思わぬ再会

*父に真相を伝えぬままに死なれてしまったが、永井隆の本は、確か明大前のカトリック松原教会でバザーに出されていた品物から私が見つけ、買ったものだった。2000年前後だと思う。

二階から一階に生活の拠点を移したことによって、身の回りにある本たちの顔ぶれが一変し、いままで見たことも読んだこともない本に出会ったり、むかし熱中して読んだ懐かしい本との再会があったりして、変化に乏しい単調な毎日の中でのアクセントになっている。
 昨日も、蔵書印もなく、読んだ記憶もない一冊の本と出合った*。永井隆の『村医』(中央出版社、1985年、第4刷)である。永井隆といえば『長崎の鐘』や『ロザリオの鎖』で有名なあの永井隆だろうか。本のカバー裏の説明によると、やはり彼の作品で、昭和二十六年二月、死の三ヶ月前に脱稿した作品ということだ。内容は、代々医者であった彼の父を主人公にした小説で、まだ飛ばし読みしかしていないが、永井隆が小説家でもあったことを初めて知った。
 永井隆はひところ多くの日本人にとって、とりわけカトリック信者にとっては、いわば聖人級の超有名人であった。それにしては彼の書いたいくつかの本の題名だけは知っているのに、その内の一冊さえまともに読んでなかったのは我ながら説明しがたい。我が家にもその内の一冊くらいあったような気がするが、今回出会った『村医』以外、今はどこにもないのも奇妙だ。
 この『村医』にしても誰が買ったものだろう? いや、ばっぱさんに違いないが、読まれた気配のない新品なのも不思議だ。
 先ほどは彼を小説家としたが、これまで私の中では、彼はあくまで被爆した熱心なカトリック信者の医者、後遺症でぱんぱんに膨れ上がった腹部を抱えながら、如己(にょこ)堂という小さな庵にヘレン・ケラーや昭和天皇のお見舞いを受け、『この子を残して』や『亡びぬものを』などの感動的な手記を残した人であった。ところが今回の『村医』にしても『亡びぬものを』にしても、手記・記録というより明らかに小説の形式をとっていることに初めて気付いたのである。
 そう、急いで彼の他の著作をアマゾンに注文したのだ。『亡びぬものを』以外にも、『いとし子よ』、『この子を残して』、『長崎の鐘』、『この指とまれ』、『原子雲の下に生きて』、さらに娘の茅乃さんの『娘よ、ここが長崎です』まで、いずれも例の不思議な値段で手に入れたのである。
 彼のことをあまり知らなかった証明(?)として、実はこれら以外にも『一身上の都合』という本まで注文したことを白状しなければならない。作者名は確かに永井隆、ところが届いたものを見て初めて、この作者がまったく別のルポライターであったことを知ったのだ。まっ、袖すり合うも他生の縁、捨てないで貞房文庫に登録させてもらいます。
 『亡びぬものを』を読むまでは、永井隆自身が放射線医学の専門家で長崎医大レントゲン科の責任者であり、被爆直前の五月、すでに放射線障害が現れていたことを知らなかった。つまり白血病で余命三年の宣告を受けていたのである。ともかく『亡びぬものを』の最終章、被爆直後の凄惨な描写に圧倒された。恥ずかしいことに、絵や写真以外に、いわゆる原爆直後の実態を文章で読んだのは初めてなのである。今までそういう事実も知らないでただ遠くから仰ぎ見ていただけであったことが悔やまれる。
 ともかく彼の死後、新生(!)日本はそうした貴重な体験やら証言をことさら忘れようとして(としか思えない)、核の平和利用という魔法の言葉(呪文)に踊らされ、あるいは自ら酔い、錯誤と破滅の道を突き進んで来たわけだ。核の「平和」利用は、軍隊の文民統制(シビリアン・コントロール)が時にそうであるように(性懲りなく戦争を繰り返すアメリカの文民統制を考えてもみよ!)、どこかいかがわしいもの、突き詰めていけば真の(!)民主主義にはもともとそぐわないもの、いつかは双面(ふたおもて)のもう一面を振り向けてくる邪悪な神であることをしっかり肝に銘じなければなるまい。
 永井隆を聖者に祭り上げて、人間の愚かさに由来するすべてを「神の摂理」とか「天罰」と見做す間違った「信仰」から抜け出さなければならない。「平和の使徒」と崇められた永井隆その人が生前、平和についての思想をどこまで煮詰めることができたかどうか(確かに彼は核の平和利用を訴えた)、まだ彼の著作をろくに読まないうちに即断することは控えたいが、しかし3.11を経験した私たちは、もし彼が今に生きていたらどう考えるか、を可能な限り誠実に追求することこそが本当の意味で彼を敬愛することになるとだけは言えよう。

★追記
 彼は『長崎の鐘』の最終章「原子野の鐘」の中で、二人の子供、誠一(まこと)と茅乃(かやの)に向かって、「そうだ、原子時代だ。人類は大昔から石器時代、銅器時代、鉄器時代、石炭時代、石油時代、電気時代、電波時代と進歩してきて、今年から原子時代に入ったんだ。誠一も茅乃も原子時代の人間だ」と言っている。しかしすぐ後で、こうも自問している。「人類は原子時代に入って幸福になるであろうか? それとも悲惨になるであろうか? 神が宇宙に隠しておいた原子力という宝剣を嗅ぎつけ、捜し出し、ついに手に入れた人類がこの両刃の剣を振っていかなる舞を舞わんとするか?」
 このときの彼は、後の時代の愚かな核軍備競争も、止むことのない馬鹿げた覇権争いも知らなかった。それに素人の私でも気づく重要な一事に彼は触れていない。つまり石器から石油そして電気・電波などすでに自然界に存在するエネルギーと、新たに登場した原子とのあいだに画然たる差異があること、つまり人類が利用しようとしてきた放射能はもともと自然界に存在したものとは明らかにレベルの違うものであるという事実である。
 そしてその意味で言うなら、たとえ難病や遺伝の弊害を避けるという名目で使われようとも、遺伝子組み換えなどの技術は、放射能とはまた別の由々しい問題を人類に背負わせることになるのでは、と危惧している。要するに、人類は際限のない進歩・発展幻想の迷夢からそろそろ覚めるときが来ているのではなかろうか、ということである。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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思わぬ再会 への5件のフィードバック

  1. 鎌田 志保 のコメント:

    先生、こんにちは!お元気ですか?震災前から計画していました世界一周の旅に昨年10月から出発しました。先生にメールを取りたいとずっと思っていまして…しかし先生のアドレスは自宅に置いてきたパソコンの中にあったので連絡できずにいましたが、最近「そういえば先生のブログがあった!」と思いだしこの場から失礼いたします…(^^;)
    スペイン語圏の国に入ってからもう3ヶ月が経とうとしていますが、先生と声に出して練習した動詞の活用法がとても役に立っております。しかし、会話はまだまだですね(>_<)まだしばらくスペイン語圏にいますので上達してくれるといいのですが…。しかし、会話の中に頻繁に出てくる単語などはなんとなく分かるようになってきまして、私も真似をして使っています。いろいろ先生にお聞きしたいこともありますので、お手すきの時にメールをいただけませんか?よろしくお願いいたします。
    明日から3泊4日でチリのプエルトモンからプエルトナタレスまで船旅をします。船の中ではパソコンが使えないということですので2月1日以降になってしまいますが…。
    先生の奥様、ご家族、教室の皆さんはお元気でしょうか?

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    鎌田志保さん
    おやまあ、お懐かしい!
     あなたが小高に住んでいたので、震災後どうしているか心配してましたよ。そうですか、世界旅行中ですか。頼もしいというか度胸があるというか、ともかく無事でほっとしました。旅行中でもブログが見れるのでしたら、こちらのことは大体お分かりでしょう。なんとかがんばってます。
     でもこのメールアドレスで果たして届くかどうか、分かりませんが、ともかく第一声をお送りします。届いたら返事ください。

  3. 宮城奈々絵 のコメント:

    私は小学6年生の時に永井隆医師の「この子を残して」と「長崎の鐘」を読みました。母は平和を学ぶ為にと子ども達に戦争の物語を与える人で、家にあったのです。
    子どもには永井医師の本は強烈さがあり、大きな恐怖を感じたことを覚えています。核戦争が恐ろしいと沢山泣いたと思います。
    長い間にその気持ちは薄れていきましたが、3.11以後の原発禍で急に「この子を残して」を思い出し、その追体験をするのでは…もしくはその反対に「残される」のでは…とパニックに襲われてしまいました。
    幼い頃に強烈な恐怖を与えるのは考えものかもしれません。
    ですが、今の少し経験を積んだ大人の脳で読めば、また違った視点が見えてきて学んだり、あの時の恐怖だって克服出来るかもしれない、と思いました。
    子どもの時は、信仰面から物事を見ることについて深く考えなかったので(単純に、神様に全て任せる純粋な信仰を持とう!ぐらいしか学ばなかったので…)、その点についても色々違った発見があるかもしれないと思いました。
    折りを見て図書館に行ってみようと思います。

  4. 山本三朗 のコメント:

    そうなんです。ロドリゲス辻さんのコメント通り、このプログ(広場)には愛・温もりと共に「人生、いつまでも勉強が大事だ」とのことを学ばさせて貰っています。佐々木先生や皆様に比べ、まだ若輩者かもしれませが、私自身もっと学んでいきます。
    何はともあれ、明日から北の地(ふるさと)に行かれる澤井様、最高の北帰行であることお祈りしています。

  5. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    一日ばたばたしていて、澤井兄に旅のご無事を祈っているとお伝えするのが遅くなりましたが、ここに集うすべての仲間たちの願いに私も心を合わせています。お帰りになってから、ゆっくり旅のみやげ話を期待しています。澤井ジュニア、美空さん、皆さんにどうぞよろしくお伝えください。

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