ため息の効用


「なにか思わせぶりに十年前の文章を披露して、それに続けて何か言うと思ってたら、なにも言わずに二日過ぎたぜ。9.11と3.11を別々の問題としてではなく、同じ一つの問題領域で眺めてみよう、という趣旨だったと思うが、君自身にすでになにかまとまった考えがあってのことなんだろ?」
「いや、白状すると何にもないまま、とりあえず提示したまで。ともかく今回は、私だけが何かを考えるのではなく、皆さんにも各自それぞれなにか考えてほしい、というのが本当の趣旨なんだがな」
「その趣旨はいいとしても、でも言いだしっぺの君に何かはっきりした考えがあるべきだと思うよ。これじゃまるで答がない試験問題みたいじゃないか」
でもねー君、この世の中で本当に大事な問題に、たとえば数学の問題に対する答みたいなものがあるとでも?
「おや、開き直ったね。とは言いながら、確かに本当に大事な問題に万人が納得するような答がないのも事実だね。たとえば神様はいるのかいないのか。宇宙は無限か有限か。UFOは? 幽霊は? つまりこの世でいちばん確かで頼りになると思われている科学だって、たとえば元素はこれこれの属性を持ち、これこれの働きをすると言っても、じゃその元素そのものは何か、実はそれが分かっているわけじゃない。」
「そう、今回の放射能のことだって、その属性はどのようなものか、どんな働きをするのか、それはなんとか分かっているけど、じゃ放射能そのものは何か、なぜ存在するのか、それは闇の中である。だから放射能は制御不可能なまま留まっている
「そっ、つまり科学だってとどのつまり思い込みの世界だということ。二流三流の科学者は、科学は万能だなんて抜かしおるが、真の科学者はとてつもない大きな闇というか謎の前に頭を垂れてもっと謙遜だぜ
「思い込み、で思い出したけど、ラテン語で quid pro quo という言葉があること知ってるかい?」
「知ってるよ。英語の辞書にもスペイン語の辞書にも <代用品、思い違い> などと訳されている言葉だろ?」
「よく分かったね。要するに、英語で言えば how を what と見なす、間違える、とうことだ。つまり様態とか属性を「そのもの自体」と間違える、と言うことだろう。たとえば愛の諸相を愛そのものと間違えるなど」
「もっと平たく言えば、見せ掛けや外観を、その人自身と間違えるということだろ。そんなこと言えば、この世の中、全て見掛け倒しだよね。夫は夫の振りをし、妻は妻の振りをする、教師は教師の振りをし、生徒は生徒の振りをする
「もっと平たく言えば、世の中すべて <ぶりっこ>」
「そういうこと。でも……」

 
 予想していた通り、会話は際限なく主題から離れていきそうだ。また出発点に戻らなければならない。でも今晩は遅いから、明日にしよう。
 それにしても今度の台風は各地に大きな被害をもたらしているようだ。この半年、日本中が放射能に怯えてきたが、でも毎年訪れる台風の威力もたいしたものだ。少なくとも放射能でまだだれ一人死んでいないのに、今度の台風ではもう既に行方不明者を入れると死者は百人を軽く越えているらしい。不慮の死ということで言えば、交通事故死はそれをはるかに越えているし、病死・自殺死はそれをさらに超えるのであろう。
 いやだからと言って、原発禍を軽く見ようなどと言っているわけではない。要するに、われわれはいずれにせよ死を免れることはできない、ということだ。いずれの原因で死を迎えるにしろ、耐えられないような痛みや人間としての尊厳を守れないような死は勘弁してもらいたい。
 今日の午後、美子と一緒に歯医者さんに行った。歩行が覚束ないので、階段を降りたり車に乗せたりすることができるだろうか、と危ぶんでいたが、身体的機能自体が損なわれているわけではないらしく、平地なら手を引いてやればちゃんと歩けるので安心した。
 暑さが少し和らいだとはいえ、台風の影響か、なんとなく重苦しい空気で、からだを動かすのも億劫になっている。時おり、大きく深いため息が漏れる。いままでため息の効用など考えてもみなかったが、大きく深いため息を漏らすことで体中に溜まった毒素や疲れを吐き出す効果があることに気づいた。本格的にへたれないためにも、ときおり大きな吐息を漏らすことは健康上もいいかも知れない。以前から大きな欠伸をすると、美子がビックリし、そして喜んだものだが、最近時おり漏らすため息にびっくりする人もいないのがちょっと淋しい。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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