4.『光と風のきずな』典子さんのスペイン留学(1983年)


典子さんのスペイン留学


 先日、勤め先の大学の点訳サークルの学生から一枚のアンケート用紙が送られてきた。大学において身体障害者(この場合は盲学生)が一般学生と共に学ぶいわゆる統合教育にについての意見を求めてきたのである。このサークルは、二名の盲学生(うち一人は後に触れる赤沢典子さん)が大学に受け入れられるにあたって大きな推進役を果たしたグループで、私が盲学生について初めて関心を持つようになつたのも彼女たち(の先輩)を通じてであった。ところで私はそのアンケートに対していささか乱暴なといおうか、質問の意図するところとは少々ずれた答え方をした。つまり学生たちは、総合教育を進めるにあたって必要な準備は何かというようなことを聞いてきたのに対し、私は何が必要かというような受け入れ側の準備よりも.まず障害者が共に学ぶことの方が先決ではないか、と答えたのである。限られた長さの文章の中にこちらの意がどれだけつくせたかどうかはなはだ心もとないが、そう答えたのには先日見た一つのドキュメンタリー映画のことが頭にあつたからである。
 それは、昨春、清泉女子大学スペイン語スペイン文学科を卒業してスペインに留学した全盲の赤沢典子さんとその盲導犬コーラル号の映画である(石森史郎プロ、上田偉史製作『光と風のきずな――私はピレネーを越えた』、カラー、一時間五十分)。映画は成田空港出発時からマドリードで留学生活を送るまでの赤沢典子さんとコーラル号の姿を丹念に追っている。日本とはおよそ質の違う光のせいもあろうが、初秋から年の瀬にかけてのスペインの風物が見事な映像にとらえられている。しかし映画は、この種のドキュメンタリーにありがちの、感動的な事件を点綴したり、お涙ちょうだいの美談に仕上げられているわけではない。見様によっては物足りないくらいに淡々とした筆致で画面は進む。にもかかわらず、あるいはだからこそと言おうか、見終ってから私たちの心の中に赤沢さんやスペインの盲人たちの姿があざやかに刻まれる。彼女たちあるいは彼らも私たちと共に生きているのだ、という実にあたり前の事実に対する感動がじんわりと心の中に広がる。
 赤沢典子さんが大学でスペイン語スペイン文学を専攻し、留学先をスペインに選んだことはいくつかの偶然の重なりにすぎないかも知れない。しかし彼女のその選択はいろいろな意味で幸運であった。というのは、私見では、スペインは身体障害者がもっとも自由に生きている国の一つだからだ。もちろん世界にはスペイン以上に福祉行政の進んだ国があるだろうし、また身障者が物質的により豊かな生活を営んでいる国もあるにちがいない。しかしスペイン以上に身障者が健常者と精神的に対等に生きている国はないのではないかと思われる。それは『光と風のきすな』の随所に登場する盲人たちの実に生きいきとした立居振舞にもうかがえる。いやそれ以上に印象的なのは、盲人に対する一般人のごく自然な対応である。つまり盲人が社会の中にごく自然に溶けこんでいるのだ。
 これは私だけの印象だろうか、昔は私たちのまわりにもっと盲人や他の身障者を見かけたような気がするのだが。昔にくらべて身障者に対する社会保障が進んだ割には、というよりそれと反比例して、身障者の姿を街なかに見かけることが少なくなったという印象さえ受ける。これには交通事情など複雑な社会情勢の変化のせいもあるだろうが、やたら意識ばかり鋭敏になって現実には新たな差別状況が作り出されているような気がする。たとえば差別用語に対する神経過敏とも言える反応がある。かつてある盲学生に「差別用語にについてどう思うかと聞いたところ、面と向かって悪口として言われると腹は立つが、と言い、次いで一つのエピソードを話してくれた。それは某放送局で「めくらうなぎ」という言葉を「目なしうなぎ」と言い換えたという話である。もし本当だとしたら滑稽を通り越して何とも悲惨な話だ。
 最近は身障者に関する用語がやたらむつかしくなって、身障者問額を語ることそれ自体ある奇妙な緊張を強いてくる。この私の文章の中にも健常者などというおかしな日本語が使われている。身体障害者とか視覚障害者の反語として作られたらしいが「目明きの反語としての目暗を差別用語扱いにして果たして得るところは何なのか。まさか言葉を抹殺すことで差別意識がなくなると考えているわけではあるまい。差別意識は言葉それ自体にあるのではなく、あくまでそれを使う人間の側にあるわけだから、このような言葉の改変の現実的な効果としては、塩を塩化ナトリウムと言い換えるようなもので、ただやたらと事態をぎこちなくするだけで、身障者問題をできれば避けて通りたいものと意識させるだけではないだろうか。健常なる社会とは、身障者を除いたそれではなく、むしろ身障者と共なる社会であるにもかかわらず、である。
 学問の自由をうたいながら、身障者に門戸を閉ざす大学は真の大学ではありえないし、神の愛を説きながら盲目の聖職者が一人も存在しないような宗教団体は、自らのうちに意識せぬ差別意識があるのではないかと猛省してみる必要があろう。冒頭に触れたアンケートへの答えに話をもどすと、私が言いたかったのは、身障者をまるで取り扱い注意のこわれ物のように遇するより、いささか乱暴かも知れないが、大学の授業についていく能力ある盲学生ならどんどん大学に進学すること、そしてその後に起こる問題は、その都度皆で力を合わせて一つひとつ解決していくべきだ、というのが主旨である。身障者はなにがしかの配慮を必要とする対象であるより前に、まず私たちと共にある仲間、いやもっと正確に言うなら私たち自身だからだ。

 赤沢典子さんのスペイン留学を描いたドキュメンタリー『光と風のきずな』は「身障者もまた共に生きることへ挑戦する必要があることをも静かに、しかし力強く訴えかけているように思われる。その意味では、目明きばかりでなく、多くの若い視覚障害者にも見てもらいたい映画だ。聞くところによると、大阪での試写会では五十人近くの盲人が特別の説明入りで鑑賞したそうだ。嬉しいことである。


「春秋」、一九八三年十二月号、春秋社