或る公的(?)私信

昨日の朝日新聞デジタル版に次のような見出しの記事が載っていた。


「学力下位返上へ夏休み5日減 東松島市、授業30時間増」

 長いので要点だけまとめると、小中学校全国学力テストで全国平均を下回っている宮城県東松島市が、今年から例年よりも5日早く2学期を始め、これにより授業時間を30時間増やすことを今月29日の市教育委員会で正式に決定する、という。
 学力低下の理由として、工藤昌明・市教育長の「中学3年の生徒は震災時に小学2年だった。避難所や仮設住宅といった、勉強がしにくい生活環境に長くいた」とする談話が紹介されている。
 この記事を読んで、真っ先に思ったのは、学力低下を真剣に憂慮していることは充分理解できるが、しかしそのことを休みを削って授業時間を増やすことへと短絡させることへの疑問、もっとはっきり言えば憂慮である。
 世界の教育現状について調べたことはないが、日本のように、真面目に(?)小中学校から全国学力テストを実施し、それでランク付けを堂々と公表している国は、あってもごく少数であろうし、それも学校教育先進国(?)日本を見習ってのことではないか、と推測している。
 このことに関して、数年前ソウル大統一平和研究所から、原発事故被災者の一人としての見解を求められて書いた拙文(翻訳されて定期会合で朗読され、のち機関誌に収録)の一部を紹介したい。

「私は長らく教師をやっていましたから、国民の真の覚醒のために教育が重要なことは痛いほどよく分かります。しかし現実の学校教育の実態はこれまた嘆かわしい状態になっています。知識を記憶させることには熱心ですが、生きる力、考える力を養うといういちばん大事な教育がないがしろにされてきました。
 大震災直後、被災地の学校はすべて閉鎖されて避難所などに使われましたが、私は当時ブログにも書いたように、真の教育に目覚めるための好機到来とばかり内心期待したものです。つまりこの際、教師も親も、そして当事者である児童も、教育とは、学ぶとは何かを考え直す絶好の機会だと思ったのです。この機会に親と子が向き合い、日ごろ読めなかった良書をじっくり読んだり、時おり巡回してくる教師に課題を出してもらったり質問したりできる手作り教育の好機と思ったからです。これからの長い人生にとって、半年あるいは長くて一年のこうした体験は実に貴重な財産になったはずです。しかし実際は原発事故現場から30キロ圏外にある学校にバス通学をさせ、教室が狭いので廊下で学習させるなど実に愚かな対策を講じました。教育関係者には明治開国以来の盲目的学校信仰が骨がらみになっていたわけです。
 最近の新聞紙上では経済協力開発機構(OECD)が実施した国際学習到達度調査(PISA)の結果が話題になっていますが、それについて私はきわめて懐疑的です。たとえば問題処理能力で日本の子供は好成績を上げたそうですが、これについては完全に否定的です。コンピュータ・ゲームなどでの障害物や迷路を抜け出す能力は一種の慣れの、想定内の問題ですが、しかし今回の原発事故のようなそれこそ想定外の「問題群」に対しては無力であることは、大人たちの体たらくを見てもはっきり証明されました。想定外の問題に対しては、ろくろく学校にも行けない発展途上国の子供たちの方がはるかに高い能力を示すであろうことは容易に「想定」できます。つまり人間にとってより重要かつ手ごわいのは、「生きる」ことに直接かかわってくる、つまり「死活の」問題群なのです。」

 知識偏重の学校教育からいい加減抜け出したらどうだろう。私の究極的な案は、文科省への中央集権の廃止、教育の地方分権化だが、いまそれについて論じる用意が無いし、あまりに過激と警戒される恐れがあるので、ここは笑い話でお茶を濁す。私の知っているある女の子は、はっきり言えば私の姪っ子の一人は、小学生だったころ「どうだった、通信簿?」と聞いたら、「うん、良かったよ、2、2、3、3、2、4、4…」と得意そうに答えた。どうも5段階評価の数字を、走りっこ並みの1番、2番と考えていたようだ。でもこんな子でも、のちに早稲田大学を卒業することができたし、こう言う私も、試験の成績と通信簿評価に因果関係(?)があることを、中学生になってからの或る日、学校帰りの途次、青天の霹靂のようにようやく悟った。これは極端な例だが、でもそんな中学生でも、のちに(一流とはとても言えないが)大学教授にまでなったのである。
 要するに言いたいのは、小学生や中学生の時の学力試験の結果なんてそう気にすることはないということ。そんなことより、世の中の出来事について自分なりに考えてみたり、本を読んで人間の生き死にについて思いめぐらしてみたり、そしてそれよりももっと大事なことは、自分の日常生活に起こるすべての事象について自分なりに判断したり(たとえそれが親や教師の言うことと違っていても)することである
 まっ、こう言ったからといって、今さら東松島市の決定が覆るはずもないだろうが、ふだんより(でも来年からずっとですか?)五日も早く始まった登校日に、みんなで楽しく夏休みの宿題をやったり、……いやいやそんなことより、せっかくだからこの機会に、今回の夏休み短縮について子供たち自身の率直な意見を聞いたり、例えばこの私のような考え方をする人も世間にはいるんですよ、と伝えてみたり……要は生徒たちに学力低下などという理由付けで決して自信を無くさせず、ましてや教育長談話のような事実があるのだから、それこそ何百年に一度という得難い体験をむしろ奇貨と見做すよう教えるべきだ。
 かく申す78歳の老人にしても、今回の大震災で、国の在り方、人間の生き方などいろんなことを根底から考え直すきっかけになったのですから。
 たぶん今回の経緯に教育熱心な(?)父兄、とりわけ言いたがり(失礼!)のお母さんたちの突き上げが大きく影響しているはずですが、どうか教育長、そして先生方、この年寄りの愚見をも、すこし聞いていただければ幸いです。
 おやおや、いつのまにかこの孤老の話し相手がいつものブログの読者友人ではなく、東松島市の教育長殿に変わってしまいました。そう、通常の意見書、陳情書の形式ですとなにか堅苦しいので、失礼とは存じますが、ここは思い切ってブログそのままをお送りさせていただきます。
 最後にしつこいようですが、日ごろからの私の主張を述べて、この型破りのお手紙を終わらせていただきます。
 今や日本人の物作りについては、世界中から関心を寄せられ称賛されている。確かにその物作りの精神は良し、されど人作りにそのまま当てはめることは愚か。もともと人間はでこぼこ(きれいな言葉で言えば個性的)にできており、その事実を曲げて等質の金太郎飴製造機のように児童を扱うことは愚の骨頂である。
 東松島市の皆様、とりわけ子供たちの教育に日頃より奮闘しておられる教育長、教育委員、そして教員の皆様への心からの応援の言葉をもって、最後のご挨拶に替えさせていただきます。

     二〇一八年新春
                南相馬の住人 佐々木 孝

追伸 新年早々起こった珍しい出来事についてブログに書きましたので、それも併せて送らせていただきます。ローマ教皇への願いが私ごとき一介の老人でも聞き届けられたことをお知らせして、せめて小生の願いも教育行政に対する一つの意見として聞いていただければ幸いです。(さてはおぬし、味をしめたな?)

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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或る公的(?)私信 への2件のフィードバック

  1. 佐々木あずさ のコメント:

    先生の、引用されたモノディアロゴスの思索、よく覚えています。よく思いだします。そしてよく再考します。「学ぶということは、なにかが変わるということ」学生時代に共感した林竹二先生の言葉です。佐々木先生に繋がります。

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    例によって例のごとく、立野さんの私信、実に面白いので、かなり長いですが、立野さんの許しを得て全文ご紹介します。

    佐々木先生、

    きょう明日あたり、『情熱の哲学』が店頭にならべられるころあいでしょうか。

    十日前に掲げられたブログを一度卒読し、共感を禁じ得ずにおります。まったく賛成のほかはないと思いました。

    おっしゃっているのは、学力をボトムアップするために子供たちの夏休みを短縮するのは発想が逆であって、そもそも小中学時分の学力試験の結果など気にする必要はないこと、それより世の中の出来事について自分なりに考えたり、本を読んで人間の生き方死に方に思いをめぐらせるほうがはるかに重要であること、だがそれよりもっと大切なのは、自分の日常生活に起こる事柄全般を自分の頭で考えることである、というご主旨ですね。

    改めてきょうまた読み返したところです。

    十日前に読んだときと共感も意見ももちろん同じです。

    同時にいっそう愉快な気持ちになりました。

    なぜなら小学校以来、大学(または大学院)までの自分の「学力」なるものの足取りを、わたしはゆくりなくもある懐かしさとともに思い浮かべないわけにはいかなかったからです。

    ここからちと回顧的もしくは懐古的な叙述をまじえつつ、先生のご見解への賛同の意をわたしなりに以下に述べさせていただきます。

    岩手の山奥のすごい田舎でわたしは小学校時代を過ごしました。戦後すぐの生まれですからいわゆるベビーブーマー世代ですが、わたしの田舎は釜石市に属しながら山奥に位置するため、極端に子供が少なく、同学年のクラスにはたった18名しかおりませんでした。一年上級のクラスも同数でした。

    少ないのは生徒ばかりでなく、教師も教室も数が足りませんでした。そこで同じ一つの教室で、一人の担任の先生によって学習するのですが、学年がちがいますから教科書も同じではありません。 つまり同じ時間に同じ科目というわけにはいかず、担任がいっぽうの学年をおしえているあいだは他方の学年はおとなしく自習をさせられるのです。いわば分校なみだったわけです。

    町の学校との「学力」の差が容易に推測されましょう。

    いまでもおぼえていますが、上級学年が六年生でわれわれが五年生のときのある日のことです。 先生はわれわれに算数を自習させながら、六年生に国語をおしえていました。

    その日、六年生が広げていたページには河口慧海の文章が載っていました。有名な『チベット旅日記』の一節です。

    ご存じのように慧海は十九世紀末、仏教を習いたくて日本からチベットに決死の覚悟で単独潜入した禅僧です。当時チベットは鎖国していて異民族が入ることは許されず、日本人と分かれば死刑にされるとさえ言われていました。 それをあえてチベット人になりすまして潜入したわけです。国境付近の村でネパール語をひそかに習得しました。

    教科書には、いよいよ慧海が川をわたってチベット側に入って行くくだりが収録されていました。六年生が代わる代わるそこを朗読させられるのです。その声が同じ教室の半分の席で自習している下級生の耳にも聞こえないはずはありませんが、算数の問題を解くほうに集中しなくてはなりませんから、朗読の内容に注意を払っている余裕はないのでした。しかし一人だけ、自習するふりをしながら上級生の声に聞き耳を立てている生徒がいました。それがわたしです。

    朗読される内容があまりにも面白いので、ついわれを忘れて顔を上げてしまい、そのまま熱心に聞き入りました。

    川をわたるときは浅瀬を選んだはずだったが、それでも腰のあたりまで没する。しかも流れは速い。しかし耐えがたいのは水がおそろしく冷たいこと。ヒマラヤの雪解け水ですから当たり前です。あわてて慧海は岸に引き返してしまう。しかしここをわたらないわけにはいかない。我慢して押しわたるしかない。ためらったあげく腹を決めて足を入れる。たちまち感覚が麻痺してくる。川床に足がついているのかどうかも分からなくなる。ほうほうのていで向こう岸にからだを投げ出したときには、冷えきった五体は死体のようにガチガチに硬直し、硬直したままで痙攣が止まらなかった、うんぬん。

    まあざっとそのような叙述だったと思いますが、それを上級生がただ棒読みするのです。けっして上手とは申されなかったでしょうが、聞いていて想像力を掻き立てられました。

    禅僧の苦難ぶりがありありと目に浮かぶようでした。 わたしに気がつかれた担任の先生が大声で一喝されました。

    「こら、立野! なにを見ているか。ちゃんと自習しろ!」

    あわてて下を向きましたが、その日はいつまでも、国禁を侵してチベットへわたった一人の禅僧の命懸けの冒険に心を奪われていました。

    話をはしょります。

    六年進級時にわたしは母親の転勤に伴い、遠野市に移転することになりました。小学校が市内にあり、一学年あたりのクラス数も多く、五組ないし六組ぐらいあったでしょう。それまでの分教場のようなちっぽけな学校で学んでいた田舎の子は、ご多分に漏れずいじめられ、学力的にもクラスについてゆくのが困難でした。

    生来利発な子供ならいざ知らず、また腕力に自信のある生徒ならいざ知らず、予習復習などいちどもやったことがないやせっぽちの内気な山猿に、町の学校の環境がなじめず、クラスに伍してゆくには教育水準が高すぎました。当然ですがたちまち落ちこぼれてしまいました。

    しかし、各教科のなかで一冊の教科書だけ、わたしの目を輝かせたのがありました。国語です。それはあの分校のような教室で、六年生が使っていたものと同じでした。

    こうして思いがけず、わたしはチベット潜入のくだりにふたたび遭遇し、胸を躍らせました。

    教科書の抜粋だけではもの足りず、町の図書館に足を運んで『チベット旅日記』を借りだし、無我夢中で読みふけりました。

    わたしは探検記や冒険小説や探検家の自伝や手記のたぐいに魅了されることになり、片端から読みあさるようになりました。コロンブス、マゼラン、クック、アムンゼン、ナンセン、白瀬中尉、スコット、リヴィングストンら極地ないし密林の探検家についてのもの、ナポレオン、アレクサンドロス、シーザー、フリードリッヒ大王、信長、秀吉、家康など英雄や武将についてのもの、ナイチンゲール、野口英世、北里柴三郎、パストゥール、ジンナー、フランクリン、アインシュタイン、エジソンといった偉人に関するもの、それからフィクションでは『宝島』『失われた世界』『地底旅行』『八十日間世界一周』『十五少年漂流記』『ロビンソン・クルーソー』『ガリバー旅行記』『西遊記』『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』などなど思い出せば枚挙に暇がありません。

    なにしろはたがびっくりするほどどっさりと読むことになりました。

    きわめつけは『罪と罰』との出会いです。

    時間割に週いちど図書室の時間というのがあり、学校の図書室にクラス単位で行かされ、一時間自由に本を読み、ノートブックにその日なにを読んだかを記して担任に提出することになっていました。 クラスのみなが週ごとにちがう本を記入していたなかに、一人だけある日を境に以後毎週同じ一冊を記して提出した生徒がいました。それがわたしです。

    来る週も来る週も『罪と罰』『罪と罰』『罪と罰』の一辺倒です。まるで数日おきにやって来る紙芝居のようで、毎週その時間だけが落ちこぼれの生徒には楽しみでした。それが夏休み直前まで続きました。

    あしたから休業という日に、担任がわたしを教卓に呼び、あれは読み終わったのかと訊きました。けれども一時間で読めるページは限られていますから、まだ半分ちかくが残ったままです。すると担任は図書室からその本をわたしに持って来させ、特別に貸出しを許可するから家で最後までゆっくり読むといいと言ってくださったのです。

    小学校の図書室に原作をそのまま翻訳した版が所蔵されていたわけではありません。世界少年少女文学全集の一冊として簡略版があっただけです。ほとんどどれもが物語本位に書き改められたチャチなものばかりでした。わたしもそれを読んでいたのです。

    とはいえ『罪と罰』を、思想的な観点は二の次にして、まさに物語本位に読むことに徹して、作家としての自分がドストエフスキーから多大な恩恵をこうむった江戸川乱歩のような作家もいるわけです。 まして少年のわたしに、ロシアにおけるスラブ正教分離派の事情など分かるはずもないことでした。

    ただ、物語の迫力がわたしの胸をわしづかみにしたのです。物語によってぐいぐいとわたしは締め上げられたのです。そのロシアの物語が持つ途方もない魅惑に満ちた主人公の犯罪と悪夢のおそろしさは、小学校の生徒にとっては思想からではなく、小説のプロットつまり筋の運びから来たのです。

    原作の完全な翻訳をわたしが読んだのは高校に入ってからでした。このときは半徹夜状態で三日か四日で読み上げたと思います。授業は居眠か、さもなくばまったく上の空だったにちがいありません。

    とにかく、わたしが文学に魅入られることになったきっかけと経緯の一端は、以上のようなものでした。

    小学校時代から落ちこぼれ生徒だったわたしが、中学・高校・大学を通じて、他から強要されぬ情熱を読書にだけはいだくことができたのは、ひとえに物語の力のおかげであると言うことができます。

    これは学力テストなる制度の観点からは、およそ価値あることとも、有意義なことともみなされないでありましょう。

    しかし、大学の教壇に立った当初から、退職するまでの四十年あまりの歳月、ただのいちども講義のための準備をしたことがないのです。

    この横着なダメ教師がなぜ長い年月にわたって務まったかと申しますと、過去に読んだ本の記憶をたどりながら話を勝手に組み立てるという離れ業?に終始して、格別苦情をこうむることがなかったからにすぎません。

    すべては、物語が三度のメシより好きだった、というその個人的偏向のしからしめるところだったとしか考えられないわけです。

    もしわたしがもう少し学力的に優れていて、けっして落ちこぼたりせず、みなに十分伍してゆくことのできる生徒だったとしたら、中学高校時代も学校の図書室と市立図書館に一人いりびたって、好きな本を読むことにわれを忘れることもなかったはずです。

    そしてあげくは大学院まで行って、好きな本を読むことが職業上最大限許される大学教員になろうと思うこともまずなかったでしょう。 留学経験もなく、学位もなく、ただ少しばかりの読書量が恩師たちを面白がらせたばかりに、その後現在まで本と付き合う生活を送ってきました。

    「等質の金太郎飴製造機」からはじかれた人間ですから、自分の子供たちにも勉強しなさいと言ったことはありません。娘も息子も本人たちが進学したくないというので大学に行かず、それぞれが自分の好きなことをやっております。娘はグラフィックデザイナーの道を、息子はミュージシャンの道を、かつかつながら歩き続けています。

    成功者になれなくてもどうということはない。ただ、食いはぐれさえしなければ、というのが子供たちに向かって言ってきたわたしの決まり文句であります。

    負の要素や偶然といえども、人の一生にさいわいをもたらすことがないわけではない。この世に真に生きるうえで自らの情熱となるものの根源を、自分のなかに見いだすことができるか、その一事がなによりも大切なことと思っています。

    また長くなりました。今回のブログを拝見して、なにかコメントを書き出せば、かなり長くなるような気がしていましたが案の定です。 メールとしてお送りしますが、扱いはどうぞ先生のご随意になさってください。

    donkey庵

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