り出すこと、人前で恥ずかしがらずに取り出してみること。少なくとも周囲に知的好奇心のさざ波くらい立てるだけの効果はある。


一九七七年十一月五、六日 「清泉祭パンフレット」