いのちの初夜

がんセンターへ出立の朝、母に別れを告げて
2018年12月17日朝8時半


 2年前の12月17日、父を宮城県立がんセンターに入院させました。南相馬に戻ったその日の夜、父のパソコンを開くと、西日本に住むある方からメールが届いていました。18時10分の受信。父を元気づけるため、私は父の携帯にメールを転送しました。

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 父の死後、父の携帯を開くと父の返信メールがあることに気づきました。父はボロボロの身体で、いつもは慣れない携帯メールは誤変換がつきものだったのに、短いながら誤字のない強い決意のこもったメッセージを送っていました。翌日の午後、実質父は生涯を閉じることになります。

 先日、このメールを送ってくださった方からお便りがあり、改めてこの時のことをお話しくださいました。私は、最後となったこのメールのやり取りと、死後2か月していただいたメールを、父を偲ぶためぜひモノディアロゴスでご紹介させていただきたい旨お伝えし、ご了承をいただきました。以下はそのメールです。



佐々木先生

大変ご無沙汰しております。「モノディアロゴス」で先生を知り、時々、メール交換させていただきました。「モノディアロゴス」から多くを学び、先生から直接、ご著書をいただいたりもしました。

私が母の旅立ちを見送ったのが3年前の6月。その後、表立って支部立ち上げの行動をしない自分のふがいなさや後ろめたさもあり、先生には「しばらく時間をください」という趣旨のメールをお送りした後、メールをするのは控えておりました。が、「モノディアロゴス」にはずっと立ち寄り、勉強を続けておりました。「モノディアロゴス」を、ただ通り過ぎていった一人、ではありません。

先日、先生がご入院なさることを知りました。が、やはりメールは憚られ、手紙を書こうと思っておりました。が、忙殺されている間に、もう今日は入院なさったご様子。手紙だと遅くなる一方なので、思い切ってメールを送らせてもらおうと思いました。お許しください。

先生が、無事に治療を終えて退院なさることを心からお祈りしております。そして、元気に発信を続けてください。昔、ご縁のあった方が障害のあるお嬢さんとのことを『娘より三日間長生きしたい』という手記にまとめられ、発刊されました。佐々木先生も、美子さんを残してはいかない、と思っていらっしるのは重々承知(私よりはずっとずっと強い思いで)ですが、ほんと、私も許しませんよ! どうぞ、どうぞ、元気な姿を、ご家族に、モノディアロゴスの皆さんに、そして美子さんに見せてください。再度、心よりお祈り申し上げます。

メール嬉しく拝見しました。今晩が命の初夜です。絶対に負けません。今後とも応援頼みます。
                 2018/12/17 19:55送信

2018年12月18日午後、気管支鏡検査に向かう直前。生前最後の父の写真



2019年3月8日(金) 18:05

佐々木さま

お父様の佐々木先生ご逝去の折は、ご丁寧にお知らせくださりほんとうにありがとうございました。もう2カ月以上が経ちましたね。悲しみは癒えることはないでしょうが、お父様の魂と共にある心強さと安らぎの中でご家族の皆さん、お暮しのことと拝察しております。そして、人生のパートナーとして歩み続けてこられた奥様の美子さんも、魂を共にする穏やかな時間の中にあることをお祈りいたしております。

(中略)

私は先生と直接お話しすることもなく、ましてやお会いすることもありませんでした。東日本大震災の後、あるメルマガを通じて先生のことを知り、思い切ってメールをさせていただいたのをきっかけに、その後、何度かメールや手紙を交換させていただきました。最後は、先のメールでも申しましたが、入院された日の先生に、いたたまれない気持ちになって不躾にも久しぶりのメールを送ってしまいました。先生は怒るでもなく、無視するでもなく、わざわざ喜んでくださった旨を返信くださり、その日を命の初夜をとらえている覚悟まで語ってくださいました。

研究者であり、思索家であり、文学者でもある先生の言葉は、私には難解なことも多く、これまで先生からいただいた言葉に自分の蒙昧さが白日にさらされるようで忸怩たる思いに駆られたことはありました。しかし、どんな時でも、先生からいわゆる “上から目線” で言われているような息苦しさを感じたことはありませんでした。
先生は「魂の重心を低く」と語っておられましたが、私のような者にも優しく接してくださったのも、その表れの一つと思っております。先生は時に瞬間湯沸かし器のスイッチが入るがごとく辛辣に論じたり、他者に怒りをぶつけることがあったご様子ですね。が、それも世の中の不正義、理不尽、人間としての言動の醜悪、無責任に接した時だけだったのでしょう。
これもモノディアロゴスにあった言葉、ないしは、先生の著書にある言葉だと思うのですが(記憶があいまいで申し訳ありません。メモの中からです)、「人と人を強く結びつけるのは、たとえば何に感動するかとか、どんなものが好きか、ということ以上に、何に対して闘いを挑んでいるか、あるいは何に対して真に怒っているかが決定的要因だと思っている。」と。
私は、先生と同じようなことに感動し、また、怒る人間だろうと自負はしています。が、先生のように真に怒ることができず、怒っても行動に至ることなく、日本人的な「仕方ない」「忘れよう」「あきらめよう」に落ち着いてしまう人間のように思います。そして今は、怒るより自分が直面することへの関心にのみ終始しています。というのも、業界の中層で活動するフリーランスのコピーライターという、社会的・経済的に不安定な身を選び、今、老齢期を迎え、人生の落とし前をつけるべくもがいているからです。
でも、そんな私の心の「錦」として、あるいは、やはり「戒め」として、モノディアロゴスに立ち寄り続けようと思います。
淳様には、お父様の言葉を再掲したり、ご自身にもあふれてくる思いを吐露したりしながら、少しずつ少しずつ、前へ進んでいただければと思っております。大阪弁で言えば、「まあ、ぼちぼちやっていきまひょ」ですね(笑)。
僭越なことを申し上げ、また、長々と綴ってしまい、大変失礼いたしました。お互いに健康に気をつけて、春の陽気を待ちながらしっかりやっていきましょう。お元気で。

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かつて父が語っていた言葉


どんな芸術より、どんな思想より、二つの魂が合い寄り、
結ばれることの方が何万倍も美しいし、何万倍も価値あることです。

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【家族よりご報告】

2018年12月18日午後1時34分

この後、すぐに車いすを押して検査室に向かったが、これが最後の父とのやり取りになった

 

家族よりご報告

 佐々木孝の息子の淳と申します。

 ウェブ上という場で、家族から初めて公にご報告させていただきます。またこの形を通して、お便りやご連絡をくださいました方々へのご挨拶と代えさせていただくことをお許しください。

 父は去る12月20日夜、宮城県立がんセンターにおきまして、入院翌日の気管支鏡検査で起きた合併症がもとで残念ながら帰天いたしました。あまりにも切ない幕切れでした。しかしながら生前、身内や親しい友人に語っていた通り「闘い抜きたい」という決意を全うした最期になりました。クリスマスイブの日に私が投稿した写真は、18日昼過ぎの検査直前のものであり、奇しくも最後の写真が父の穏やかな微笑となりました。父はもちろん生還するつもりでいましたが、一方で死も覚悟していました。入院直前に語っていました。自分の生き方は痛くともつらくとも(癌を)放置などせず、最後まで闘うことだと。そして君は明日死ぬよと言われても従容として受け入れる覚悟は既にできている。闘わずして死ぬのは絶対に嫌だと。ともに過ごした家族は父の気持ちがよくわかります。闘い抜いた父は後悔していないと確信します。

 24日クリスマスイブに、父の兄であるカトリック司祭の伯父により、自宅で病床に伏す母を傍らにささやかな家族葬を行いました。今は天上から母や私たち家族、親しくさせていただいた皆様を見守ってくれているでしょう。生前父がお世話になりました皆様には改めて遺族を代表し、心からの感謝と御礼を申し上げます。

 父はいつも人の言葉や態度というものをそのものとして信じ受け止め、二心なくそれに応える篤実さをもって生きてきました。それゆえ幾度となく傷つき苦しんできたことを私はずっと昔から知っていました。父が、愚直さというより、むしろきわめて人間らしい、しかしまたきわめて稀な聖性、善性を内に有していたがためのことであったと私は思っています。また、父は巷が有難がるような華やかなポストとは縁遠い学者人生でしたが、アカデミズムとは何たるかを知る真の大学人であり教育者であったと思っています。イエズス会の修道生活から還俗しても、真正の求道者であり続けた証を、私は父の生きる姿の随所に見出します。今思えば「世間的」「常識的」な目から時に挑戦的と受け止められた発言も、私からすれば、単に父の物事への眼差しがあまりにも天上(つまり真理)、本質に近すぎたがゆえ異端視されたものと思っており、その思いは今も全く変わりません。父が生涯取り組んできたものにしっかりと目を向けてもらえるならば、すべては判然とすることです。つまり、父は常に「末期の目」から物事を根源的にとらえようとしていました。ともあれ父は生きていく中で受けた無理解や忘恩、裏切りなどどんな仕打ちに対しても、決して誰かを根に持って恨んだりするようなことはありませんでした。そうなってはいけないと、常に私は注意されて育ちました。

 病の母を案じ、最後の10年は外出も半径2キロ圏内の小一時間にとどめ、蟄居の身を甘んじて受け入れた父。特に震災後は、スペイン人美術家の復興記念展覧会に招かれ福島市を半日訪れたのと、最後の旅となった宮城県立がんセンターへの移動以外、小さな町を出ることはありませんでした。しかし、そのような不自由な身にあっても、言葉を通じ、父の心ははるか時空を超え世界の友人たちのもとへと駆けめぐっていました。そんな中、丹精込めた手作りの私家本の送付や買い物に町の郵便局やスーパーを独り行き来する父の姿は、およそ権勢的な振る舞いや虚飾を張る人間とは対照的な、貧しき孤高の小さき者としてのそれでした。福音書にあるイエスの山上の説教「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった」の表現、そして清貧という言葉は、どんな聖職者よりも父にこそ相応しいと私はいつも心の中で誇りに思っていました。著作などを通じてでなく、生身の人間としての父を魂で理解し、支持してくれた人は結局はわずかであったと思います。しかし、父が晒され続けた陰の無理解や悪意、嘲笑、冷笑も、今や永遠の相のもと遇される真理の世界においては地上の何物にも勝る勲章です。くじけず果敢に生き切った父の姿が、真理の世界に生きようとする誰か一人にでも、ささやかな励ましとなってもらえればと、父を想い、願わずにはいられません。南相馬での晩年、いつどんな場面においても父は「逃げも隠れもせず」(最後に私に自分はそのように生きてきたと語りました)、たとえ無様でもありのままの自分でいることを貫き通しました。半ば周囲の四面楚歌(あるいは無視、無反応)に遭い、孤軍奮闘しようとも、故郷を愛し、そこに生きることに誇りと喜びを見出した福島・南相馬での父でした。今振り返ると、晩年は一日一日を慈しむように感謝して生きていました。その姿は、祈りそのもののようでした。

 さて、身内の贔屓はこの辺までにします。父の魂は、父が残した言葉、文章の中でこれからも生き続けます。父のブログ「モノディアロゴス」は今後も継続してまいります。どうか時折でも訪れ、父と再会して下さることを願います。そして父の灯した魂の火を絶やすことなく、心ある方々との間で継承していくことができたら、これにまさる幸せはないでしょう。今後ともどうかよろしくお付き合い、ご指導のほどを心からお願い申し上げます。

 最後に、「カトリック新聞」2018年9月16日付に掲載されたウナムーノの関連記事で父が述べた言葉を引用します。

2019年1月11日
佐々木 淳

 

「私が、原発被災地という “奈落の底” でしきりに希望したのも、この惰弱な物質主義・快楽主義・没理想への抵抗です。さらに厳しく言えば没義道(もぎどう)の日本を、また世界を、まともな国や世界にするために、ウナムーノに倣って、目先の勝利や敗北に心乱さず、時に嘲笑に身をさらそうとも、最後まで闘い抜く若い世代の誕生を切に望みます」

佐々木孝

 

 

【追記】死後、父の除籍の文書を役所に発行してもらい気づいたことですが、父と母が役所に婚姻を届けたのは、奇しくも父の亡くなったちょうど50年前の12月20日でした。半世紀ぴったりの結婚生活となりました。

※父の訃報は、スペイン紙 El País 紙上において、ゴンサロ・ロブレド氏の寄稿による追悼記事が出されております(本ブログでも、コメント欄でお世話になった清泉女子大学元学長で現教授の杉山晃先生が、ご弔意とともに紹介くださっています)。リンクと翻訳を以下にご紹介いたします。

Fallece el traductor japonés de Unamuno que se negó a evacuar Fukushima

福島原発事故で避難勧告を拒否した日本人ウナムーノ研究者逝く

スペイン思想研究者の佐々木孝氏、12月20日木曜日の夜帰天。享年79

ゴンサロ・ロブレド 東京 2018年12月27日

 スペイン思想研究者でミゲル・デ・ウナムーノの翻訳を手掛けた日本の佐々木孝氏が、去る木曜日の夜(12月20日)逝去した。佐々木氏は、このバスク人思想家の思想に忠誠を示し、近隣の福島第一原子力発電所で起きた原子力事故に際し、居住する町から避難することを拒否した。氏は、「日本政府は生物学的な命を憂慮するだけで、われわれ一人ひとりの人生という意味の命は尊重しない」と、ウナムーノの言葉を引き合いに出して、2011年3月11日の地震と津波の後に起きた発電所の爆発による被爆の危険を前にし、南相馬市からの避難勧告を拒否した理由を語っていた。

 氏はさらに、彼の母も、認知症の犠牲となった妻も、政府が用意した避難所では生き延びることはできないと主張した。南相馬は、ゴーストタウン化し、物資の供給も絶たれ、「排除地帯」であるかのようなレッテルを貼られた。

 佐々木氏は、62歳でインターネットによる発信を始め、ウナムーノを敬し「モノディアロゴス」(独対話)と命名したブログを執筆するようになる。ブログにおいて佐々木氏は、災厄を予見もせず、その重大な結末にも対峙しない政府と原発企業の発する誤った情報、その無能ぶりへの告発を決意する。批判の中で繰り返し焦点に当てたのは、この国の構造的な個人の責任意識の欠如であり、これが集団的決定を促しているということである。モノディアロゴスという羅針盤は、数多くの支持を得、その多くにとって、遺棄された住民に起きた出来事の真実を知る唯一の手がかりとなった。ブログの文章は集成され、『原発禍を生きる』のタイトルで出版化され、中国語や朝鮮語、スペイン語などの言語にも翻訳された。わが国ではサトリ出版から上梓している。

 北海道の帯広で生まれ、下級官吏として海を渡った父親とともに、幼少期の一時期を日帝侵略下の旧満洲で過ごした。第二次世界大戦の敗戦後、5歳で日本に引き揚げ、福島県で暮らし始める。イエズス会経営の上智大学(東京)で学び、カトリシズムとスペイン思想に出合う。この二つによって彼の精神は導かれ、数多くの翻訳を手掛けたことで、スペイン思想研究は日本に普及した。

 政府が南相馬における避難指示を解除すると、彼の住まいは、氏の共鳴者やスペイン研究者、ジャーナリストの巡礼地となった。作家のホアン・ホセ・ミリャス氏や芸術家のホセ・マリア・シシリア氏などが、原発事故前までは公的な正直さ、技術の優秀性が代名詞であった日本という国への氏の批判的ビジョンに耳を傾けにその住まいを訪れた。2017年から2018年の間には、法政大学出版局により、氏の翻訳による『生の悲劇的感情』(再版)や、『ベラスケスのキリスト』といったウナムーノの著作と、このビルバオ出身の思想家の人物像に迫った氏の思索『情熱の哲学』が刊行された。

 彼の命を奪った肺がんの診断が下された病院に入院する前夜、最後のブログを執筆し、デジタルの遺書としてインターネット上に最後の願いのリストが掲載された。病床に伏す妻と息子家族に蓄えを残した。「孫の愛に清泉女子大学で学んでほしい」。佐々木氏はここで教鞭を執っていた。愛さんがスペイン研究の専門家になって、「日本を愛する若きスペイン人と結婚し、スペイン語を広めるという祖父の仕事を継いでほしい」と。そして息子には遺稿の校正と出版を託した。それはイエズス会士であり、平和主義者のダニエル・ベリガンの『危機を生きる』と邦題化された作品、そしてオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』であった。

Fallece el traductor japonés de Unamuno que se negó a evacuar Fukushima

El hispanista Takashi Sasaki murió en la noche del pasado jueves, 20 de diciembre, a los 79 años

Gonzalo Robledo
Tokio

Takashi Sasaki, hispanista y traductor al japonés de Miguel de Unamuno, que por fidelidad a las ideas del filósofo vasco se negó a evacuar su ciudad tras el accidente nuclear en la vecina central de Fukushima, falleció en la noche del pasado jueves (20 de diciembre) a los 79 años. “El Gobierno japonés solo se preocupa de la vida biológica y no respeta nuestra vida biográfica”, había dicho, parafraseando al autor español, al explicar su rechazo a la orden de dejar la ciudad de Minamisoma ante el riesgo de radiación tras las explosiones ocurridas después del terremoto y el tsunami del 11 de marzo de 2011 en la central nuclear Daichi de Fukushima, situada 25 kilómetros al sur.

El hispanista argumentó además que ni su madre ni su esposa, víctima de demencia senil, podrían sobrevivir en uno de los refugios habilitados por el Gobierno en las provincias vecinas a Fukushima. Minamisoma, semidesierta y sin abastecimientos, fue catalogada como “zona de exclusión”.

Sasaki, que a los 72 años se iniciaba en las comunicaciones digitales, comenzó un blog que en honor a Unamuno llamó Monodiálogos y se dedicó a denunciar la desinformación, la ineptitud del Gobierno y las empresas reguladoras de la energía nuclear para prever el desastre y hacer frente a sus graves consecuencias. El blanco reiterado de sus críticas era la falta de responsabilidad individual propiciada por el sistema japonés, que fomenta la toma colectiva de decisiones. Su bitácora digital consiguió miles de seguidores y para muchos fue la única forma de conocer la realidad de lo que sucedía en las poblaciones abandonadas. Los textos recopilados fueron traducidos a varios idiomas y en español aparecieron con el título Fukushima: vivir el desastre, de la editorial Satori.

Nacido en Obihiro, en la isla septentrional de Hokaido, pasó parte de su infancia en Manchuria, territorio invadido por el ejército nipón donde su padre fue enviado como funcionario. Al final de la Segunda Guerra Mundial, con cinco años, regresó a Japón y empezó a vivir en la provincia de Fukushima. Estudió en la universidad jesuita de Sofía, en Tokio, donde conoció el catolicismo y los filósofos españoles que guiarían su vida intelectual y que divulgaría a través de numerosas traducciones.

Cuando el Gobierno levantó la prohibición de visitar Minamisoma su casa fue lugar de peregrinación de simpatizantes, hispanistas y periodistas. Escritores como Juan José Millás y artistas como José María Sicilia acudieron a escuchar su visión crítica de un país que parecía, hasta el accidente nuclear, el epítome de la honestidad oficial y la excelencia tecnológica. Entre 2017 y 2018 la editorial Hosei Daigaku publicó sus traducciones de Del sentimiento trágico de la vida y El Cristo de Velázquez, ambas de Unamuno, además de un ensayo suyo sobre la figura del pensador bilbaíno titulado Filosofía de la pasión (Jonetsu no Tesugaku).

La última entrada de su blog, publicada en vísperas de su ingreso en el hospital donde le diagnosticaron el cáncer de pulmón que acabó con su vida, contenía una lista de últimos deseos que permanecen en la web como su testamento digital. A su esposa postrada en cama y a la familia de su hijo Jun les deja sus ahorros. “Deseo también que mi nieta Ai estudie en la Universidad de Seisen”, dice en referencia a la universidad femenina donde el profesor Sasaki enseñó. Espera que Ai se especialice en estudios hispánicos “y se case con un joven español que ame Japón y siga la labor de la difusión del idioma español de su abuelo”. También pide a su hijo que se encargue de la corrección y publicación de sus últimas traducciones, una obra del jesuita y pacifista Daniel Berrigan que tituló Kiki-wo Ikiru (Vivir la crisis) y La rebelión de las masas, de Ortega y Gasset.

他、カトリック系メディア「Aleteia」紙の追悼記事(こちらで記事になったのは寝耳に水で非常に驚きました)。

Takashi Sasaki, el católico japonés que desafió la catástrofe nuclear

Takashi Sasaki, el católico japonés que desafió la catástrofe nuclear

Jaime Septién | Dic 28, 2018

En sus últimos años de vida, se dedicó a luchar por la paz y la erradicación de la energía nuclear, todo desde el amor a su esposa, y fiel al mensaje del Papa Francisco

El pasado jueves 20 de diciembre, murió a los 79 años de edad, el intelectual japonés Takashi Sasaki en su pueblo de Minamisoma (Japón), ubicado a solo 25 kilómetros de la central de Fukushima, epicentro de la crisis nuclear sufrida después del terremoto y el tsunami que golpearon al país asiático el 11 de marzo de 2011.

Sasaki era un católico practicante, en un país donde los católicos no suman más de 0,5% de la población total. Estudió en la universidad jesuita de Sofía (Tokio), y quiso ser sacerdote antes de tomar la decisión de casarse con su esposa Yoshiko, a quien nunca abandonó, sin importar las circunstancias.

Gran apasionado del español y de la cultura hispana, tradujo al japonés importantes libros de Miguel de Unamuno, como Del sentimiento trágico de la vida y El Cristo de Velázquez. En sus últimos años de vida, se dedicó a luchar por la paz y la erradicación de la energía nuclear, todo desde el amor a su esposa, y fiel al mensaje del Papa Francisco.

Valentía con sentido humano

El 11 de marzo de 2011, Japón vivió uno de los desastres naturales más catastróficos de su historia. A las 14:46 hora local, la costa oriental de Japón fue sacudida por un terremoto de magnitud 9.0 en la escala de Richter, que duró seis minutos. Se trató del terremoto más potente de la historia de Japón y el cuarto más potente de la historia a nivel mundial, desde que hay mediciones. Como consecuencia del terremoto, se crearon olas de maremoto, de hasta cuarenta metros de altura, que golpearon con fuerza la costa del Pacífico japonés.

Entre los muchos daños que dejó el terremoto y el posterior tsunami, el más grave fue el causado a la central nuclear de Fukushima. La central sufrió fallos en el sistema de refrigeración y múltiples explosiones, que pusieron en peligro a cientos de miles de japoneses. Fue el peor accidente nuclear desde el ocurrido en Chernóbil (Ucrania) en 1986.

En medio de la tragedia, destaca el testimonio de Takashi Sasaki. Cuando el gobierno japonés ordenó la evacuación de las zonas cercanas a la central de Fukushima, Sasaki decidió quedarse en su casa a cuidar de su esposa, quien sufría demencia senil. Argumentó, con Unamuno como bandera, que las autoridades “solo se preocupan de la vida biológica y no respetan nuestra vida biográfica”.

El motivo para no abandonar su hogar era que tanto su madre, a quien cuidaba desde hace tiempo, como su esposa, Yoshiko, no podrían soportar las condiciones de los albergues instalados por el gobierno. En los hechos, gran cantidad de los ancianos y enfermos que fueron trasladados a albergues murieron en una situación de extrema precariedad.

Con el riesgo que esto implicaba para su propia vida, decidió quedarse a procurar el cuidado y el cariño de su familia, con el conocimiento de que a partir de ese momento, de ese instante, el mundo exterior le daba la espalda.

Una voz que clama en el desierto

Desde su pueblo de Minamisoma, que se convirtió en parte de la zona de exclusión –donde los pocos habitantes que quedaban fueron abandonadas a su suerte–, Takashi se volvió una voz crítica y tenaz contra el abuso de los poderosos y la insensibilidad humana.

En su desierto nuclear, Sasaki comenzó a escribir un blog de evocación unamuniana, llamado “Monodiálogos” bajo el seudónimo de Fuji Teivo. Al poco tiempo, la publicación adquirió un profundo significado, por ser la única voz que denunciaba –desde el abandono– la desinformación de la prensa, la ineptitud del gobierno y los graves estragos que causa la energía nuclear, tanto en términos de generación de energía –con énfasis en la contaminación que causan los desechos nucleares y los desastres como los de Fukushima y Chernóbil–, como en el componente bélico de las armas nucleares, una herida abierta en el corazón de todos los japoneses.

Con el paso del tiempo, su voz fue cada vez más escuchada en Japón y en el mundo, y sus relatos fueron recopilados en un libro llamada Fukushima: vivir el desastre (traducido al español por editorial Satori). En el Papa Francisco encontró un gran aliado en su denuncia contra las armas nucleares, y dedicó todas sus fuerzas para que el mundo fuera consciente de que lo que pasó en Fukushima se puede –y se debe– evitar en el futuro.

Un legado hispanófilo

A su muerte, víctima de un cáncer de pulmón, Sasaki deja, además de su lucha contra la energía nuclear y el testimonio de entrega a su familia, un legado de amor y respeto por la cultura y las letras hispanas. Además de Unamuno, tradujo a otros importantes filósofos españoles como José Ortega y Gasset.

Gracias a Sasaki, los japoneses pueden conocer y estudiar en su propia lengua el pensamiento hispano, y sobre todo el pensamiento hispana católico. Un puente que une a dos tradiciones milenarias y un testimonio de vida que abre las puertas para que más japonenses sigan su camino intelectual, espiritual y humano.

En medio de los desiertos del mundo actual, brotan flores raras que demuestran que no todo está perdido. La imagen de Takashi, en su desierto nuclear, cuidando a su madre y a su esposa enferma, abandonado por el mundo, escribiendo en la más terrible soledad, traduciendo a Unamuno, luchando por devolver la esperanza al mundo, es una imagen poderosa.

Una imagen que vale la pena recordar.
A su muerte, víctima de un cáncer de pulmón, Sasaki deja, además de su lucha contra la energía nuclear y el testimonio de entrega a su familia, un legado de amor y respeto por la cultura y las letras hispanas. Además de Unamuno, tradujo a otros importantes filósofos españoles como José Ortega y Gasset.

Gracias a Sasaki, los japoneses pueden conocer y estudiar en su propia lengua el pensamiento hispano, y sobre todo el pensamiento hispana católico. Un puente que une a dos tradiciones milenarias y un testimonio de vida que abre las puertas para que más japonenses sigan su camino intelectual, espiritual y humano.

En medio de los desiertos del mundo actual, brotan flores raras que demuestran que no todo está perdido. La imagen de Takashi, en su desierto nuclear, cuidando a su madre y a su esposa enferma, abandonado por el mundo, escribiendo en la más terrible soledad, traduciendo a Unamuno, luchando por devolver la esperanza al mundo, es una imagen poderosa.

Una imagen que vale la pena recordar. 

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しばしのお暇頂きます


 今日は息子の運転する車で、名取市にある宮城県立がんセンターに行き、朝の九時から夕方の五時半まで一日中いろんな検査を受けました。皮膚炎に気を取られているうちに、どうも肺にガンの腫瘍ができていたらしい。場所も分かりにくいところ。つまり手術もできないし、かなり進んでいて、悔しいけど第四ステージ。
 でも負けません、美子のためにも頑張ります。来週月曜から順調にいけば来一月中旬まで入院して、さらに詳しい検査・加療を受けます。息子が甲斐甲斐しく全て面倒見てくれてます。美子も頴美や訪看さんやヘルパーさんたちが万全の備えで世話してくれますので、その点は安心です。
 帰りがけ、がんセンターのロビーで宮城工専の生徒さんたち五人ほどが演奏してました。不思議な感覚。つまり観客も含めて「命」と真剣に向き会う人たちの集まり。一種、宗教的な雰囲気。普段の生活がいかに本質を忘れて浮足立ったものか、それが理屈じゃなく肌に伝わってきました。帰りの高速で後部座席から見える夜景も、長い間忘れていた夜の神秘に満ち満ちていて、思わず涙が出そうになりました。
 でも気が弱くなったわけではありません。戦い抜く覚悟です。そんなわけでしばらくブログをお休みすると思いますが、みなさんからの「気」をお願いします。
 メールからも本人はしばらく離れますが、今晩から息子が「富士貞房Jr.」を名乗ってくれることになりましたので、必要なことは適宜Jr.がお返事すると思います。その節はどうぞよろしく。
 皆さんのご健康を心から願いつつ、私自身も「気」を入れて頑張ります。おやすみなさい。

※追記 留守中、時おりは訪ねて下さり、これまでご覧にならなかったブログや、「富士貞房と猫たちの部屋」の記事や写真などご覧いただければ幸いです。

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トロイの木馬


 あと数日で満79歳つまり数えで80になるので、それを機会に(これまでだってそうだったと言われれば返す言葉もないが)いわば我が白鳥の歌の叙唱として、言いたいことを遠慮なくきっちり言ってから死にたいなどと勝手な理屈をつけて、いくつか実践し始めた。個人相手のことは何かと差し障りがあるので、組織相手のことを一つご報告しよう。
 最後に勤めた大学のことだが、数日前、退職後初めて正式に(?)手紙を書いた。宛先として一応「教職員の皆様へ」としたが、私のことを覚えておられるかつての上司や同僚に向けた半ば公的な書簡である。現在は看護学科が増設され男子学生も入っているので女子大ではなくなっているが、その女子大時代に書いたいくつかの文書も同封して。たぶん、十中八九、梨のつぶてだろう。
 はっきり言えばなんとも嫌味な、もらって決して嬉しくない書簡である。例えばいろんなことはあったにしても原発事故のあとお見舞いの言葉一つかけてもらえなかったことをちらっとをグチっているのもそうだが、中でも超弩級の嫌味というより置き土産は、、、
いやその前に言わなければならないのは、2002年、定年前に退職して一人母が住む南相馬に帰って来たが、それは在職中、短大から四大への改組転換の際に「貧すれば鈍する」級のすったもんだがあったときの教授会で、「理事長、あなたその責任を取って辞めなさい」など、ロッキード事件での田中首相の秘書官の妻・榎本美恵子級の爆弾発言(蜂の一刺し)をしたことで居ずらくなったわけではない。その後も大っきな顔をしていたが、そのうち自分の方でアホらしくなって自ら辞したわけだ。
 話を元に戻すと、その置き土産とはある一つの標語、もっとはっきり言えば今もその大学のモットーとされている標語がなんと佐々木作だということである。先日話題にした例の「焼き場に立つ少年」の場合と似たことをやったわけである。つまり短大から四大への改組転換の際、大学の理念・あり方の再検討が一般教職員にも課題とされたとき、本気で立案したものの中にその標語があったわけだ。それ以外の提言は全てボツにされたが、不思議にその標語だけは生き残った。うがった見方をすれば、その後のどさくさの中でそれが佐々木作であることなんかすっかり忘れられてしまったんだろう。そうでなければ或る人たちにとってはいわばアポスタタ(背教者)同然の者の置き土産が大学のモットーになるはずもない。
 さてこれからが表題にした「トロイの木馬」の意味である。ご存知のようにトロイの木馬とは、前13世紀のトロイア戦争で、ギリシャ軍がトロイア軍を攻略するため、兵をその中にひそませて敵の陣地に残した巨大な木馬だが、現在ではOSやアプリケーションのセキュリティ上の欠陥やバグ(間違い)を突き、一定期間潜伏してから発症するウイルスの呼称。でも私はそれほど底意地の悪い人間でもないし、それほどの恨みを抱いているわけでもない。
 具体的に言おう。それはラテン語の Sapientia in Caritate Fundata (愛に根ざした真の知恵) である。どこかの大学のように真理 (veritas) と愛 (caritas) を並列の助詞「と」(et) で結ぶのではなく「根ざした (fundata)」と苦心して作った記憶がある。もちろん作者がだれであれ、この標語自体に価値があるし、その著作権など主張する気など毛頭ない。只願わくはこの標語を口にし目にされるとき、一瞬なりともかつての同僚のことを思い出していただければ他に言うことなし。
 いやいやここまでしつこく書いた来たが、私には啄木の「石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし」なんて気持ちなど微塵もないし、本音の本音を言うなら、私には美子の穏やかな笑顔が見れるなら、他のことはどうってこたあねえ、である。も一つ「おてもやん」の歌詞を借りるなら、「あとはどうなときゃあなろたい」といったところがまっこと我が心境である。
 だったらこんなこと書くな、ってかー? いやごもっともごもっとも。そんじゃここらで退散とするか。ではお後がよろしいようで ♪♫

※大急ぎの追記
ここまで書いたのなら、いっそ当時書いた文章とその後の感想を全文紹介した方がよさそうだ。いつものように少し長いが、お時間のある時にでもゆっくり読んでいただきたい。

 

純心の人間教育

                  学生部長 佐々木 孝

 

「かくして私たちは、人間とは何よりもまず兄弟たちと歴史に対して責任を持つ者であるとする新しいヒューマニズム誕生の証人である」
         (第二バチカン公会議「現代世界憲章」第五十五項)

 

 このところ日本列島は「真理オウム教」問題で揺れにゆれている。一月の阪神・淡路大震災も、危機意識の麻痺した安全神話の中でぬくぬくと生きてきた日本人に、改めて地震国日本という現実を突きつけたが、しかしそれは人災的側面を残しつつも、結局は自然災害であるという限りにおいて、生き方そのものに対する内省の契機とはならなかった。だがその後に起こった地下鉄サリン事件など一連のオウム疑惑は、自分たちがまさに内部崩壊の危機にさらされている、「危機」は外ではなく「内」にあるのではないか、という深刻な反省を私たちに迫っている。
 とりわけ真理オウム教信者と同世代の子や学生を持つ者にとって、事件は決して他人事ではない。オウムに惹かれていった青年たちの心情が明らかになるほどに、自分たちの子や学生にも一歩間違えば彼らと同じ運命が待ち受けていたかも知れない、と恐怖しない親や教師はおそらくひとりもいないであろう。ここ数年来、日本の大学は、設置基準の改正、十八歳人口の激減などなど、さまざまな問題を抱えて、自己点検、自己刷新が求められてきた。しかし正直言ってそれらは、時代の「外的」要請に応じての「対応」ではなかったか。カリキュラムや教育条件の整備、時代に即した運営や経営の再検討の根本になければならぬもの、それは「いったい自分たちはどのような人間教育をしようとしているのか」についての、ときには「痛みを伴う」自己点検、自己刷新ではなかったか。
 ところで前述のようないわば時代の要請を契機として四大への改組転換を準備してきた純心にとって、それが大学教育のありかたを根本から見直す時期と重なったことをむしろ奇貨としなければなるまい。そして暫定的なものながら、すでに新大学の「教育理念」なるものも文章化された。すなわち「キリスト教ヒューマニズムを基盤に、国際化社会・地球一体化社会の真の平和と福祉に貢献しうる聡明で感性豊かな女性、人間と社会の新しいありかた、その真の幸福を求めて果敢に挑戦する創造性豊かな教養人の育成を目指します。《愛に根ざした真の知恵》(Sapientia in caritate fundata) これが私たちの教育・研究のモットーです」
 純心の人間教育が何を目指しているかが、ほぼ正確に表現されているのではなかろうか。ただし「教養人」という言葉に戸惑う人がいるかも知れない。実はこれはラテン語では homo cultus (文化化・教養化された人間) に相当するが、「文化人」という今では手垢にまみれた表現を避けたという経緯がある。「文化・教養」という言葉がもともと持っていた意味、すなわち「たんなる学識や専門的技能を越えて、高邁な理想に向かっての精神的能力の全面的開発・陶冶」という意味の復権がこめられている。冒頭の「現代世界憲章」の言う homo universalis (ユニバーサルな人間) とほぼ同じ意味である。
 さて教育理念は定まったとして、問題はそれをどのように実現していくかである。残された紙幅を考えて、以下いくつか箇条書きで提案を試みたい。

  1.  理事長・学長以下若い教職員に至るまで、学園という主の葡萄畑に集うすべての者が、働く喜びと深い相互理解・信頼の絆で結ばれていること(生活の模範なしに真の人間教育は不可能である)。
  2. キケロの言う「魂の耕作 (cultura mentis)」のもっとも有効な手段である「ことば」と「歴史」が教育の根幹にあること(不戦決議ができないようなお粗末な歴史認識の持ち主に国を愛する心・国際化社会の未来を語る資格はない)。
  3. 同じキャンパスにある中高との密接な関係(推薦入試制度、効果的な語学教育の共同研究など)を通じて、純心ならではの一貫した人間教育を実践する。
  4. 長崎・鹿児島の姉妹校とも、教員の交流、学生の国内留学制度(単位互換制を含めて)を強力に推進する。
  5. 欧米に姉妹校を求めるだけでなく、発展途上国の(特にアジアの)大学(たとえばカトリック系女子大)とも提携する(発展途上国の姉妹たちとの友情・相互理解抜きで真の国際感覚は育たない)。
  6. 私大の発展、とりわけ今後いっそう重要性を増す「生涯学習」計画にとって、授業以外での人間関係・課外活動は重要である。現段階では組み込む余裕のなかった学生の福利厚生施設に関して、中・長期の計画を早急に立案することを提案したい。

以上

 

(なお本学教育理念の基盤たるキリスト教ヒューマニズムならびに開設予定の「キリスト教文化研究所」については『人間学紀要2』を参照していただければ幸いである)。

(「えにしだ」第十一号、一九九五年(平成七年)七月十五日発行に掲載)

 

【解説】
 いま読み返して、まさに汗顔の至りである。つまり新しい大学造りを目指して昂揚した気分でこれを書いていた間も、一方では着々と佐々木降ろしが画策されていたことを知っているからである。具体的には同じキャンパス内にあった姉妹校や長崎・鹿児島の姉妹校との連携の提唱など、いわば《彼女たち》の縄張りに踏み込んだことへの反撥・警戒もあったろうが、それよりも時代の要請に即した新しいキリスト教ヒューマニズムの提唱が《彼女たち》の自己防衛本能を痛く脅かしてしまったのであろう。一切の予告無しの学生部長罷免、まさに生まれ出ようとしていた「キリスト教文化研究所」創設計画の白紙撤回(後に名称は同じながら内実はまったく別のものが作られた)などが矢継ぎ早に断行された。某キリスト教系大学の穏健だが実務的には無能な有名神父や、某国立大学のキリスト教極右教授の招聘などがその背景にあったわけである。
 「教育理念」の中の「果敢に挑戦する」などの表現からも透けて見えるように草案を書いたのは主に私だが、その時にも、こんな大事なものを自分たちで作れずに端から他人任せにする経営者たちの神経を不思議に思っていたが、いざ文章化されたものを見て、さすがに空恐ろしくなったのであろう、いまに残っているものはなんとも無難な、気の抜けた文章に変わっている。ただ「愛に根ざした真の知恵」のラテン語 Sapientia in caritate fundata だけはそのままである。愛と知恵を「と」(et) で並列させるのではなく「根ざした」(in…fundata) と苦心して作ったことを思い出す。別に特許権・著作権を主張するつもりなどないので、今後ともどうぞご自由に使ってください。

(二〇一〇年一月二十八日付記)

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最期の迎え方

 半ば習慣化していることだが、早暁、布団の中で、半覚半睡(これ私の造語です)の中で、いろいろ複雑なことを考えたり思いついたりしている。大半は目覚めてから思い返すと他愛もない妄想のたぐいだが、なかに、時おり、なかなかいい着想やら思い付き(同じことか)を得ることがある。
 今朝しきりに考えていたのは、まだ治らない皮膚炎がらみのことだった。仁平さんの忠告を忠実に守ってステロイド系の塗り薬はいっさい使わず、痒いときはタンポポの根とヨモギの葉から作った「ばんのう酵母くん」を患部にこすり付けて何とか凌いでいる。そのうち体のどこかからタンポポの花が咲くかも(それはそれで気持ち悪<わり>い)。
 患部は頭皮から足の先までと広範囲だが、しかし増えているわけではない。激しい痒さではないが、日中もほのほのと痒く、まるで頭の中にも薄いヴェールがかかっているようで、はなはだ気分が悪い。掻きだすと手が勝手に動いてしまう。初めのうちアナミドールなどに戻ろうとの誘惑を感じたこともあったが、その時は「これを使っても何の効果もなかったんだぞ!」と強く自分に言い聞かせて思い止まった。
 で、今朝の妄想のことだが、どこかの通販から保湿成分の入ったローションの瓶が届いた。注文したわけではないが、先日届いた小型の瓶と同じ成分で、今年新しく収穫した材料(オリーブか何かか?)で作ったので試してください、とのこと。料金も請求せずずいぶん良心的で親切なメーカーだこと、と感心した。お金で払わないとしてもなにか御礼せねば、と真剣に考えはじめた。『情熱の哲学』は残りあと一冊しかないから、なにか私家本でも送ろうか。でも待てよ、その瓶が送られてきた時の包み紙は? いやそれより先日送られてきたというヤクルトほどの小さい瓶はどこにある?
 すみません、実につまらない夢の一部始終をここまでしゃべってしまいました。そう、全て夢の中のこと、その時鳴ったケータイの目覚まし音で今度はしっかり目が覚めました。でも頭がしびれるほど本気で考えたその痕跡が、頭蓋のどこかに残っていて、このことを後で何とか書かなければと思ったわけです。書いているうち本当に馬鹿らしくなりましたので、この辺でケリをつけます。「ケリ」で思い出しましたが、これが古語の完了を意味する助動詞「けり」だということご存知でした?「蹴り」じゃないっすよ。おや知らなかった? じゃせめてそれだけでも収穫にしてくださいな。
 実は白状すると、数日前、しかも二度にわたって半覚半睡の中で考えた或ることを書こうと思ったのだが、内容がちょっと重過ぎるので、その前に少し軽めのものを,と書き出したのはいいが(良くない良くない)、つい長々としゃべってしまったわけ。ところでその或ることとは、先日多摩川に入水したあの人に関してである。彼は私と同じ道産子で、しかも歳は同じはず。生前の彼とはもちろん接点はなかったが、ただ一度だけ、清泉の教え子の森西・村山さんと共訳したライン・エントラルゴ著『スペイン 一八九八年の世代』(れんが書房新社、1986年)を「生の悲しみ知る権利」という題で実にいい紹介をしてくれた(「朝日新聞」、1986年7月十四日号)。その最後のくだりだけでも引き写してみよう。

スペインはヨーロッパ文明の突端であり岬である。いまやそのもうひとつの岬となった我が国は、スペインにおける精神の下降と苦悩とはまったく逆のものを、つまり上昇と歓喜を享受しているかにみえる。しかし、本書を読めば、生きることの「巨大な悲しみ」を知るのは人間の輝かしい特権であるとわかるであろう。

 ウナムーノなど「九十八年の世代」の本質を実によく理解している。だが、と先ず褒めた後に貶すのは、とりわけ相手が黄泉の国に旅立った者であれば、つまり死者を鞭打つことなど私の趣味じゃないが、しかし前述したようにこれは半覚半睡の中でのこととして大目に見てもらおう。
 はっきり言おう。あのいつの間にか保守の真髄を言い募るほどになった人の最後があまりにも悲しい。ウナムーノの盟友アンヘル・ガニベットも領事として赴任していたラトビア共和国の首都リガを流れるドビナ河に、グラナダから家族が来るというその日に謎の投身自殺をしたし、漱石『心』の先生も自殺をした。だからというわけではないが、その行為自体を一概に非難するつもりはない。しかし保守の真髄氏の場合、報じられる限りの理由ではその傲慢さに首を傾げたくなる。
 会津藩士のなれの果て(のその子孫)である私から見ても、手段はどうあれ、もしもそれに切腹の意味があるとしたら、彼の自死は完全にご法度のはずだ。確か彼は「自裁」とか言っていたと思うが、誰も「生命」を裁く権利など持っていない。それは生命に対する忘恩であり権利侵害である。
 大した芸も持たないのにいつの間にか芸能界の大御所になってしまった明石家さんまだが、彼が娘さんに付けた名前はまことに大正解。「生きているだけで、まるもうけ」からイマルと付けたそうだ。
 そんなことをつくづく考えさせられるのは、今も私の3メートル横で穏やかな寝顔を見せている美子がいるからだ。ときどき「美子ちゃん、ママ、偉いねー、美子ちゃんがいちばん偉いんだよ」と声をかけると、まるでどこかの国の女王様のようににこやかに、しかも威厳をもってこちらを見てくれる。何もしゃべることができなくとも、人間生きているだけでご立派。美子からどれだけの勇気と喜びを貰っていることか。
 真髄氏に心酔していた二人の友人が自殺幇助罪を犯したことになったかどうか、その後の報道を見ていないので知らないが、ともかく人騒がせな死に方をしたものだ。
 てなことを半覚半睡の中で二日にわたって考えたわけだが、しっかり目覚めている今でもその見解は毫も変わらない。私にいつ死が訪れるか分からないが、たとえ家族や他人様の手を煩わせて惨めな状態になろうとも、最後まで感謝の気持ちを失わず、それまで生きられたことに深く感謝しながら、そしてできることなら美子の最期をしっかり看取ってから死にたいといつも願っている。

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新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。

 当方、おかげ様で家族一同元気に年を越すことができました。美子は身動き一つできず寝たきりですが、月一の医師の往診で褒められるほど栄養状態もよく元気です。私の方も彼女の介護をすることで逆に力をもらい、日々『平和菌の歌』の豆本作り(現在累計2,285冊、スペイン語バージョン384冊)などに精進しています。また今月末には、長らく絶版になっていた旧著『ドン・キホーテの哲学』が、日本スペイン外交関係樹立百五十周年・サラマンカ大学創立八百周年記念出版の第1弾として、執行草舟さんの監修・増補改訂で『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』と名を改め、法政大学出版局から上梓されます。
 他方、世界の現状を見て暗澹たる思い無きにしも非ずですが、十六世紀日本で苦闘を強いられたバテレンたちの「ケセラン・パサラン (力を尽くせばなんとかなる)」の心意気に合わせて頑張る所存です。
 今年も皆様のお力添えで、本「モノディアロゴス」もさらに仲間を増やし、それと同時にますます緊密な友情で結ばれますよう心から願っております。そして皆さま方におかれましても、ご健勝に恵まれ更なるご活躍を祈り上げます!

平成二〇年元旦 呑空庵庵主・富士貞房

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去来する様々なことども


 以下に書くことは、(おそらく)、現在準備中の『モノディアロゴス 第14巻 真の対話を求めて』の「あとがき」になるであろう雑念の塊である。我が愛しのブログはすべて「ごった煮」の「どんぶり勘定」なので「ゆるしてたもれ」。とにかく歳のせいか(いやいや生まれつきでしょう)いよいよせっかちになってきた。刹那的に、かっこよく言えば、ホラチウスの「この日をつかめ(Calpe diem!)」の精神で生きております、はい。
 これまで年に2巻は作ってきた「モノディアロゴス」がここに来て少しペースを落とし始めた。ネットでの発言自体、このところ週一、下手をすると何にも書かない週があるから当然の話なのだが。そして量より質とも言い切れないことがちょっと情けない。でも第14巻の編集そのものは六月には終わっていたと思う(記憶がはっきりしないが)。そして解説を立野さんにお願いした。しかし彼の海外旅行や私の側での都合などが重なって作業が少し停滞していたところ、それまで考えてもいなかった新たな状況が生まれたので、急遽、立野さんに解説そのものを新しい状況に合わせて書いていただけないか、と持ち掛け、快諾(とは言えないか、強引なお願いだから)を得たところである。
 新たな状況とは、「モノディアロゴス」などを含めたスペイン語訳作品集の出版を進めていた過程で、以前、『原発禍を生きる』の出版元の論創社に第二弾出版の話を持ち掛けてそのままになっていたことを思い出した。つまりこの際、それ以後に書かれたものから選りすぐって(?)一冊にまとめること、その編集・解説のすべてを立野さんに丸投げすることにしたのである。
 かくして第14巻の「あとがき」は私自身が書くことになった。しかし例のスぺイン語訳出版のかなりの難渋、そして生きている以上次々と出来する雑事、その一つは柄にもなく(?)賃貸にしていた桜上水のワンルーム・マンションの売却にまつわる交渉(連日のようにかかってくる慇懃無礼な不動産屋からの電話※※にウンザリしてとうとう売る気になった)、などなどで、「あとがき」執筆はどんどん先き延ばしにされてきた。しかしカタルーニャ問題の最中でありながら、マドリードのガージョさんの口利きで作品集出版の可能性が少し出てきたり、売却については談話室でおなじみの上出さんのお力添えで、これまた動き始めたので、ようやく「あとがき」を書く気になってきたのだ。
 ところでついでだから言ってしまうが、その間面白いこともいくつかあった。一つだけご披露しよう。それはまたもやの映画出演である。と言っても前回の『日本でいちばん長い日』同様、我が幼少期の写真による出演である。今回もその映画の助監督さんがたまたま我がホームページの家族アルバムを見たのがきっかけである。その映画とは近浦啓監督、中国の国際派俳優ルー・ユーライ、 藤竜也主演の中国人不法滞在者の苦悩を描く日中合作映画『CHENG LIANG (チェン・リャン)』である。つまり私は藤竜也の幼児期を演じる(?)のだろうか。写真登場の場面は既にこの八月に山形で撮影済みで、封切りは来秋らしいのでお楽しみに。
 もう一つついでに。あんなこんなで結構あわただしい日を送っているが、たまに見るテレビではメジャーリーグの今期最後の試合をやっている。しかしこちらが歳を取ったからであろうか(いやいやそれは関係ない)、選手だけじゃなく監督までも試合中汚い唾、中には噛みタバコのドス茶色い唾、を所かまわず吐き散らすのを見ると、本当にやつら汚ねーって思う。時々映るダッグアウトの床の汚さったらない! ありゃ文化の違いなんてもんじゃなくて人間性の違いだっせ。前田よ、ダルビッシュよ、マー君よ、やつらの真似なんかするなよ。そんな場面を見ると観戦する気にもなれなくて、すぐスウィッチを切ってしまう。あゝほんとババッチイこと!
 最後はとても真面目な、しかも悲しいお話。三日ほど前、『平和菌の歌』の作曲家というより我が舎弟のピアニスト菅さんから電話がかかってきて、一度川口さん菅さんと一緒に南相馬市中央図書館で行われたチャリティー・コンサートで端麗なフルートの演奏を聞かせてくださった浦崎玲子さんが闘病の末、先日亡くなられたという。東京純心で事務員をなさっていたころからいつもにこやかで、すでに亡くなられた長尾覚さんともども、あまりいい思い出のない純心でオアシスのような存在だった。亡くなられる直前まで、また菅さんと南相馬で演奏したいとおっしゃっていたそうだ。かわいらしいお子さん(たち)の母親でもあった彼女の突然の死で深く悲しんでいる菅さんに昨夜こんなメールを送った。

「最近ばっぱさんのことを思い出すことが多いのですが、その際思うのは、死者のために祈るとは、はるか遠く天国にいる霊魂のために祈ることではなく、いま地上に生きている私たちのすぐ傍らに彼または彼女が今もなお生きていることを信じることだと思います。」


※「ゆるしてたもれ」この言葉は武蔵を三年間待っていたお通が、武蔵の後を追おうと旅の準備をしているときに花田橋の手摺りに武蔵が書き記して去っていった時のもの。関係ないか。
※※ 留守電に残っている電話番号をネットの検索にかけるとそれが迷惑電話の不動産屋であることがたちどころに分かる。便利(?)な世の中じゃ。

★ 急いでの追記 書き終わってから、一つとても嬉しいことをお知らせするのを忘れていた。それは長らく絶版になっていた拙著『ドン・キホーテの哲学 ウナムーノの思想と生涯』(講談社現代新書)が、この度、執行草舟さんの監修で、他に三つほどの論考を加えて法政大学出版局から復刊されることになったことである。その三つの論考のうちの一つは、むかしサラマンカ大学のウナムーノ研究誌に発表したものを学芸員の安倍三﨑さんが翻訳して掲載される。執行さんの「復刊後記」を安倍さんが密かに読ませてくださったが、著者に対する最大級の賛辞が書かれており、そんな褒め言葉などいただいたことが無かったので、眼が思わず踊ってしまったほどである。その時が来たら皆様にもご紹介したい。この復刊は、来年創立八百年を迎えるサラマンカ大学と在日スペイン大使館、それに執行さんの戸嶋靖昌記念館の共同イベントの一環としてであり、長らくスペイン思想を学んできた私にとって思ってもみなかった幸運である。草舟さんをはじめ関係諸氏に深く感謝したい。

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くたばれ関白宣言!

前にも書いたが、美子の無聊をなぐさめるため(?)、夫婦の居間にはほとんどいつもCDやテープからの音楽が流れている。このところばっぱさんが残してくれた「昭和の流行歌」という20巻物を代わるがわる聞いているが、その曲が流れ出すととたんに気分が悪くなる、というより腹立たしくなる。だったら飛ばせばいいのだが、カセッターまで行くのが面倒で、腹を立てながら美子の食事の介助などしている。
 その曲とは1979年発表のさだ・まさしの「関白宣言」である。なぜ腹が立つかと言えば、小心者のくせに口だけはやたら偉そうな歌詞が気に食わないのだ。さだは一種コミカルな線を狙ったらしいが、「北の国から」とかグレープ名でリリースした「無縁坂」、「精霊流し」などなかなかいい曲があるのに、なんでまたこんな駄作を、と気になってネットで調べると、なんと「発表されるや否やその歌詞をめぐって女性団体などから (女性差別)、(男尊女卑) と反発を受けるなどの騒動となった」との解説があり、とたんにばからしくなった。つまりそれら婦人団体がさだ・まさしの何十倍もアホに見えたからだ。「関白宣言」批判では同じに見えても、その根拠は真逆だからだ。
 急に思い出したが、昨年だったか例の「平和菌の歌」の1番にあった「不美人」という言葉に東京のある婦人グループが女性差別だととんでもないイチャモンをつけてきたことがあった。あまりに馬鹿らしいので、以後拙者の周囲に顔も見せるな、と追っ払ったが、ウーマン・リブとかフェミニストを自称する奴らのかなりの部分は、ただ観念的な女性尊重を言挙げするだけで、本当の意味での女性の尊厳の主張からほど遠い連中であることが多い。
 つまり歌詞にある「柳眉逆立つ不美人」という言葉の意味さえ理解できない頭の固い連中だったということ。だってそうでしょう、どんな美人でも柳眉逆立てれば不美人になりますぞ、という含意が読み取れなかったわけだから。ちなみにわが恋女房のことを言うと、彼女はそうした頭でっかちで観念的な女性運動を毛嫌いしていた。こうした頭でっかちで何にでもクレームをつけたがる女性が最近とみに増えてきたように思える。しかしそれもこれも男が不甲斐ない、情けない存在になっているということの逆証明だが。
 ついでに言うと「おいどんは」などと亭主関白ぶっている、いわゆる九州男児が昔から嫌いだったが(さだ・まさしは長崎出身だからオイドンとは言わないだろうが)、実はそんな男たちを実際に牛耳っているのが九州の女性軍だとはとっくにお見通しである。
 要するに日本という国が一見平和、実は内面グダグダになってしまったということなんだろう。またまた腹が立ってきたのでこの辺でやめておく。だれかモンクアッカ!

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連想から妄想へ

次々としなければならない雑用のため、連日あっという間に時間が過ぎてゆく。むかし勤め人だった時よりもむしろ忙しい。だから本棚の隅っこに隠れていた見たこともない本に出合ったりすると、嬉しいけれど困ったな、と思う。なぜなら、今や宿痾ともなっている古本蘇生術に取り掛からなきゃならないからだ。
 昨日も運悪くそんな本に出合ってしまった。本当に古い本、私の生まれる一年前、つまり昭和13(1938)年発行の改造文庫、モンテスキューの『ペルシア人の手紙』(斎田禮門訳)である。最近は購入日時を本の中扉あたりに小さく記すことにしているが、今日のように誰が買ったのか、だれが読んだのか全く分からない本がたびたび見つかる。
 私が買った覚えはない、美子の本でもなさそうだ。読んだ形跡もない。しかし改造文庫ということなら以前ばっぱさんのものを見つけたことがあった。書名は忘れたが、確かドイツの教育哲学者のものだったような気がする。福島女子師範時代に買ったものらしい。すると確率的にはこれもばっぱさんのものか。
 さっそく厚紙で表紙を補強し、百円ショップで買った猫柄の手ぬぐい地で装丁したが、先日来イスラム文化のことを考えていた時だったので、偶然ではあるがグッドタイミングの出会いであった。つまり十八世紀初頭(発表されたのは1721年)、小説仕立てのフィクションとはいえ、イスラム文化とキリスト教ヨーロッパの出会いを描いた作品だからだ。正確に言えば二人のペルシア人がパリで見聞したことを故郷の友人に知らせるという形で、実は作者の狙いは当時のヨーロッパ社会を風刺するという内容らしい(実はこれから読むところ)。
 フィクションとはいえ、ここで二つの文化が比較されているわけだが、もしかするとサイードのオリエンタリズム批判では、ヨーロッパ人が十字軍時代のように敵対者としてではないにしても、今度は西洋が東洋を見る視線の中に含まれる蔑視、つまり “表象(イメージ)による暴力” の端緒を作ったと批判されているのかも知れない(サイードのその本も読まないまま本棚に鎮座している)。
 ところでこのモンテスキューの作品のスペイン語訳が貞房文庫にもあることが分かって、今度はそれが気になってやおら捜索に乗り出した。しかし系統的な整理をしていないし、寄る年波で踏み台を使って高いところに上るのは怖いし、近くのものでも懐中電灯で照らさないと背文字が読めない。要するに今回探すのは無理、時間がかかっても少しずつ整理した暁での発見に希望を託すしかないか、と半ばあきらめたとき、これも偶然、古いが風格のある古本が目に入った。18世紀スペインの作家ホセ・カダルソの『モロッコ人への手紙』の原書である。これはモンテスキューの訳書よりさらに古い、何と1885年にバルセローナで出版されたスペイン古典草書の一冊である。これは清泉女子大時代に研究費で手に入れたものだが、マドリードのマジョール通り61番地のマヌエル・タラモナという弁護士の蔵書印が押してある。
 この本はモンテスキューの『ペルシア人の手紙』から数えて64年後の1785年に書かれた、やはりこれも書簡体小説で、前者がペルシア人ならこれはモロッコ人による当時のスペインの風俗習慣の実況報告の形を取っている。もちろんカダルソは執筆時モンテスキューの作品のことが頭にあったはずだ。
 こうして期せずして十八世紀ヨーロッパとイスラム世界の出会いと相互理解の物語が出てきて、これらをサイードのオリエンタリズム論に照らし合わせながら読むという面白い課題…課題?、聞いてないよ、だいいちそんな時間ないし…
 実はいま目の前にそれぞれ厚さ5センチ近い(袋とじ印刷だからこうなる)私家本が、しかもそれぞれご丁寧に布で表装されて積み重なっている。いずれ市販本にしたいものばかり。そのうちの一冊はスペイン語版作品集で、これはほぼ確実に出版されそうだが、問題は残りの三つの訳書、すなわち古い順から言えばダニエル・ベリガンの『危機を生きる(原題は They call us dead men)』、アメリコ・カストロの『葛藤の時代』、そしてオルテガの『大衆の反逆』である。
 もっともあとの3冊についてはこの構造的出版不況の時代、無理に出すつもりはないが、それでも最終的な推敲を終えてないまま死後に残すのは避けたいものと、このところ頭を痛めている。なのにこんなとき、またもやこの男(私のことでーす)新たにアマゾンに本など注文している。自分でも意味の分からない(?)ふるまいである。
 そのうちの1冊は先日来の苦闘の後を引いてか、大江の健ちゃんの『暴力に逆らって書く 往復書簡』で、中の一人がサイードだし、それに例の破壊された価格の1円だからいいようなものの、もう1冊というより1組はな、なんと『新・子連れ狼』コミック全11巻なのだ。
 前述したように自分でも説明はむつかしいのだが、このところ時おり部屋に流している昭和歌謡曲の中の、橋幸夫の「子連れ狼」の歌(小池一雄作詞・吉田正作曲)を聴いているうち、無性に読みたくなったのは確かだ。萬屋錦之助や若山富三郎の映画にしろテレビにしろこれまで一切見たこともないのに、ここにきてトチ狂ってる。
 歌そのものもいいが、間に挟まれる若草児童合唱団の擬音の合いの手が実にいい。

しとしとぴっちゃ、しとぴっちゃ、

も可愛いが、それよりいいのは、霜の朝の

ぱきぱきぴきんこ、ぱきぴんこ 

が素晴らしい。

 繰り返し聞いているうち、例のごとく妄想が広がってゆく。つまり私は拝(おがみ)一刀で、時おり外に出て「涙かくして 人を斬る」が、家には三歳の大五郎ならぬ病身の美子がチャンの帰りを待っている。

帰りゃいいが帰りゃんときゃあ
この子も雨ン中 骨になる
この子も雨ン中 骨になる

だからこの老いさらばえた拝一刀、外出しても死に物狂いで帰ってくる。
(まさかウソですよ。)

※31日の追記
 今日とうとう子連れ狼がやってきた。さてこれをどのように合本にしようか。迷ったが結局1-3,4-7,8-11に分けた。つまり都合3冊のぶっとい合本を作ったのだ。それぞれを厚紙で補強し、一見革に見える古いジャンパーの端切れを背中に張り、もともとの11枚の表紙絵から選んだ3枚をそれぞれの表紙に張り付けて、ちょっと見栄えのいい美本に仕上げた。
 「新」とついているのはなぜかなと思っていたら、要は拝一刀が柳生烈堂との果し合いで死んだ後、東郷重位(しげかた)という侍が大五郎の父代わりになって新たな旅立ちをするところから始まっているかららしい。昔からの愛読者ならとうぜん知っていることでも、拙者にはすべてが未知の世界である。まっ、手元に置いて、昼寝の時の誘眠剤(こんな言葉があったかな?)として読むことにしよう。

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いささか憂鬱な苦言

 
 もちろん歳のせいでもあろう、最近いろんなことに対して今まで以上に(?)短気になってきた、つまり堪(こら)え性がなくなってきたのである。例えば次のようなことに対して。
 このところタブッキの作品、特に最初に読んだ「レクイエム」に感心して、いくつか彼の作品を読み進め、さらには雑誌「ユリイカ」の特集号を2冊取り寄せ、いつものように厚紙で補強して布表紙の合本にするなどかなりの入れ込みようだった。しかし同じ頃に購入した『時は老いをいそぐ』(和田忠彦訳、河出書房新社、2012年)が同一の作者によるものとは思えないほどつまらない作品群(まだ全部は読まないが)なのだ。「レクイエム」でえらく感心した、あの複数の登場人物の対話の場面もこれらの作品に来ると、ものすごく分かりにくいものになって、今しゃべっているのは誰なのか皆目見当がつかなくなる箇所が頻出する。健ちゃんの『晩年様式集』の方がまだ分かりやすい(失礼!)と言えるほどに。
 もちろん(とここで謙遜の意味で同じ言葉を再度使わせてもらうが)これは一部、私自身の加齢現象のせいではあろう。しかしたぶんかなりの確率で、だれでも同じ感想を持つのではないか。これには二つのことが考えられる。すなわち訳者の力量不足か、あるいは作者自身の小説作法の退化か。おそらく二つともが関係していると思うが、しかし「レクイエム」が書かれたのが1996年、「時は…」は2009年、つまりタブッキの53歳と66歳の時の作品だから、それほど急速に劣化(失礼!)するとは思われないので、かなりの責めを訳者が負わなければなるまい。手元に原文がないし、あっても読めないのでその点の判断は保留するが。
 そんなこんなでどうも気分がよろしくなく、何か別のものを読んでスッキリしたいところ、たまたま目に入ったのが先日取り寄せたばかりのボルヘス『ブロディーの報告書』。これは新書版になったものだが、以前のB6版のもの(出版社も訳者も同じ)は静岡時代に学生に貸したまま戻って来ていないのに気づき、急遽取り寄せたものだ。しかしこれから書くことがその大先輩の訳者批判になるかも知れない(いや確実に)あえて名前を伏して話を進める。
 短編集の最初にあった「じゃま者」の訳文についてである。「語り伝えられるところによれば、ネルソン兄弟のうち弟の方のエドゥアルドが、1890年代にモロン(ブエノスアイレス市郊外の郡)で病死した兄クリスチャンの通夜の席で、すすんでこの話をしたということだが、これはどうも眉唾くさい。」という書き出しから、読者ははや濃密なボルヘス的世界に引き込まれてしまうのはいつもの通りである。ただ初めからいちゃもんつけるようで心苦しいが、そしてそれは多分にタブッキから引きずっていた気分が作用したのかも知れないが、その弟の話というのができれば秘しておきたい内容、つまり兄弟二人で一人の女を殺した話なので、「すすんで」は「問わず語りに」というか、つまり「隠しおおせずに」の意味が出る訳語がなかったのだろうか。また「眉唾くさい」は「眉唾物だ」くらいが適語じゃないだろうか。
 実はこれから書くことの裏を取りたくて貞房文庫にあるはずの原書を捜したのだが見つからず、万が一あとから原文と比較して自論を訂正しなければならないときは、隠さず再度報告するが、今のところ原文を横に置かなくても大きく間違えることはあるまい、と更に先に進む。
 いやいやこれから問題にしようとすることからすれば先の二つの訳語ことなどほんの些細なことで無視しても構わない。この短編の内容は、要するに二人の仲のいい兄弟がフリアナという一人の女を巡って対立しながらも、最後は兄が女を殺し、弟の方もその兄を許して兄弟の絆を修復するという物語で、ボルヘス的世界特有の濃密な因習と血縁の世界、もっとはっきり言えば旧約聖書的な世界が描かれている。
 いま旧約聖書的世界といったが、作者は「教区司祭の話では、ゴチック文字で印刷されたボロボロの黒表紙のバイブル…家じゅう探しても本はこれ一冊だけだった」と書いてさり気なく伏線を張っていた。
 さて問題の箇所は、兄弟のいさかいの原因たるフリアナを娼家に売り飛ばしたはいいが、その後も客として二人は別々に隠れてその娼家に通うので、そんなことならいっそ買い戻そうと、再び女を買い戻す。「ふたたび前の状態に戻った。あの不埒な解決策は失敗に終わったのだ。兄弟もいったんは互いに欺き合うという誘惑に屈した。カインがあたりに姿を見せたが、しかしニルセン兄弟の愛情は深かった」。
 それまで一回も出てこないカインの名がそこに突然出てくるが、その場かぎりだ。さーて皆さんはどう思われますか? いやそれ以前に訳者はどう思ったのかが気になる。
 問題は不適切訳とか単純な誤訳とは違う。つまりこの作品の根幹に関わる問題なのだ。
先ほど旧約聖書的世界といったことを思い出してほしい。つまりこの話は「カインとアベル」の物語の現代版あるいはゆがんだ形のパロディーなのだ。パロディーと言ったわけは、旧約聖書では弟の捧げ物だけが神に嘉せられたことをねたんだ兄のカインが弟アベルを殺したのだが、この現代の兄弟は自分たちの結束を固めるために哀れな女を生贄にしたからだ。
 さて、とここで再度言うが、問題は果たしてどれだけの読者がそのことに気づくか、もっときついことを言えば、果たして訳者はどこまでこの話を理解していたか、ということだ。私など足元にも及ばない実績のある偉い訳者だから、もちろん例の伏線のことは承知していただろう。しかし文化が違う言語への翻訳の場合、そしてこの場合はゆがんだ形であれ聖書の教えが血肉と化している文化の産物を翻訳する場合、ここらあたりのことをしっかり押さえてほしい
 文学作品に訳注はそぐわないとしても、せめて解説あたりでさらっとでも指摘してもらいたかった。また作者はいわばサブリミナル効果を狙って「カイン」という言葉を入れたのかも知れないが、それだったら他にも数か所「カイン」という言葉を挿入してほしかったし、訳者にもそのあたりのことを解説してもらいたかった。
 少し長くなったが、以上のことと関連してもう一か所だけ指摘しておきたい。作品集の最後から二番目にある「マルコ福音書」のこんな場面はどうだろう。これも陰惨な事件が内容だが、その要約は端折らせてもらって、問題の箇所で、主人公の父親についてこう書かれている。
「彼の父親もいわゆる自由思想家で、彼にハーバード・スペンサーの思想を吹き込んだ。しかし母親は、モンテビデオに旅立とうとする彼をつかまえて、毎晩、父の祈りを唱え、十字を切るようにすすめるような、そんな女だった」。
 さて「父の祈り」とは何でしょう? 彼の父親、まさかね。では誰? カトリック教徒ならすぐ分かることだが、これは「天にましますわれらの父よ」で始まる「主祷文」、つまり聖母マリアに祈る「天使祝詞」とともに、最も大事な祈祷文のことである。でも普通の読者はそれが分かる? そういう祈りを唱えなくなってから何十年にもなるこの私にも自明のことだが、果たしてどれだけの日本人がそれを理解できるだろう。ここはせめて「天父の祈り」くらいの訳語を当ててほしかった。

 以上、タブッキ体験から続くブルーな気分の中でのつぶやきでした。

※ 6月3日の追記 夕食前、本の整理をしていたらボルヘスの『ブロディーの報告書』の原書が出て来た。問題の箇所を見てみると、まず「邪魔者」の冒頭だが、「すすんで」などという言葉はどこにも見当たらない。次にカインだが、確かに訳されているように唐突にカインが登場するが、これは読者がとうぜん旧約聖書と結びつけるだろう、と作者が考えたはず。でも聖書になじみのない読者のことを考慮して、訳者はどこかでそれについて触れるべきだろう。
 最後に「父の祈り」だが、原文では rezara el Padrenuestro と大文字で書かれていて、当然「主祷文」を指している。要するに先日の批判はすべて当たっていたということだ。

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そういうものだ

★文末に大事な追加があります。

 疲れと寒さのダブルパンチか、ここ四、五日ほど腰痛に悩まされている。腰痛といってもギックリ腰のような痛さではなく、上半身をある角度に曲げたときにピリッとくる痛さ。でもこの微妙な痛さが何とも煩わしい。いっそ激痛が走ったほうが……いや、やっぱりそれは困る。
 こういう時だからと、いわば気散じにヴォネガットやブラッドベリのものを読んでいる。ブラッドベリのものは題名に引かれて『社交ダンスが終った夜に』(伊藤典夫訳、新潮文庫、2008年)という短編集だが、最初のいくつかを読んでみたけれど、いまひとつピンとこない。持ってるだけでまだ読んでいない『タンポポのお酒』(北山克彦訳)、晶文社、1991年、55刷)の方が面白そうだ。
 でもヴォネガットの方は期待にたがわず面白い。『スローターハウス5』(伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫、2007年、22刷)は自身の戦争体験を「食肉処理場」という物騒な題名のもとに、絶えず時間軸をずらしたり飛ばしたりして描いているものだから、慣れるまでちょっと戸惑ったが、次第にはまってしまう面白さがある。そして場面と場面を繋ぐ呪文のような言葉がたいそう気に入った。「そういうものだ」である。原語では “So it goes.” らしいが、ネットで調べるとこれが何回使われているか数え上げている物好きがいた。103回だそうだ。なるほど、そういうものか。
 なぜこの言葉が気に入ったかというと、わが「平和菌の歌」のリフレイン「ケセランパサラン」と見事に重なっているからだ。Qué serán, pasarán の後に続く como pasarán は私がくっつけたものだが、全体の意味は、「どうなるだろう? まっ、なるようになるさ」となり、「そういうものだ」と同じメッセージを伝えている。つまりそれはけっして投げやりでペシミスティックな意味ではなく、こんな理不尽なことがまかり通っている世の中だが、でも慌てまい、へこたれまい、だって地道に努力していれば、いつか正道に戻るはず、だじろがず、絶望せず、今できることを「しっかりまじめに」やっていこう、というしたたかな気骨を示しているからだ。
 ちなみに「しっかりまじめに」という言葉は、2011年7月30日、奥入瀬(おいらせ)でのばっぱさん最後の誕生祝いの席での短いスピーチを、従弟の御史さんが記録したものの中にあった文言、いわば遺言である。歌詞「カルペ・ディエム」の中にも再録しておいた。

★ さすが現役の英米文学教授、立野さんが素晴らしい情報を送ってくれました。つまりヴォネガットの主人公の名はビリーですが、同じビリーでもビリー・ジョエルという実在の歌手に So it goes という曲があり、またもっと古くは人気歌手ペリー・コモの、やはり同じタイトルの歌があるそうです。そしてついでに Let it go が思い浮かび、次にごく自然にポール・マッカートニーの Let it be が思い出された、と言ってきました。
 もちろんすべては別々のものですが、しかし立野さんの言うように、すべてに共通して、「あきらめによる現状肯定や現実追随ではなく、あきらめないエンデュアランス、したたかなオプティミズム」で響き合っています。
 新しい現実が見えてくるのは、このようにそれまでばらばらだったものが、ちょうど一気に磁気が作用して一点を、思いがけない現実を、そして世界を、指し示すからだと思います。十六世紀のバテレンの謎めいた言葉が五世紀後のこの益体もない時代に突然の光と、そして希望を与えてくれたわけです。さあ、皆さんもことあるごとにケセランパサランと唱えて勇気を出しましょう。

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ビッグ・ブラザーの治世

一昨日、私学振興・共済事業団から平成28年度分扶養親族等申告書にマイナンバーを記載せよとの通知があり、びっくりした。つまりもともとマイナンバー制に反対だったから送られてきた申請書類など一切無視して来たのに、いったいいつからこのように義務化されたのか青天の霹靂だったからだ。
 あわてて上出弁護士に問い合わせたところ、すでに住民票を基にマイナンバーそのものは確定していて、様々なところで記載が義務づけられているそうだ。たとえば交通事故の示談が成立して保険会社に報酬を請求する時にもマイナンバーを知らせないと手続きが進まないという事態になっているという。ご自身もマイナンバー制に反対の上出さんは、時代はまさにジョージ・オーエルの『1984年』の世界になってきたと嘆いておられた。ただしマイナンバーカードを申請するのでなければ、市役所で個人番号記載付きの住民票を申請すれば自分や家族の個人番号は分かる、と教えてくれた。
 なるほど、政治家や役人どもは来年一月の本格始動めざしてシュクシュクと準備してきたらしい。人間を記号化するこうした制度はマイナバーだけでなく社会のあらゆるところに現実化している。でもそれは何のため? 簡単に言えば国民を為政者の都合に合わせて統治しやすくするためであることは間違いない。彼らの究極の理想は、戦時中の国家総動員令とまではいかなくとも、少なくともその手前くらいまで進めたいのであろう。詳しく報道を見てなかったが、熊本地震のとき、災害時の緊急対策条例のことが話題になったようだが、時の為政者が超法規的な統制に乗り出すことに我々はもっと敏感にならなければならない。
 あらゆるデータを一元化することは、為政者にとっても好都合であろうが、しかし犯罪者にとっても格好の餌食になるということである。詳しくは知らないが、はやマイナンバー・データ流失事件が報じられているようだ。先日も、マイナンバーではないが、何万人にも及ぶ高校生の成績データが、無職の17歳少年によって盗み出されたらしい。データ化し記号化することによって事務的には効率が上がるが、しかしそこにはこうした危険が付きものだし、生身の人間の姿が次第に希薄になっていく危険が常に、必然的に付着する。
 以前書いたことだが、家のばっぱさんの死をめぐっての市役所や銀行などの対応で愕然としたのは、佐々木千代という生身の存在が数字や文字に限りなく矮小化されていることだった。こんな小さなコミュニティでもこうした非人間化の動きは加速している。そのうちいつか人間も、出生時にマイナンバー入りの微小なチップを体内に埋め込まれる時代が来るかもしれない。そんな馬鹿な、と言われるかも知れないが、効率化という進歩幻想に骨がらみになった人間の行きつく先は案外そのあたりかも知れない。
 オーウェルの描く仮想国オセアニアでは、国民の記号化が進み、国中いたるところにテレスクリーンが設置され、『ビッグ・ブラザーがあなたを見守っている』というキャッチフレーズと共に、カイゼル髭の生えた壮年男性がテレスクリーンに映し出されている。もちろん「見守っている」は「監視している」ということである。
 人間の記号化と並行して、いまやある程度までの判断能力を備えたロボットの開発が急ピッチで進んでいる。人間の労働力不足を解消するためという大義名分が用意されてはいるが、しかしこれは原発の場合と全く同じ経路をたどって、たやすく戦争の具に転用される。ロボットとコンピュータによる世界戦争勃発の日が近い将来やってこない、とだれが保証できる?
 すでに事態は正常な分限を超えている。ここでブレーキを掛けなければ、間違いなく人類は絶滅し、そして世界は破滅する。おのおのがた、油断めさるな、日本の、世界の最後は近づいてるぞよ!!!
 なんだか暗い気持ちになってきたので、この辺でやめよう。ところで例のマイナンバーのことだが、年金受領のために背に腹は代えられないので、昨日市役所で個人番号記載付き住民票を大枚200円払って無事受領してきた。窓口のお姉ちゃんには何の罪もないので(?)、「平和菌の歌」5冊を進呈してきた。せめても平和菌をばら撒くことしかおいらの抵抗手段がないからだ。みーじめ鳥飛んでいく南の空に、ミジメー、ミジメー!(古ーい古いギャグです)

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アベノシアタ―

寝ようと思った矢先、今回のオバマ広島訪問についての、二つの全く対蹠的な論評が目に入り、どうしても紹介したくなった。全文引用という異例の形をとるが、緊急のこととして寛恕願いたい。
 ほとんどの日本人が、というより報道機関が、今回のオバマ大統領広島訪問にただただ感動し、その名演説にころりと参ったようだ。遠来の客を温かく迎えるという日本人の美質発揮というところだが、またその美質は日本人の根本的な欠点にもなりうる。ともかく弱いんだなこういうムードに。自ら手掛けた今回の「歴史的偉業」に今頃安倍首相は大満足していることだろう。このアベノシアターを海外の著名日本人も絶賛している。今晩のネット版朝日新聞にはローマ帝国研究で名高い塩野七生がこんなことまで言っている。


★オバマ氏に謝罪求めぬ日本、塩野七生さんは「大変良い」

聞き手 編集委員・刀祢館正明
2016年5月25日06時49分

 あの人は今、どう受け止めているだろう。オバマ米大統領の広島訪問が近づくなか、作家の塩野七生さんの考えを聞きたくなった。ローマの自宅に電話したずねると、「日本が謝罪を求めないのは大変に良い」という答えが返ってきた。塩野さんが思う、米大統領の広島訪問の迎え方、とは。

――オバマ大統領が被爆地・広島を訪問することを知ったとき、まず、どう感じましたか。
 「知ったのは、ローマの自宅でテレビを見ていた時です。画面の下を流れるテロップでのニュースだったけれど、それを目にしたとたんに、久方ぶりに日本外交にとってのうれしいニュースだと思いました」
 「特に、日本側が『謝罪を求めない』といっているのが、大変に良い」

――どうしてですか。
 「謝罪を求めず、無言で静かに迎える方が、謝罪を声高に求めるよりも、断じて品位の高さを強く印象づけることになるのです」
 「『米国大統領の広島訪問』だけなら、野球でいえばヒットにすぎません。そこで『謝罪を求めない』とした一事にこそ、ヒットを我が日本の得点に結びつける鍵があります。しかも、それは日本政府、マスコミ、日本人全体、そして誰よりも、広島の市民全員にかかっているんですよ」
 「『求めない』と決めたのは安倍晋三首相でしょうが、リーダーの必要条件には、部下の進言も良しと思えばいれるという能力がある。誰かが進言したのだと思います。その誰かに、次に帰国した時に会ってみたいとさえ思う。だって、『逆転の発想』などという悪賢い人にしかできない考え方をする人間が日本にもいた、というだけでもうれしいではないですか」

――悪賢い、とは。
 「歴史を一望すれば、善意のみで突っ走った人よりも、悪賢く立ちまわった人物のほうが、結局は人間世界にとって良い結果をもたらしたという例は枚挙にいとまがありません」

※ 残り:2732文字/全文:3498文字とあるので、この先何を言っているのか分からないが、まあこれだけでも十分だ。
 このばあさん、権謀術数の渦巻くローマ帝国研究の挙句の果て、完全にマキャベッリ流の政治力学に骨がらみになったらしい。もう一人の、とろんとした目が魅力的な(と自ら思っているらしい)右翼の論客・櫻井よしことどっこいどっこいだ。
 このままでは腹が立って寝られないなと、さらにネット渉猟して、やっとまともな論評を見つけた。それが次の「毎日新聞」の記事だ。


元広島市長の平岡敬氏 (88) に聞く

 オバマ大統領は再び「核兵器のない世界」に言及したが、手放しで喜んではいけない。米国が「原爆投下は正しかった」という姿勢を崩していないからだ。原爆投下を正当化する限り、「核兵器をまた使ってもいい」となりかねない。私たちは広島の原爆慰霊碑の前で「過ちは繰り返しませぬ」と誓ってきた。原爆を使った過ちを認めないのなら、何をしに広島に来たのかと言いたい。
 日米両政府が言う「未来志向」は、過去に目をつぶるという意味に感じる。これを認めてしまうと、広島が米国を許したことになってしまう。広島は日本政府の方針とは違い、「原爆投下の責任を問う」という立場を堅持してきた。今、世界の潮流は「核兵器は非人道的で残虐な大量破壊兵器」という認識だ。それはヒロシマ・ナガサキの経験から来ている。覆すようなことはしてはいけない。
 「謝罪を求めない」というのも、無残に殺された死者に失礼だ。本当に悔しくつらい思いで死んでいった者を冒とくする言葉を使うべきではない。広島市長と広島県知事も謝罪不要と表明したのは、残念でならない。米国に「二度と使わない」と誓わせ、核兵器廃絶が実現して初めて、死者は安らかに眠れる。
 オバマ大統領は2009年にプラハで演説した後、核関連予算を増額した。核兵器の近代化、つまり新しい兵器の開発に予算をつぎ込んでいる。CTBT(核実験全面禁止条約)の批准もせず、言葉だけに終わった印象がある。だからこそ、今回の発言の後、どのような行動をするか見極めないといけない。
 広島は大統領の花道を飾る「貸座敷」ではない。核兵器廃絶を誓う場所だ。大統領のレガシー(遺産)作りや中国を意識した日米同盟強化を誇示するパフォーマンスの場に利用されたらかなわない。【聞き手・寺岡俊】

※ よくぞ言ってくれました。そういうことです。現広島県知事と広島市長は謝罪を求めないという声明を出したらしいが、それじゃ冥界に眠る原爆犠牲者たちの霊は浮かばれまい。謝罪を求めない、ということを私的な見解として持っているのは自由だ。しかし公的な声明まで出したとなると完全に行き過ぎ。これもアベノシアター演出上の要請に応えたものとしか考えられない。平岡さんの言う「貸座敷」のための塵払い役を自ら買って出たわけだ。やってくれるよ、まったく。でももう寝ようっと。

※ 翌朝の追記  アベノシアター(最初ドラマとしましたがそんな高尚な骨格を持っていないのでシアターと言い換えます、それもお涙頂戴の陳腐な股旅物しか演じられない芝居小屋です)のもう一つの舞台であった伊勢神宮、これも悠久の昔からひたすら平和を祈願してきた神聖な場所ならまだしも、戦時中は国家神道の聖地としてひたすら戦争賛美に加担していたことをを思うと、まさにアベノシアターの舞台にふさわしい。本当は靖国神社もアベノシアターの舞台にしたかったのかも知れないが、そこまでの勇気はなかったので次善の策を講じたのかも。

※ 翌々日の再追記 経済のことはまったく分からないが、今朝の新聞各祇を見ると、G7本会議でもやたら経済危機を強調した安倍の独り舞台だったようだ。要するにアベノミクスの失敗を糊塗するために小芝居を打ったわけだ。まさにアベノシアター、だからタイトルを「二つの論評」から「アベノシアター」に換えます。

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それでもわたしは…

或る新聞が豆本歌詞集にも触れた記事を出してくれるというので、正直いささかの期待を持っていた。第二面に写真入りで、しかも問い合わせ先のメール・アドレスやURLまでつけて大きく報じてくれたのだが、反応は少なくとも私のところにはこれまで一切届いていない。豆本が欲しいと殺到するかもしれぬ(まさか!)ので、その節は応援頼むと伝えた友人などには「大山鳴動ネズミ一匹」の可能性大だからあまり期待していないが、とは言っていたが、ネズミ一匹さえ出てこないことにかなりがっかりしている。
 だいいち(ほら矛先が変わったぞ!)このブログを訪ねてくださる方からも、数人の友人以外、これまで何の問い合わせもなかったのだから、他は推して知るべしなんだが…
 でも「喝采」のちあきなおみではないが、「それでもわたしは 今日も平和の歌 うたってる」。
 現在632個。その製造技術も少し上達して、縦8センチが今や7センチと、どこかの国の弾道ミサイルよろしく小型化も進んだ。
 反応の無さにがっかりはしているが、しかしだからなお一層、この老躯に鞭打って、当初の目標千冊などみみっちいことを言わないで、生涯作り続けようとさえ、いまは思っている。つまり日本中(世界中はちと無理)を平和菌で埋め尽くしたいわけだ。どこかの反原発集会あるいは安保法制撤廃のデモかなんかで、「おや、あなたの胸ポケットにちょっと覗いているの、それ『平和菌の歌』とちゃう?」「あっ君も持ってるの?」なんて具合に、平和菌感染者同志がデモで出会うなんて場面を夢想しながら…
 ついでに言うが、最近のニュースで少しばかり嬉しいのが一つあった。それは今春卒業する防衛大学生の任官拒否が昨年の二倍になったことである。関係者は、これは民間企業が好調で就職受け入れ先が増えたからだろう、なんて誰にもウソと分るとんまな答え方をしている。もちろんこれは例の安保関連法案成立を受けての賢い卒業生の選択の結果である。NHKでさえ(だからこそ?)任官希望の父兄たちからのコメントは報じるが、任官拒否学生の父兄のコメントは一切報じていない。報じられないのであろう。また国費で四年間勉学した義理もあって、本人たちも明言を避けるであろう。ともかく「考える」若者が少しでも増えたことを諒としたい。

※ところで気になさってる方がいらっしゃるかも知れないので(そんな人いないぞーっ、との野次が聞こえてくる)、もし平和菌拡散に協力していただけるなら、豆本歌詞集無料で喜んで差し上げます。ただ希望者が多いかもしれませんので(それ杞憂ってやつ、ともう一つの野次)、豆本自体は無料ですが郵送用の切手を同封していただければありがたい。1冊なら通常料金の82円切手、10冊なら定形外郵便で250円くらいになります。宛先は
〒975- 福島県南相馬市 佐々木孝 です。 よろしく。

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新・大衆の反逆


 Kさん、この度は拙著『スペイン文化入門』のご感想など、出版社気付で送ってくださりありがとうございます。昨日、竹内社長さんから転送してもらいました。これまで未知の読者からこのような懇切丁寧な感想が寄せられる経験などめったになかったので、大変嬉しゅうございました。感想だけでなく気の付かれた誤植などのご指摘も痛み入ります。幸い(?)すべて索引・ミニ事典に関してのものでしたので、さっそく編者の碇さんにも転送しました。めでたく再版になるようなことがあれば、ぜひ訂正させていただきます。ただし Maeztu に関しては、従来からマエストゥと表記されてきたもので誤植ではありません。
 ともあれこれまでKさんの実体験に裏付けられたラテン気質についての貴重なご意見も興味深く読ませていただきました。ありがとうございます。ところでその最後にオルテガに高評価を与えている著作として、小室直樹の『新戦争論― “平和主義者” が戦争を起こす』を挙げられ、この著者が誠に興味ある人物であるとコメントしておられます。「興味ある」ということが奈辺を指しておられるのか分かりませんが、彼に関してちょっとだけ私見を述べさせていただきます。
 実は小室直樹という人物について、いちど調べたことがあります。たぶんご指摘の著書に関して、つまり戦争論をめぐってであったと記憶しています。ただその折り感じたのは、戦争は国際紛争解決の究極的な手段であるから、戦争に代わるものを作り出さない限り戦争はなくならない、といったオルテガの主張の、その前段を誇張することによって、オルテガの思想をかなり恣意的に利用しているといった感想を持ちました。こうした傾向は小室直樹だけでなく、例えば三島由紀夫などにも見られます。詳しくは覚えてはいませんが、戦争をしない軍隊は軍隊ではない、といったかなり過激な解釈を施して、現代思想家のうち信用できるのはオルテガだけだと礼賛してました。
 それとはちょっと違った文脈ではありますが、オルテガの『大衆の反逆』を換骨奪胎(したと自負?)して『大衆への反逆』を書いた西部邁についても言えます。つまり高みから大衆を見下ろすという貴族主義的なところに共鳴し、オルテガ思想の一側面を拡大解釈して自論を展開するといった傾向です。でもスペイン人オルテガの貴族主義は日焼けすればその下から庶民が顔を出す態の貴族、逆に言えばゴヤの「裸のマハ(下町の小娘)」のモデルが実はアルバ公爵夫人だったように、もっぱら精神のあり方を意味していて、自宅の庭にロココ風の装飾を施して悦に入っていた三島流の貴族主義とは違うように思います。
 しかしオルテガ曲解はなにも日本に限った現象でありません。本家本元のスペインでも、かつてファランヘ党(ファシズム政党)の創始者ホセ・アントニオがオルテガの政治思想をたくみに取り入れて、その全体主義的体制を補強したことは有名です。オルテガがこうした趨勢に抗して長らく亡命生活を余儀なくされたにも拘わらず、です。
 もともとオルテガには右翼思想に利用されやすい側面があったと言えなくもないのでしょうが、しかし彼の思想をその出発点から辿ってみる限り、それは悪く言えば曲解、良く言っても部分的な拡大解釈だと言わざるを得ません。私個人のことに絡めていえば、そうした表面的なオルテガ像でいちど残念な経験をしたことがあります。もうかなり昔のことですが、或る大出版社から『大衆の反逆』翻訳の打診があったときも、その会社の編集会議のようなところでオルテガ右翼説(?)が出てきたらしく、結局その話が流れるということがありました。
 実はその後、別の出版社が企画した世界思想全集の一巻にオルテガが入ることになり、彼の他の作品と一緒に『大衆の反逆』の翻訳に改めて着手したこともありましたが、今度はその出版社が倒産してしまい(その後その出版社は【新】を冠して再出発しましたが)これまた頓挫しました。『大衆の反逆』翻訳の紆余曲折に触れたので、更に補足しますと、その後、また別の出版社の新訳文庫から依頼されて翻訳の見直しを始めたのですが、編集者と肌が合わず(?)難航しているときにあの東日本大震災に遭遇、思いもよらぬ原発事故被災者になってしまいました。それ以来その出版社から連絡が途絶えたことをいいことにこちらからも一切の関係を絶って今日に至っております。
 しかし捨てる神あれば拾う神あり、とはよく言ったもので、今度は別の出版の可能性が出てきましたが、それにはスペイン政府機関の助成が前提となっており、昨年、一応申請はしましたがその結果は未だに届いておりません。何冊か既訳があることもあって、たぶん駄目だったのかも知れません。こうなれば残り少ないわが人生、いざとなれば私家本で出そうか、といまは開き直っています。
 余計なことをだらだら書いてしまいましたが、しかし今回Kさん宛てのこの手紙にも実は深く関係していることなので、つい筆がすべったわけです。というのは、今回の『大衆の反逆』には本邦初訳の「イギリス人のためのエピローグ」を加えたのですが、それが平和主義についての論考だからです。つまりまだ解説を書き出してもいないのですが、彼がそこで展開している平和主義批判をどう読み解こうか、少し思い悩んでいるところだったのです。ですから小室直樹の新装版の副題が「“平和主義者” が戦争を起こす」となっているのを見て、またか、と思った次第です。
 大袈裟に言えば、事はオルテガ解釈にとどまらず、残り少ない私自身の時間の中で、なんとかおおよそでもその道筋を考えなければならないテーマ、すなわち核兵器を含むあらゆる核利用の廃絶のための闘いにも深く関係しているからです。
 でも国際政治にも政治論にもまったくの素人なので、どこから手をつけたらいいのか。しかし原発問題に対する私の基本姿勢を反戦論にも貫くしかないのでは、とは思っています。つまり塚原卜伝流に無手勝流に、と言えば格好のつけ過ぎですが、要するに素人は素人なりの真っ向勝負を挑もうと考えています。最近、そうした私の考え方に近い二人の先輩を見つけて意を強くしています。一人は御年百歳ながら未だ矍鑠として戦争撲滅のために奮闘しているむのたけじ翁、もう一人は今年三月までウルグアイ大統領であったホセ・ムヒカさんです。両者に共通しているのは、そのメッセージが実にシンプルなことです。正戦は果たしてありうるか、とか、原発の安全は将来可能か、などの議論には深入りせず、単刀直入、ズバリ本筋に切り込んでいるところです。
 話は急に飛びますが、今朝のネット新聞(日ごろから実に右翼的傾向で有名なサンケイ新聞)に小泉進次郎の農林部会長起用に関するこんな記事が載ってました。
「…高村正彦党副総裁は10月下旬、党本部ですれ違った小泉氏の腕をつかみ、副総裁室に招き入れた。高村氏はかねて、小泉氏が復興政務官在任中に安全保障関連法をめぐり、政府や党を批判したことに強い不快感を抱いていた。
高村氏は「政府と党が共闘している最中に、政府の立場にある者が後ろから味方に向けて鉄砲を撃ってはならない」と指摘。「本当に国民を安全にしたいと考えるなら、世論と同じレベルで動いたのではプロの政治家とはいえない。単なるポピュリストだ」などと切々と諭した。」
 いちど権力の座に座ると、民意に耳を傾けようとする者をポピュリスト呼ばわりするという昨今の体制派の汚いやり方です。この伝でいくと、安保法制成立阻止を目指して今夏、国会周辺のみならず全国的にデモを展開した国民運動など無視すべきであるということになり、事実政権与党はそう判断してひたすら沈静化を狙っています。ポピュリズムとは、もともと19世紀末に農民を中心とする社会改革運動で、政治の民主化や景気対策を要求したアメリカやヨーロッパ、ロシアの民主化運動の総称でしたが、いつのまにか「大衆迎合主義」という一点に収斂して使われるようになりました。
 しかし繰り返しになりますが、真剣に民意を探り、それに誠意を持って応えようとしない政治家とはいったい何者なのでしょう? 質の劣化著しい政治家たちの傲慢さ、識見の無さは目に余るものがありますが、その彼らが、これまで政治に無関心であった(よく言えばそうであり得た)多くの国民の初めてと言っていいような意思表示を無視するだけでなく、それを見下すとは滑稽以外の何ものでもありません。
 半ば公開の私信とはいえ少々話が長くなりましたので、そろそろまとめに入りましょう。要するに私が言いたい、そしてこれからの方針としたいのは、オルテガ『大衆の反逆』の西部流換骨奪胎ではなく、まさにオルテガ思想の入魂作業、と言えばちょっと大袈裟ですが、つまりは彼の大衆論の新たな解釈そして展開です。いや新たなと言うより、もともと彼の大衆論に内在した大衆、すなわち彼が鋭く批判した大衆人(hombre-masa)ではなく、スペイン文学・思想の真の主役であった庶民・一般大衆の復権です。言うなれば「大衆への反逆」ではなく「目覚めた大衆の悪政に対する反逆」です。
 『大衆の反逆』を読む者が先ずぶつかる問題は、ところで私自身は果たしてここで批判の対象になっている大衆なのだろうか、それとも選ばれた少数者なんだろうかという素朴な疑問です。三島由紀夫や小室直樹、そして西部邁などは自らを大衆とはっきり一線を画した選良と自負しているようですが、私自身はそこまで自分を買い被るつもりはありません。著書などその一冊も読んだことの無い今は亡き小田実ですが、彼の言った一つの言葉だけは大賛成です。人間みんなチョボチョボナや、です。
 要するに私が目指したいのは、大衆への反逆ではなく、戦争や原発依存などひたすら亡びの道に進もうとするあらゆる動きに対する目覚めた大衆の粘り強い反逆です。原発など核エネルギー利用や戦争に対して反対を表明すると、それは単なる感情論と言われることがよくあります。単なる感情論? 上等じゃないですか。理性は大きく間違えますが感情は間違っても大きくは間違えません。単なる厭戦? 厭戦のどこが悪いのでしょう、敗戦のあと私たちの先輩はどんな理屈を並べられようと、もう戦争はこりごり、と心の底から思いました。原発事故のあと、私たちはどんな生活の利便より、父祖の残したこの美しい自然を汚すような核の利用はもうまっぴら、と心底思ってます。理屈など犬に(ブタでしたっけ?)喰われちまえと思ってます。
 原発推進を画策する人たちは、どうぞ自分たちだけで住める無人島か人工島でも造って、そこでどんどん稼動させればいい。どこに住めばいい? もちろん今まで口がすっぱくなるほど言ってきたように、推進論者の政治家、電力会社のお偉方は全員家族同伴でその島に移住してけつかれ!おっと下品な言葉を使いました、お住みくだされ!と思ってます。
 おやおや話はどんどんエスカレートしそうなので、この辺でそろそろやめましょう。初めてのお便りなのに、思わず長話になってしまっただけでなく、どうやら尻切れトンボになってしまいました。でもこれに懲りずときどきはこのモノディアロゴスや母屋の『富士貞房と猫たちの部屋』を覗いてみてください。それからオルテガについて興味がおありでしたら、『すべてを生の相のもとに オルテガ論集成』という私家本もありますのでどうぞ。
 最後に、もう一度、ご丁寧な感想文をお寄せくださいましてありがとうございました。今後ともどうぞ宜しく。


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狂夢にまつわる三題噺


★その一
 先日、何気なく見ていたテレビ番組で、福島県のどこかで実験的な農業に取り組んでいる人たちの話が取り上げられていた。そのうちの一人が、これからの農業は従来のような経験と勘だけでやるのではなく、科学的なデータの解析によらなければ駄目だろう、とタブレット・パソコンのデータ分析画面を見せながら得意そうに語っていた。そしてその分析結果を搭載した無人小型ヘリ(いま話題のドローンとは違うらしい)で肥料や除草薬を散布するシミュレーションも見せてくれた。
 でも彼には「経験と勘」を失った人間の悲しい末来図が見えないのだろうか。行き着く先は零細農家や小農家がバッサバッサ蹴散らされて、大農家というより大企業が主役に躍り出るであろう。現在ティーピーピーだかピーピーピーだかが話題なっているが、政治家どもの頭に確たる将来設計図が描かれているはずもない。大規模農業と機械化がどんどん加速していくのは時代の趨勢だろうが、「経験と勘」で大地と対話してきた農民の息遣いが聞こえない無人の畑や田んぼ、ただ効率よく搾取されるだけの大地の悲しみと怒りが感じられないのか。
 ここで思い起こされるのは、ロボットという言葉の生みの親、小国チェコが生んだ作家カレル・チャペック (1938-1890) である (robot の語源はチェコ語で「賦役」(強制労働) を意味する robota らしい)。人間のエゴイズムと科学技術の安易な結合の産物たるロボット物語は、実は人類の危機を予想した警告の書ではなかったのか。近代の価値観、その科学崇拝の最先端の継承者たる小国ニッポンは、原爆投下と原発被災という二重の悲劇を経験したというのに、未だにバラ色一色の未来図しか見ていない。
 ロボットがさらに進化して、いまやアンドロイド (SF用語で「人間そっくり」の意) の時代。これもたまたま(しょっちゅうとちゃう?)見ていたテレビのお笑い番組「笑点」で、太っちょのオカマさんのアンドロイドが舞台に上がって漫才の相手役までしていた。あな恐ろし。
 いまや好い年放(こ)いた老人までが産業ロボットに賛嘆し、スマホの新機種発売やスカイツリー見物にも並ぶ時代。新しいものなどに目もくれないで「そったらものいらね!」と意地を見せた老人など今や絶滅危惧種。大きく言えば、この日本から良い意味での保守派が消えている。

※チャペックを生んだチェコだが、近接するオーストリアとドイツからの強い批判にもかかわらず、現在二箇所に原発を稼動させているという。いま生きていたら、チャペックは何と言うだろう。

★その二
今朝のネット新聞にこんな記事が出ていた。

「ロウソク生活、気付けなかった貧窮 茨城3人死亡火災」

 茨城県那珂市で27日朝、焼け跡から3人の遺体が見つかった住宅火災で、この家族が数日前から電気を止められ、明かりにロウソクを使っていたものの、市や近所の人が生活の変化に気づくことはなかった。県警はロウソクが火元になったとみて調べている。
 県警は29日、司法解剖の結果、3人の死因について一酸化炭素中毒と発表した。県警によると、火災があった那珂市戸崎、無職叶野(かのう)善信さん(82)方は5人暮らし。足が不自由だった叶野さん、妻美津子さん(80)、特別支援学校高等部1年の孫娘の美希さん (15) と連絡が取れていない。
 働き手は会社員の18歳の孫娘だけ。電気料金の支払いが滞り、電気が止められた。叶野さんの長女 (48) は調べに「明かりとしてロウソクを使っていた」と話したという。
 東京電力茨城総支社(水戸市)によると、料金を滞納すると、基本的に検針日から55日後をめどに電気を止める。利用者から訴えがなければ、自治体に連絡することはないという。

 格差が、構造的貧困がここまで進んでいるのだ。弱者の困窮などに目もくれないアベ政治、「富国強兵」の狂夢(こんな言葉は無いのかも。でもアベとその一派に貞房から献呈しよう)がもたらした悲しい事件だ。この記事を読んで泣かないヤツなど人間じゃない、アンドロイドだ。とりわけ唯一の働き手の18歳の孫娘と焼死したと思われる15歳の孫娘のことを考えると涙が止まらなくなる。

★その三
 そんなことがある一方で、こんなニュースも同時に報じられていた。

「東京電力、経常利益3,651億円で過去最高益 中間期決算、燃料費低下が奏功」(産経新聞 10月29日 (木) 22時41分配信 )

 東京電力が29日発表した平成27年9月中間連結決算は、経常利益が前年同期比50.4%増の3,651億円と、中間期として最高益だった。原油や液化天然ガス (LNG) の価格下落で燃料費が4,340億円も減少したことが奏功した。
(中略)
 柏崎刈羽原発(新潟県)の再稼働時期が見通せないことから、28年3月期の業績予想は開示しなかった。同日会見した広瀬直己社長は柏崎刈羽原発について「経営安定のため再稼働が必要だ」と強調。再稼働を前提に「値下げを考えないといけない」と述べた。

 それより数日前(26日)、愛媛県の中村知事は四国電力伊方原子力発電所3号機の再稼働 に同意し、地元の伊方町も再稼働に 同意したという。福島と同じ事は起こらない、とほざいたらしい。

 狂ってる! いまの日本、どう考えても狂ってる! 今回の三題噺、「お後がよろしいようで」なんて、絶対に、ゼッタイに言えないぞ!

 憤死寸前の貞房より

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行間を読むということ


 全国的な猛暑続きで、老人たちが何人か熱中症で死んだというニュースが報じられている。川口の娘からもさっそくこまめな水分補給の忠告が届いたところである。でもありがたいことに、こちらはまだそれほどの暑さは感じられなく、何とか持ちこたえている。
 でも美子の髪が伸びて暑苦しそうなので、今朝入浴サービスの前に思い切って散髪(今風に言えばカッティング?)と白髪染めをしてやった。髪の毛を触られるのは嫌じゃないみたいで、おとなしくされるがままにしている。といってもここ数年、手足すら動かさないようになってはいるが。だから体温調節には気をつけてやらなければならない。
 もともと心臓も胃腸も丈夫な性質(たち)なのがなによりもありがたい。二人暮らしになってから一度も風邪を引いてないし、お腹をこわすこともない。この夏も今までどおり無事乗り切ってくれるだろう。美子の元気に助けられたかたちで、私自身も持病のギックリ腰にこの数年なっていない。さすがにオシメ交換などのあとは腰が鉛のように重くなるが、椅子に座ってしばらくすれば元に戻る。
 ところで本の整理の方は一つの山場を迎えている。つまりビーベス関係の本を整理しているうち、長い中断の前にビーベスに相当のめりこんでいたことを徐々に思い出してきたからだ。そしてこのままで死んでしまうのはなんとも悔しいと思い始めたのである。どこに発表するかなどとりあえずは考えず、我が人生の最後の課題として出来るところまでやってみよう、と思い始めたわけだ
 これまでも何度か折に触れて、とりわけ原発事故のあと、指摘してきたことだが、現代世界は大きな歴史の曲がり角に遭遇した十六世紀ヨーロッパ世界に酷似しており、エラスムスやビーベスなど当時のウマニスタたちの苦闘は、現代の私たちにもさまざま貴重な示唆を与えてくれそうだ。わが国には渡辺一夫というフランス・ユマニスム研究の偉大な先達がいるが、残念ながらビーベスについては、私が今まで読んだ限りでは一切言及していない。しかしオランダのエラスムスを筆頭に、フランスのビュデ、イギリスのトマス・モアと並んでスペインのビーベスが当時から、いわば人文学思想の四巨頭と言われてきたことは間違いない史実である。渡辺ユマニスム研究にビーベスが完全に欠落していることは実に不思議としか言いようがない。たとえば『フランス・ユマニスムの成立』(岩波全書、1976年)の詳細な索引にもまったく載っていない。
 ただ渡辺一夫は、先日も紹介したように、例えばロヨラのイグナチオを反(本当は対抗)宗教改革の巨魁といったステレオタイプの見方を早くから抜け出ていた。渡辺一夫のユマニスム研究の優れているところは、単なる学説史という狭い見方をせず、彼自身の生きている現代、とりわけあの愚かな戦争に突入していった日本、そして敗戦によっても根本的な覚醒をせずにここまできた日本という地場を一歩も離れずに、つまりそこを基点として、思索を展開したことである。
 他の分野はいざ知らず、人文学(ユマニスム)が他ならぬヒューマン(人間であること)の学であるからそれが当然のことなのだが、とかく学者という人種は抽象的な学説史の迷路にはまり込んで、研究者自身の生から離脱する傾向がある。簡単に言えば、というかきれいごとを言えば、客観性の誘惑から抜け出せないのだ。
 もっと具体的に言うと、下手をすればビーベス研究の基本文献を博捜するならまだしも、文献学史のぬかるみに足をすくわれる危険が常にあるということである。例えば大学や研究室での研究形態は、まず従来の研究史の穴場を見つけることから始めるのが通常だろう。そうでもしなければいわゆる学界での評価が期待できないから、つまり業績として認められないから、というわけだ。その点、大学からも研究室からも離れて孤軍奮闘しなければならない私のような研究者は、逆にそれが強味になる。
 ところで先だって何十年も前の書き物をまとめた『スペイン文化入門』の「まえがき」にあえて書かなかったことが一つある。つまり早くは1970年代に書いたものが今でもある程度の価値があることを発見(?)したのは、他の分野、特に日本文化についての優れた論考がいろんな人たちによって既に1970年から遅くも1990年頃までには書かれていたということである。つまりそれなら私の場合も、と改めて自信を持ったわけだ。
 今日もそういう目で、既に呑空庵で作っていた『内側からビーベスを求めて』を読み始めたところだ。『スペイン文化入門』の場合と同じく、これまで読み直したこともなかったのだが、(そろそろ例のエゴラトリーアが始まったぞ)、これがなかなかいい。少なくともビーベス研究の基本構造、つまりなぜ今さら日本人の私が敢えてビーベス研究を志すのか、そのことがしっかり自覚されたものになっているということである。
 この私家本には、大学紀要に連載した四つの論考が収められているが、言うまでもなく未完のまま長らく放置されていた。先ずはそれらをゆっくり読み直してから、今後の方向を決めてゆくことであろう。ユダヤ系という出自を背負って、若いときから国外、主にブルージュやルーヴァン、さらにはイギリスへと渡り歩かなければならなかった彼の個人史にこれまでかなりの紙幅を使わなければならなかったが、今後の予想としては、エラスムスとはまた違った角度から展開した彼の平和論を中心に攻めていくことになろう。
 そしてこれも何度か言及してきたことだが、スペインのウマニスモが他のものと決定的に異なるのは、スペインが新世界問題と四つに取り組まなければならなかったことから来る、人文思想の質的変化そして深化である。ビーベス自身はラス・カサスやビトリアなどのように直接その問題にかかわってはいないが、彼ら一世代先輩の思想家たちの動向を射程内に捉えていたはずで、先ずはそこらあたりを探ってみたいと考えている。
 今度の蔵書探索の過程で、ビーベス研究のために新たに文献を求める必要のないことが判明した。あとはじっくりあせらず手持ちの文献を読み進めるだけ。さあ忙しくなってきたぞ。そうそう言い忘れるところだったが、先日紹介した『ビーベスの妹』はかつてビーベス研究にのめりこんでいる時に、ふと思いついた「仕掛け」だったことを今回やっと思い出した。つまり故郷バレンシアで家族がフダイサンテ(隠れユダヤ教徒)の嫌疑を受けて焚刑に処せられるなどのことがあったにもかかわらず、というよりそれが為になおさら故国に帰ることが出来なかった彼の悲劇の生涯、それらすべてをいわば行間に埋めての彼の著作活動であったことに触発されての創作だったのである。
 つまり、これもこれまで再三言ってきたことだが、ある人の生涯を辿る際、最も大事なことは、文字や作品に表現されていない部分をていねいに読み取るということだ。私家本の表題の意味もそれである。そのためには、時にはフィクションに限りなく近くなるほどの想像力を駆使しなければならない
 そういえば今日見つけ出した本の中に、『行間のビーベス(Vives entre lineas)』(A. Gomez-Hortiguela, Bankaixa, 1993)というのがあった。著者は1955年生まれとあるから、私よりはるかに若い研究者だが、私と同じような考え方をしているらしい。彼には邦訳『ルイス・ビーベス』(木下登訳、全国書籍出版、1994年)があるが、まだ読んでいなかった。これを機会に読んでみようか。いや読まない方がいいだろう。私のビーベス像を作るには、先ず私自身が書いたもの、次いで彼自身の書いたものをしっかり読み直すことだ。

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渡辺一夫と大江健三郎


 介護・家事の合間を縫って、というより本の修理・装丁の合間に介護・家事をこなしながらの生活がまだ続いている。時おり本棚の隅から懐かしい本が顔を出して、その度にその本に関連する他の本を探してきたり、それにまつわる思い出を愉しんだりしている。
 僅かな数の蔵書のはずだが、こんな調子だと、いつ整理が終わるか見当もつかない。つい先ほども、他の本の後ろから渡辺一夫関連の本数冊を見つけ出してきた。そのうちの一冊は大江健三郎の『日本現代のユマニスト 渡辺一夫を読む』(岩波書店、1984年)で、それをぱらぱらめくっていると、先日どこかにあるはずと書いた例のものが挟まっていた。渡辺一夫さんからいただいたはがきである。ただし宛名はエバンヘリスタ先生、佐々木孝先生(当時わたしはただの哲学生なのに)と連名に、そして住所は練馬区上石神井■-■、上智大学イエズス会神学院となっている。
 予想通り1966年にエバンヘリスタ神父と共訳で出した『ロヨラのイグナチオ その自伝と日記』(桂書房)を献呈した時のお礼状である。肉筆の文面は以下の通り。

「御高著御恵贈賜りありがとう存じました。目下病臥中ながら拝読させていただいて居ります。きびしい魂の遍歴には、心撃たれるものがございます。小生の名まで御引用下さり、ただただ恐縮いたしております。右御礼まで。
文京区元駒込■-■-■  渡辺一夫

二伸 御礼申し上げるのが遅れ、(二字ほど判読できず)申しわけなかったと思います。お赦し下さい。」

 文中「名まで御引用」とあるのは、「あとがき」で氏の『三つの道』(朝日新聞社、1957年)の「イグナチオは初めから、宗教改革運動を意識して行動したとは思われません。事実として存在したカトリックの教会制度の硬化腐敗に目をつけていたとも考えられない」という文章を引用紹介させてもらったことを指している。
 1901年のお生まれだから、このときはまだ65歳、それから約十年後の1975年74歳で亡くなられたわけだ。
 この本と一緒に見つかった『文学に興味を持つ若い友人へ』(彌生書房、1995年)の中の「僕の書斎にある洋書」を読んでいるとこんな文章が出てきた。

「…書棚を整理しながら、まだ頁の切ってない本にずいぶん出会う。何か大切な友人を今までほったらかしにしておいたような気持になり、思わず、ナイフで頁を切って読み始めることが多い。こんな本が一度に二三冊あると、その日の整理は停滞してしまう。しかし、その為に、書庫の中での数時間は、限りなく楽しくもなる。
あと何年この世に生きられるものか全く判らぬし、いついかなる時に、天変地異(戦争もその一つかもしれぬが)が僕を見舞うかもしれぬ。その時がくるまで、僕は、書庫のなかで暮らすであろう。この頃の寒風に泣く人々、悪制度政治に苦しむ人々のいる浮世を片時も忘れたくないが、ただ、僕は、僕としての条件と分限のなかで、僕に与えられた仕事、大げさに言えば、使命をも果たさねばならぬと思うだけである。明日は、何冊ぐらい整理ができるかしら?(dec.1954)」

 まさに現在の私と同じ心境を語っている。ただ大きく違うのは、そのときの彼は私より二十二歳も若いということ、そして私の方は実際に天変地異、つまり大震災と原発事故に遭遇したということか。ただ同じなのは、当時も今も悪政に苦しむ多くの人々がいることであろう。
 本当は大江健三郎の亡き恩師への切々たる追慕と感謝の念に裏打ちされた渡辺一夫論を紹介するつもりだったが、つい現在の我が生活の処し方に引き寄せて書いてしまった。渡辺一夫論についてはまた別の機会にするとして、大江健三郎という作家自身についてちょっとだけ触れておきたい。簡単に言えば私にとって氏は長年気になる作家の筆頭であったということである。彼の出した本はその都度たいていは買い揃えてきた。そういう現代作家は、島尾敏雄、埴谷雄高、小川国夫、真鍋呉夫(いずれも鬼籍に入られた方ばかりになってしまったが)など数人いるが、その方々の作品はほとんど全部読んできたのに、大江健三郎の場合は、揃えただけでほとんど読んでいないという違いがある。
 つまり作家・大江健三郎というより人間・大江健三郎が気になっている、と言えば氏に対して失礼かも知れないが、事実、彼の作品自体より彼の生き方、そして時おりの、とりわけ政治的な発言に強い共感を覚えてきたのである。
 しかしそうした彼の戦後民主主義への終始変わらぬ信念の根っこにあるのは、息子の光さんと彼のこれまでの生き方が一つ、そしてもう一つは恩師・渡辺一夫に対する彼の一貫して変わらぬ師弟愛である。つまり彼の政治的な信念は、イデオロギーというよりもはるかに深い人間理解に支えられていることへの強い共感に由来する。
 そしてこれは半分冗談であるが、彼も私も同じ名前を有するから。大江は中国語で確かターチャン(語尾が上がる)と発音されると思うが、私も昔から愛称ターチャン(語頭にアクセント)だから。健次郎叔父も、よっちゃんも、今でも会うと私をターチャンと呼ぶ。実はばっぱさんも、最後のあたり、昔に戻ってタカシではなくターチャンと呼び始めていた。
 さてここまで、以上の文章を、今日同じく本棚の側のボール箱に入っていた、ばっぱさんのカセット愛唱歌集を聞きながら書いてきた。全二〇巻の『昭和の流行歌』と題したシリーズ物の最後の巻である。ちなみにこの第十二巻目に収録された全二〇曲のタイトルをご紹介しよう。

  • SIDE A(古城、川は流れる、下町の太陽、長崎の女、東京の灯よいつまでも、夜明けのうた、まつのき小唄、さよならはダンスの後に、唐獅子牡丹)
  • SIDE B(銀色の道、虹色の湖、恋の季節、白いブランコ、希望、絹の靴下、四季の歌、青葉城恋唄、夢芝居、女の駅)

 これら懐かしい歌を聞きながら、なぜか胸が熱くなってきた。そう、古い奴だとお思いでしょうが、私ゃ骨の髄まで戦後昭和の男でござんす。急に飛躍するようですが、こんな懐かしい平和なニッポンをまたもや戦争の出来る国にしちゃっちゃ先輩たちに申し訳がたちません。安保法案とやらは必ず廃案にしなきゃなりません。唐突ですが今晩はこれまで。お休みなさい。

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古い日記帳

先日は今にも消えそうな記憶の砕片を拾い集めたいなんてことを書いたが、それより以前に、文字に残されている過去を整理しなければならないことになって、この数日あたふたしている。思わぬ邪魔が入るといけないので(まさかウソですよ)具体的なことはまだ言えないが、ある申請書のために必要な「履歴書」を、それも外国語で作らなければならなくなり、慌てて古い日記などを整理している。今までも本の奥付などに簡単な履歴・業績を出版社が作ってくれたことはあるが、今回のように正確な日付を入れなければならない履歴書作成は久しぶりである。以前一度かなり詳しい履歴書を作ってパソコンに入れておいたはずだが、何回かの機種交換でいつの間にか無くなってしまった。
 さてそのためには日記が役立つのだが、改めて調べてみると、たぶん普通の人よりマメに書いてきた方ではないかな。といってモノディアロゴスを書くようになってからはつけていない。つまり2002年あたりから日記からは離れてしまった。これまでの日記帳は合計8冊あるが、中には大学ノート十冊くらいを合本にした背革の大冊もある。

1. 1961~1967年
2. 1967~1972年
3. 1973~1974年
4. 1974~1977年
5. 1977~1982年
6. 1983~1990年
7. 1990~1993年
8. 1994~2002年

 背革大冊の1は『修道日記』という題名つきの日記で、修道院入りから還俗までの日常が克明に綴られている。先日ここで紹介した母の手紙が挟まっていたのもこの日記の中であった。他にもラテン語で書かれた退会証明書なども挟まっている。
 それら日記群のところどころを読み返してみると、まるで他人の記録のように思えてくる。時間の経過がそのように思わせるのかも知れないが、要は記録の中の私は私であって私ではない、という不思議な存在になっているということだろう。だからピープスのように暗号化する必要もないし、他人に見られても恥ずかしいとも思わない。事実、だれも手に取ることはあるまいが、廊下の書棚に雑多な本と一緒にまとまって鎮座ましましている。死後、子どもたちや孫たちが読んでくれることさえ願っている。ちょうど祖母・安藤仁や母・千代が書き残した文章群のように、一族の記憶の連鎖が途切れないためである。
 大袈裟な物言いになるが、過去に囚われるのも愚かだが、過去を亡失することは愚か以上に忘恩であり(だれに対して?まあ言うなればお天道様、人類共同体、先祖様に対してかな?)低劣な生き方である

 過去を忘れ、ただただ右肩上がりで前のめりの現代日本人よ、お前はどこに行こうとしてる?(ちょっと偉そうに言ってみました)

父の死後、8冊の日記はバラバラに保管されていたが、すべて揃えることができた。まだ開くことができない(息子記)。
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古い皮袋での熟成

恥ずかしいことに、この数日間気分が滅入ってどうしようもない時間を過ごしていた。美子の世話をしなければならない、という義務感だけでなんとか崩れないでいた。崩れる? いやそれがどんなことか分からないが、ともかく辛い時間を過ごしていた。私よりもっと辛いことに耐えている人がいることを考えて、こんなことで負けてたまるか、と反発心を奮い起こしてなんとか時間をやり過ごしていた。
 そんなときアマゾンから安岡章太郎さんと近藤啓太郎さんの対談集『齢八十いまなお勉強』(光文社、2001年)が届いた。同い年の二人が来し方を振り返りながら、老齢を生きることで見えてくるさまざまなことをこもごも語っていて実に面白い。私もあと数年でその歳になるが、それまで彼らのような元気を保てるか。いや私など老人としてはまだひよっこ、フンドシ担ぎなのに、いまからもうこの体たらく、先が思いやられる。
 昨日の朝、十時ごろ、帯広の健次郎叔父から電話があった。ここ数日寒い日が続いて外出も出来ずに家に閉じ込められていたが、今日は天気も良く、といってまだフトンの中だが、『内部から!』をとうとう読みきったよ、と例の明っかるーい声で報告してきた。美子さんの面倒を見ながら良く書くよ、私など絶対出来ない、などと言う。でもこの叔父の元気ときたら、これは安岡さんたちも比ではない。あのとき安岡さんたちは八十歳だったが、この健ちゃんは御歳九十七歳! 娘の史子(ちかこ)さんの「父は病気のように元気です」という至言を思い出しておかしくなった、と同時に元気がわずかながら戻ってきた。
 そして数日前から延ばしのばししてきたことをようやくやる気になった。それは昨年夏からIさんの編集で進められてきた『スペイン文化入門』の最終的なチェックと「まえがき」執筆だ。実はIさんには申し訳ないのだが、今日まで読み直すことすら一切やってこなかった。アマゾンに既に出版予告が出ているにもかかわらず、なぜか他人事のような気持ちで来てしまった。編集その他をすべてIさんにまかせたという気楽さからでもあったが、この出版不況の時代、むかし書いた雑文の寄せ集めなど本当に出版できるのだろうか、などとこの期に及んでもまだ内心半信半疑であったためでもある。しかし大きな私塾の経営という激務の合間を縫いながら出版目指して頑張ってきたIさんからの相も変らぬ篤実な文面の問い合わせのメールで眼が覚めた。そして八年ぶりに眼を通しはじめた(私家本にしたのは2006年)。
 それだけの年月を経て読み返すためか、まるで他人の文章を読むような新鮮味が感じられ、そして感動(?)した。落ち込んだり感動したり、まさに老人特有の感情の動きとお笑いくださってもいいが(誰に向かって言ってる?)、なかなかいいことが書かれていたのである。そして原発事故以後の混迷の中で辛うじて体勢を整えるにあたって、スペイン思想研究で得たさまざまな考えがまるで髄液のように自分を支えていたことを再認識した。
 冒頭の「われわれにとってスペインとは何か」(「朝日ジャーナル」掲載)などほとんどの文章が1970年代、つまり40年以上も前のものであるから、例えばスペインがフランコ独裁体制から新体制へと生まれ変わるあたりのことは、確かに「古さ」を感じさせる。しかしスペイン思想・文化の骨格・本質、そしてその問題点は確実に捉えられており、その部分は現在でも充分通用する。いやむしろ現在にこそ生きてくると思われたのである。そして日本の読者より現在のスペイン人にぜひ読んでもらいたい、というとんでもない願望が生まれてきた。
 つまり原発事故以後の覚醒の中で発見したことの一つは、日本文化そして日本という国それ自体が近代以降その本質・自己同一性を失ったまま迷走を続けてきたこと、そしてその危険ならびに解決への糸口を既に1970年代、さまざまな視点からさまざまな覚醒者によって指摘されていた事実だが、それと似たようなことはおそらくスペインにも起こっており、遠く東洋から発信された見解もいま改めて見直されてもいいはずだ、と考えたからだ。ここまで来ると、さすがに我ながら恥ずかしくなって、急に一つのスペイン語を思い出した。それはエゴラトリア(egolatría)つまり自画自賛という単語である。自画自賛・自己顕示欲の雄・安倍晋三首相が連想されてちょっと嫌ーな気分になりそうだが、しかし日本を間違った方向へと誘導しつつある現体制に対抗するためなら、少々のエゴラトリアは許されるであろう。
 それはともかく『スペイン文化入門』の中核に位置する「スペイン的【生】の思想」(『スペイン黄金時代』所収、NHK出版、1992年)が書かれたのが、ベルリンの壁崩壊や湾岸戦争という激動の時代であったこともあって、そこで主張されていることは現在とも不思議に符合している。新しい酒は新しい皮袋に、という聖書の言葉(マテオ、九章)もあるが、しかし古い皮袋の酒もそれなりの熟成を経て薬味を醸し出すこともあるだろう。ちょっと言い過ぎか。でもそんなことをぐーんと薄めて「まえがき」を書かせてもらうつもりだ。
 ここまで書いてきてだいぶ元気・生きる勇気(?)が出てきた。君って意外と単純なんだね、という声が聞こえてきそうだが、そうなんです、相当に単純なんです、純なんです、はい。先日、美子の血液検査の結果もほとんど問題ありません、との結果が出ましたので、とうぶん(?)元気に頑張ります。皆さんもどうぞ頑張ってください。

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よっちゃん、見ーっけ!

ひさびさに G. グリーンの『おとなしいアメリカ人』(1955年)という小説のことを思い出している。書棚から持ってきてはみたが、果たして読んだかどうか、すでにして定かではない。だったら読み直そうか、といえば、実はその気もない。ただ漠然と、この小説は一人の善意のアメリカ人がサイゴンの町を歩く先々で彼を狙うテロが勃発し、無辜のベトナム人が次々と死んでいくというストーリーであったことだけは覚えていた。つまりこれは、ひとりよがりの善意のアメリカがインドシナ問題に介入することによってあのベトナム戦争という底なし沼のような悲惨な戦乱を招き拡大したことを批判した小説というわけだ。
 でも思い出したきっかけは、そんな大仰なことではない。ある一人の善意から発した行為が思わぬ展開になったこと、つまりあるものの崩壊(とでもボカシておく)のきっかけとなった或る出来事である。その事実を彼に何回かメールで指摘したが一向に返事がない。なにか性質(たち)の悪いヤクザにでも絡まれたと思っているらしい。しかしどうしても連絡したいことがあって、直接電話してみた。そして恐れていた通りの展開になってしまった。つまり当方のロートル湯沸かし器が一気に沸騰したのである。
 いや善意から発したものであることは当方も認める。しかしそれが思わぬ結果をもたらしたことに対してちょっとでも遺憾の意でも示せば、沸騰は起きなかったであろう。などとおのが沸騰器を絶対視するのも可笑しな話ではあるが。要するに相手は、しつこいクレイマーを前にしたどこかの店員のように、ひたすら責任逃れの態度に終始したのである。相手が一般人であったからいいようなものの(?)、もしも彼が教員とか坊さんとか神父さん、つまり生徒や信者さんの、時には家庭のことにまで相談に乗るべき人だったとしたら、それだけで彼の態度はその資格を疑問視させるに充分である。
 それなら他人に対する善意の発動を控え、他人事には口を挟むな、とでも言いたいのであろうか。いやいや決してそうではない。善意は最後まで、つまり途中で我関せず焉と逃げるのではなく、とことんその善意を貫く、つまり最後まで責任を取るべきであるということである。例えばあのドン・キホーテである。彼はときに善意の思い込みでおよそ場違いな行為に及んだ。宿場のいかがわしい職業の女たちを官女ととり違えて、丁重に扱う。女たちはそんな彼を笑いものにするが、しかし彼はあくまでその「信念」を貫き通す。するとどうなったか。そこに不思議な奇跡が起こるのだ。つまりそのうち彼女たちの内面に隠れていた気高さ、人格本来の資質が現れ出てきたのである。
 先の話とうまく繋がらなかったかも知れないが、要するに人に善意を示す時は、それが思わぬ展開になって、その善意が事態の悪化を招くような時は、その状況を出来うるかぎり修復することにも力を尽くすべきであるということである。ならば面倒、他人のことに容喙するのは差し控えよう、と言う人にはあのドン・キホーテの無償の愛を思い起こしてほしい。なーんてこれは自戒の意味も込めて言ってます。
 話は例によって突然変わるが、昨日久しぶりに鹿島の寺内によっちゃんを訪ねた。ところが何たることか「ホームなごみ」は無人となっていた! 慌てて近くの集会所を訪ねて聞くと、先月末をもってそこは閉鎖され、老人たちはそれぞればらばらに分散したという。誰がどこに行ったか全く知らされていないらしい。それで家に帰ってから、仙台に避難している彼女の長男の J に電話で聞くと、現在は石神にいると言う。
 出来るだけ早く本を渡したいので、今日の昼前、ベッドに寝ている美子のことを心配しながら、その「グループホーム石神」とやらを探しに行った。住所は大木戸。駅前通りを四葉通りを越えてまっすぐどこまでも進むと石神に入り、見当をつけていた辺りにあったコンビニで聞くとそこを左折して5、6百メートル行った右側にあるという。最初は行き過ぎて、通りがかりの人に聞きながらようやく見つけた。
 今度は仮設ではなく一昨年だかに出来た新しいホームで、案内されて広間に入ると、いたいた元気なよっちゃんが。最初きょとんとしていたが、「たーちゃんだよ」と近づいていくと分かって喜色満面のいつものよっちゃんになった。ばっぱさんの『虹の橋 拾遺』と司馬遼太郎の『竜馬が行く』の文庫本を4冊の合本にしたものをお土産として差し出した。95歳なのに私より耳はいいし、頭もはっきりしている。しかし可哀想なのは、さんざたらい回しにされて今自分がどこにいるか分からないことである。
 お昼の食卓の準備が始まったようなので、近くまた来るからと別れを告げた。別れ際、思い付いてコピーしていった四人のいとこたちの二十歳ごろの写真、すなわち健次郎と敏雄(後の作家島尾敏雄、二人は同い歳のいとこ同士)と誠一郎と千代(長男と長女)の二枚の写真だ。たぶんよっちゃんの今夜の夢は、仲の良かったいとこたちとの青春の思い出だろう。よっちゃん、千代ねえちゃんは青森くんだりまで連れて行かれて向こうで死んじまったが、よっちゃんは健ちゃんと同じく百歳を軽ーく越えて長生きすっぺー。今までは一緒だった愛はもう来れなくなったけんちょも、前より近くなったぶん、これから何度も訪ねてくっから、と言うと、よっちゃん心から嬉しそうな笑顔になった。

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間にあってよかった

 

佐々木さんの本にあやかっての私家本です。
間にあってよかったです。
暑さがつづきますが、くれぐれもおからだ大切に。

2011、七、九          石原保徳

 これは石原さんの『世界史再考 歴史家ラス・カサスとの対話』(制作デジプロ、2011年)に挟まれていた絵入り小型便箋に肉筆で書かれたメッセージである。文中「間にあってよかったです」という言葉に今も胸が痛む。何に間にあったのか? 彼の死に間にあったのである。彼はそれから間もなく帰天した。
 彼、石原保徳さんは岩波書店の編集者として、あの画期的な「大航海時代叢書」第二期(全25巻)、さらには『アンソロジー・新世界の挑戦』(全13巻)を手がけた。いや単に編集者としてだけではなく、歴史家・翻訳家としても生涯、死の直前まで「新世界問題」に取り組んだ。それも後半は前立腺ガンとの闘病生活の中で。しかし彼は常に前向きで明るかった。
 亡くなられる年の三月、あの忌まわしい原発事故が起こったときも、病床にありながら何度か電話をかけてくださった。あのいつもの明るい元気な声で。そして美子のことを最後まで心配してくださった。最後の日々、元同僚のTさんがコピーした私たち夫婦に関する新聞や週刊誌の記事なども読んで、無事を喜んでくださったそうだ。
 あの覚悟そして力はどこから出てきたのだろう。おそらく、彼の今だから言える「晩年」に、彼を捉えて離さなかった使命感、つまり新世界問題との苦闘の中から得た新たな知見と問題意識をもって前人未到の企図、すなわち世界史再考・再構築というとてつもなく大きな課題へ挑戦しなければとの強い想いからではなかったろうか。
 彼が残した足跡は、以下の作品群を辿ることでその大略を知ることができる。

  • 『インディアスの発見 ラス・カサスを読む』、田畑書店、1980年
  • ラス・カサス著『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』(訳・解説)、現代企画室、1987年
  • 『世界史への道 ヨーロッパ的世界史再考』、前後編、丸善ライブラリー、1999年
  • 『大航海者たちの世紀』、評論社、2005年
  • 『新しい世界への旅立ち』、岩波書店、2006年
  • そして絶筆『世界史再考 歴史家ラス・カサスとの対話』。

 しかし忘れてならないのは、彼が長南実訳で出た全五巻のラス・カサス『インディアス史』(岩波書店、1990年)を圧縮・再編集した岩波文庫版、全七巻(2009年)の存在であろう。ラス・カサス基本文献のこれほどまで周到な作業は本国スペインでもなされていない。石原さんの驚異的な執念あればこその偉業である。
 私には原発事故のあとの覚醒の中で初めて見えてきた近代批判や明治維新再検討の必要性を、石原さんはそれこそさらに広い世界史的観点から夙に見抜いておられたわけだ。その慧眼恐るべし。恥ずかしいことに上記の労作のいずれも、今までしっかり読んでこなかった。残された日々、出来うる限り彼の切り開いた道を辿りたいが、私よりも若い世代のだれかに、それもこの南相馬の次代を背負う青年たちに、ぜひ彼の宿願を引き継いでもらいたいと強く願っている。
 彼のそうした問題群への最初の橋頭堡とも言うべき1980年の『インディアスの発見』の中に、そのころ書かれた私宛のはがきが挟まっており、そこにはこう書かれている。

「出版社に働くこと二十年、さまざまな矛盾を背負いこんでいます。他方【学問】の質は次第にオカシクなっているとしか思えません。大学も相当荒れていることでしょう。想像はつきます。しかし、アキラメてしまうわけにはゆかず、編集や学問の姿勢をただしてゆくことも必要だと思っています」

偉い「学者先生」たちや編集よりも営業が幅を利かせる会社組織とも対峙しなければならぬという苦しい両面作戦の中で、彼の問題意識はさらに研ぎ澄まされていったはずだ。しかも…

「振りかえってみれば、私の晩年は、一九九二年に前立腺ガンの摘出手術をうけてからというもの、なおその断端をのこすガンとのたたかい・共生にあけくれたといえる。死はさほど遠くない、との主治医の診断が示されたのは二〇〇七年夏のことであった」(『世界史再考』、「おわりに」)

 ちょうど一週間前、とつぜん(!)老夫婦だけの生活が始まり、時おり目の前が暗くなるような寂寥感に襲われることがあるが、そんな時、この石原さんの「覚悟」のほどを思いめぐらし、天国の石原さんから叱咤激励を受けているような気持ちになる。
 2009年に作った詩集『コギト』は石原さんに捧げた。そのときは奇跡的に持ち直しておられた時期で、死神は退散したのでは、と楽観視していたが、でもその時、石原さんに捧げていて本当によかった、つまり私なりに「間にあってよかった」からだ。

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鎖国よ今一度…


 美子のトイレ・サービスが終わるのを待っているとき、整理のためたまたまテーブルに置いてあった、いいだももの『猪・鉄砲・安藤昌益』(農山漁村文化協会、1996年)に眼が行った。ぱらぱらページをめくっていると、こんな文章にぶつかった。

「鎖国の平和とともに鉄砲が「忘れられた兵器」となってしまった、というかつての飯塚浩二説は、今日では、ノエル・ペリンの『銃を捨てた日本人――日本史に学ぶ軍縮』(川藤平太訳、紀伊國屋書店)となって、いうならば世界的定説となるにいたっています。これは歴史についての無責任な健忘症ではなくて、むしろ暴走の行き詰まり(デッド・エンド)から正常な歴史の大道へとひきかえしてゆく人間の「忘却」能力=選択能力を意味しているのであって、殺傷兵器から花火へのこの徳川期的転換能力が、ひとつの比喩的モデルとしてでも、原爆・核兵器、毒ガス・化学兵器、細菌戦・生物兵器などを21世紀の核廃絶・全面軍縮へ向けて扱ってゆく上でのモデルとなって、それらのジェノサイド・エコサイドの武器を「忘れ去り」「すてる(断念する)」上で全世界的に参考になるとするならば、それ自体はたいへん結構なことでしょう。」

 いささか回りくどい文章(失礼!)であるが、要するにこれまで否定的にのみ解釈されてきた鎖国時代の再評価が必要という私がようやくたどり着いた考えの傍証になるべき見解だということである。1543年、ポルトガル人によって種子島に伝えられた鉄砲の技術は、瞬く間に改良され、普及し、一時は同時代のヨーロッパのどの国よりも鉄砲保有数の多い国になっていたことを今回初めて知った。ところが鎖国によってそれら殺傷兵器は、せいぜい畑を荒らす猪を脅すためや「鍵屋、玉屋!」の花火へと使用法・対象を転換したわけだ。
 片やヨーロッパやアメリカでは、殺傷能力をさらに高める改良が進み、その果てが核兵器へ、そして平和利用というサギまがいの美名のもとに原発へと進化した。もちろん明治維新以後の日本も、そうした軍拡競争に邁進し、中国では731部隊による細菌兵器にまで手を伸ばしたと思ったら、現在はキナ臭い軍事立国、平行して原発大国を目指している。徳川期の平和構築の知恵をかなぐり捨てての狂奔である。またぞろその悪癖がぶり返して、安倍政権によって従来の武器輸出三原則が骨抜きになりそうな事態にもなっている。要するに歴史に学ぶ姿勢は一切なく、日本人が本来持っていた美質を捨て去るの愚を冒しているわけだ。

「鎖国よ今一度…」

外国からは
 真理とまごころだけ
 を受け入れよう

その他のことは
 つつましく内輪で
 考えてみよう

 この詩ともいえない断章を書いたのは、1964年十二月、今からちょうど半世紀前、このあいだ土砂災害のあった広島市安佐南区のイエズス会長束修練院にいた時である。いまとなってはその真意は自分でも分からない断簡だが、国交を閉ざして排他的引きこもりをすべし、と言っているわけではない。現在ならこう言うだろう、すなわち前に進むのではなく、後ろに戻るのでもなく、今すべきは「内部に進む」こと、自己を掘り下げることだ、と。

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我関せず焉の世界


 数年前からこの奇妙な現象にうすうす気づいてはいた。それを漠然と「魂の液状化」などと呼んだこともあったが、数日来ようやくその現象がどういうものかが少しずつ分かってきた。要するに自分の内面が外に現れること、あるいは他人の内面を打ち明けられることを極度に、あるいは病的に、避ける傾向である。個人情報保護条例なるものは、そうした傾向を助長する、あるいは法的根拠を与えていると言ってもいい。
 もうすでに何度も書いてきたことだが、私などは常日頃、個人情報の大盤振る舞いみたいなことをやってきた。自分のことだけでなく、たとえば妻の認知症のことや排泄のことまで何の恥じらいもなく書いてきた。排泄のことまで書かれて、たとえ認知症でも奥さん可哀想じゃありませんか、と心配して(本当は非難して)くれる人がいるかも知れない。ところがどっこい、妻はもともと糞尿譚が大好きで、彼女が愛読してた本をざっと紹介しましょか。先ずは安岡章太郎さんが編んだ『滑稽糞尿譚 ウィタ・フンニョアリス』(文春文庫、1995年)という傑作アンソロジーがあります。もちろんこれは文豪・森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』をもじったもの。他にも山田稔『スカトロジア』(福武文庫、1991年)、さらには中村博『糞尿博士・世界漫遊記』(現代教養文庫、1983年、17刷)なんてものもある。
 ドリフターズがかつてなぜあんなにも子供たちに人気があったかご存知かな? それはだね、彼らがウンコとオシッコをうまくダシに使ったからに決まっている。ETがあれほど人気が出たのも、彼の顔かたちがなんとなくウンコに似ていたからに決まっている。
 おっと話が思わず臭い方にいっちゃったので本道に戻る。そんな私でもひとには言いたくない、あるいは言う必要もないヒミツ、墓場まで持っていくつもりのヒミツなどゴマンとある。つまりそれだけ人間の内面世界は広くて深いということだ。自分の内面あるいは本心を隠そうとしている人の、そのヒミツなど、どうってことないものばかりである。ここ数年のあいだ、私のそういう考え方に反発してというか警戒して去って行った数人の人のことを思い返しても、彼あるいは彼女のナイーブさは今もって謎いや滑稽である。たとえば彼は過去に悪所通い(古っ!)をしていたとか、彼女はいま不倫をしているとか、そんなヒミツをバラしたわけではない。名前も個人データもいっさい触れないで、つまり誰からも特定されない形で、その人の書いたものを、それも非難するためではなく褒めるために引用したのに、私はそういうことに慣れてませんのでやめて下さい、と言われて仰天したこともある。
 いや他人のことは言うまい。実は身内からも数日前同様のことを言われて(手紙で書かれて)一瞬心が凍りついたようなショックを覚えたばかりなのだ。幸いその人ならびにその周囲の人はインターネットを使わないので具体的に言うと、最近連れ合いを亡くした或る身内の深い悲しみ、そしてそこからようやく立ち直ったことを記した実に感動的な手記(私のところに署名入りで送ってくれた)、その他、例の吾峰会宛ての公開書簡、叔父へ手紙(これも公開済み)、ソウル大宛てのメッセージ、のコピー(私にとっては三点セット)をその人に送ったところ、私はこのように宛て先の違う複数の手紙を読む気持ちにはとてもなれません、転送はいかがなものでしょうか(この表現、いまどきの政治家みたいで大嫌い)、とのコメント入りでそっくり返送してきたのだ。初めその意味が分からなかった。中の二つともがその人にとってもそれこそ身内に関係した文書である。あとは吾峰会とかソウル大などその人とはまったく関係の無いいわば第三者宛ての文書である。前の二つが身内のものとはいえ、確かに内面に深く関わった内容なので、どうもそれに反撥したとしか思えない。どちらにしてもその人自身の内面の深淵を見せられたようで、私の方がうろたえた、というのが本当のところ。つまり個人情報が知れれることなど屁とも思わない私でさえ、そこまで自分の内面の実相をさらけ出す勇気(?)はないということだ。
 とにかくその手紙を見て、ちょっとやそっとでは立ち直れないほど落ち込んだのも事実である。ところが、である。「捨てる神あれば拾う神あり」とはよく言ったもので、それら文書の当事者の一人と言ってもいい人、もちろん身内である、からまことに嬉しい、そして美しい手紙を受け取ったのである。きれいな便箋にきれいな字と言葉でびっしり三枚にわたって書かれたお礼の言葉そして感想である。ここまで書いたからには、もっとはっきり言えば、健次郎叔父の長女、つまり私の従妹からの手紙である。本当は全文をここで披露したいのだが、さすがにそれは止める。要するに自分の父(私にとっては叔父)に、あのように温かな手紙を書いてくれたことへの感謝の気持ちが綴られていたのである。さすが我が愛する従妹よ!
 しかし私がもっと感動したのは、彼女にとっても身内である「あの人」の、その全編が一個の詩とさえ言えるあの手記に対する次のような言葉である。これはぜひ紹介したい。

 「ところで…さんの奥さん…の急逝にはびっくりしました。私も嫁いで以来お目にかかっていないので、お二人の記憶もままならないのですが、…の思いに触れて、わが身に迫る思いで涙が出ました。長年連れ添った人との別れは本当にお辛いものでしょうね。私達にもいつ死が訪れるか分からない残された人生、悔いのないように生きたいと思います」。

 だから人間は美しい、だから生きてるってことはすばらしい。魂が魂に触れた瞬間である。いっとき凍えていた私の魂がみるみる解け出して、温かな感動が全身を浸していった。
 われわれ日本人よりはるかに自己表出が得意な、ときにはそこまで自己を主張しなくてもいいんじゃない、と思うようなスペイン人に対してさえ、わが師ウナムーノはこんな苦言を呈している。どうして彼らは、まるで甲殻動物のようにわが身を鎧っているのだろう、どうして魂と魂が触れ合うことを避けているのだろう。そして冬の或る朝、総長官舎から大学への道すがら、歩道の並木同士が互いに地下で樹液を通わせ合っているんだとの一種神秘的な啓示に触れた体験を書いている。

 我らの梶井基次郎にもこんな言葉がある。

 桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!
 これは信じていいことなんだよ。何故つて、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。しかしいま、やつとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる。これは信じていいことだ。

 桜だけじゃない、人間同士も本当は互いに魂と魂で触れ合うべきなんだ。なぜ内面を隠しあって、このように冷たい人間関係を現出させているんだろう。魂をさらす、そして他人の魂に触れるのは、時には確かにタフなことだ。ウザいと思われることだってある。でも人間同士がそのように魂と魂の触れ合いを恐れていたら、生きていて他にどんな喜びがある?
 レイモンド・チャンドラーも似たようなことを言ってたよ。「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」と。
 先日もある人とメールで話し合っていたとき、期せずして意見の一致を見た話題があった。それはケータイとかメールの普及で、これまでとは比較にならないほど便利な世の中になったが、それと反比例する具合に互いの間の真の交流が出来なくなっている、ということ。それでいて相手が自分をどう思っているかが絶えず不安なものだから、しきりに他人の動向をうかがっている。
 たとえばいま校門を出たばかりの高校生が、自転車に乗りながらまるで軽業師のように器用にメールを打っている。誰に対して? いま分かれてきたばかりの友だちに対してさ。その内容は? さあ知らんけど、他愛も無いことだろう、たとえば今晩のテレビ何見る?
 これは会話なんてもんじゃない。ちょうどボクシングで言うジャブのように、相手が離れないように、同時に余りに近く寄らないように繰り出すジャブ、あるいは野球で言う牽制球のように、相手がこちらの意に反して勝手に走り出さないように時おり投げる牽制球みたいなものなのだ。その種の「情報」がびっしり隙間も無いくらいに(幸か不幸か電波は場所をとらない)人々の間を飛び交っている。
 一昔前までは近所に必ずいたおせっかい婆さん、あるいは爺さんはいまや絶滅危惧種になっている。いやもはや死に絶えている。彼女あるいは彼は近所のガキどもに煙たがられながらも健気に子供たちの安全を守っていたものだ。しかし今あるのは、いたるところに設置された監視カメラ。でも監視カメラは危険をあらかじめ察知し知らせる頭脳なんぞ持ち合わせていない!
 最近、特に被災地の仮設住宅などで老人の孤独死が多発している。「絆」要員(なんでこんなところにこんなイヤな言葉を使うんだろ?)がドアを叩いてみたが返事がないのでそのままにして一週間後にまた訪ねても返事が無い、それでようやく変事に気づいた、などととんでもない寝言を語って、だれもその怠慢を指摘することもない。要するに下手な干渉を避けて当然と思っているわけだ。昔だったらうるさいほどドアを叩いて、それでも返事が無かったら合鍵で開けるか、それもなかったらドアを蹴り破るくらいは当然の状況なのに。

 我関せず焉(えん)の非情な世界、何がキズナだ!!!いけねえ、またキモチ悪くなってきた。今日はこの辺で止めておく。

 

【息子追記(2020年12月1日)】
この出来事も、当のかかわった人たちに少しでも「末期の目」があり、父という人間、その取り組んできたものを理解していて下されば、その真意を汲み取っていただけたのにと思うと残念でしかない。しかし、人間社会の現実を思えば、仕方のないことといえば、そうでしかないかもしれない。肝心の息子が当時、戸惑ったのだ。でも、今は全く違う。ともかく人々の間には魂の歩みの差があり、人間理解への岐路があるのだと思う(魂においては通じていると思いたい身内においてさえそうなのだ)。物事の在り方、人間としての在り方を筋でしか捉えない人には、父はわかってもらえないかもしれない(と考えると、先行きは果てしなく暗い)。であれば、もはやそれまでなのだ。ただ、父も私も、どのように思われようが、揺るがない。 

 

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ここに生きる

以下の文章は、月刊誌『カトリック生活』3月号に掲載されたものである。先月、編集長の関谷義樹神父さんに拙宅でインタビューを受けたおり、私はいつもの通りまとまりのない話をしたのだが、それを実に手際よくまとめてくださった。今号で1017号となる週間誌大の全頁アート紙の月刊誌で、3月号の表紙を飾るのは、雑草の生い茂った小高駅の鉄路である。これは写真家でもある神父さんを私が案内した折に撮られたもの。日本だけなく世界中の美しい景勝地や史跡を被写体にしてこられた神父さん(写真集やカレンダーがあります)の撮影時の思いはいかなるものであったか。それを想像するとき、見る者もまた改めて胸を締め付けられる思いがする。
 ともあれ、「福島からの問いかけ」を特集とする今号は、被災者から見ても実に行き届いた編集がなされていて、これが200円とは驚きである(別に宣伝費はもらってません、念のため)。でも〔念のため〕発行所を書いておきます。

〒160-0004 新宿区四谷1-9-7 ドン・ボスコ社



ここに生きる ――南相馬での新たな決意


震災直後のこと

 この辺りも震災の後は8,9割の人が避難していきました。町は閑散として、近所は夜、真っ暗でした。でも私は無謀にここに残っていたわけではありません。絶えず環境放射線値をチェックしていました。飲料水も一日遅れでしたが、全部データは出ていて問題ありませんでした。初めから放射線値は、飯舘村や福島市や郡山市よりも低いと出ていました。あとは風向きも気を付けていました。放射線の性質はペスト菌のように伝染しない、そしてサリンとか炭疽菌のように即死につながらないという二つの原則があります。毎日測定しているわけですから、距離の保ち方によったら大丈夫だと思いました。
 みんななぜあわてて逃げたかというと、政府や国の公的機関に対する不信があって、公式のデータは嘘で、もっと状況はひどいと信じ込んだからです。そしてツイッターなどの通信機器からのまことしやかな「真実」に踊らされてしまったのですね。放射能は目に見えないから怖いという情報だけが繰り返されて、これに洗脳されてしまった。もう少し落ちついていればよかったのですが。
 私は公的見解や発表された数値をひとまず(暫定的に)信じました。もし報道されているよりもっと深刻な事態があったとしたら、この狭い列島逃げ回っても意味がないだろうと考えました。だから最悪の状態、たとえば死を想定してそこから逆算していき、ここまでは大丈夫だと考えればいいと思いました。でも多くの人はそうではなく、たえず不信とか恐怖を足し算して不安に取り込まれていったのだと思います。
 当時、いろんな新聞が被災地の報道をしていて、南相馬市から福島市のある公園に避難した若いお母さんとお子さんの記事がありました。放射能が怖くて逃げてきたとある。しかし、その場所は当時ここの4倍の放射線量があったのです。もちろん「ただちに」の健康被害はないという線量ですが。私はここに残っていましたが、電気も水も通っていたし、線量もずっと低かったのです。けれど新聞記者がそれを理解していないし、避難している本人も避難しているというムードの中に飲まれて客観的になれてない状態でした。そういうおかしなことがいっぱいありました。
 一番気の毒だったのは老人、病人です。当時、南相馬市だけで半年で293人亡くなりました。無意味な搬送をしたことが原因です。医者も逃げ、夜道をわけのわからないうちに、カルテもつけられず車で連れて行かれた病人や老人たちがたくさんいました。それについて誰も責任を負っていませんよ。ある病院の院長は、私は間違っていなかったとさえ言っています。想定外の展開だったと。反省がまったくないのです。でもこれは医師法違反どころか過失致死に近い犯罪ではないですか?
 当時、98歳の母が近くのグループホームにいて、普段は十数人のスタッフがいたのですが、ほとんどのスタッフが避難していなくなってしまいました。もちろんスタッフの中には家が津波に流されてしまった人もいるでしょうから、家族と共に避難するのは理解できます。でも、避難指示区域ではないところのスタッフもいたはずです。でも逃げました。立派な職場放棄ではないですか?
 日ごろ、老人のために誠心誠意やりますと言っていた人がほとんど逃げた。それで「すいません。おばあさん、引き取ってください」と言う。私は母をよろこんで引き取りましたが、そのときに、引き取り手がいない老人が三人残っていました。行政の判断は、その三人をここより放射線量が四倍も高い阿武隈山地の霊山の施設まで送ったのです。そういうでたらめなことがありました。でも、そのあとの反省は一切ありません。想定外という言葉でごまかしています。


過剰な報道による二次災害

 震災後、絶えず流される報道は原発事故関連のことばかりです。しかし、きちんと物事を見極めて報道することがなく、上っ面を並べているだけです。
 南相馬市の一つの問題は、過剰な報道によってストレスが蓄積されてしまっていることで、これはとても深刻だと思います。今でも毎日、地方テレビ局は環境放射線値を伝えます。事故直後からほとんど同じで変化はないのに。行政はお化けみたいな線量計をそこらに設置しているので、絶えず意識がそこに向いてしまいます。家族で楽しいはずの団欒も放射能の話になってきます。逃げるなら別ですが、ここで生活すると決めた以上、もう考えないほうがいいわけですよ。
 テレビ番組もここを悲劇の町としてだけ扱います。私たちもそういう映像を見ていると、自分がとんでもなく異常な所にいるような気分になってきます。ですから、私はある時期から、もうそういう番組を見ないことにしました。読むと腹立たしくなってくるので新聞も読まなくなりました。
 沖縄戦によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)症状を60年以上たってから発症する患者が数多く存在することを発見し、長らくその治療にあたっていた蟻塚亮二さんという精神科医によると、南相馬も似たような症状が多発しているそうです。鬱(うつ)とは診断されないけれど「慢性的な気分の落ち込み」が続き、生活が崩壊したり自殺が危惧されるケースが多いといいます。普通の生活を送っていて表面はなんでもないのですが、将来に対する希望が消えて「ああ、死んでもいいか」とふっと思う危険だと。これは過剰な報道による二次災害といえます。


見えてきた日本という国、日本人の姿

 南相馬市は微妙な場所で、警戒区域、緊急時避難準備区域、原発から30㎞超えてなにも指示が出ていない区域と、三つの層から成る町ですから、いろいろなことがよく見えた場所でした。ここは悲劇と喜劇が織り交ざっている町です。純粋な悲劇もありました。線量が高くて逃げなければならなかった人たちがいたし、津波被害で死者も出ました。そして、微妙な悲喜劇。そして完璧な質の悪い喜劇がある。行政の、そして人間の愚かな姿が表れたことです。ものを考えないということによって出てきたいろんな喜劇がある。笑えればいいのですが、笑えない喜劇です。
 私は、認知症の妻の介護もありましたし、最初から覚悟を決めてここに残ろうと思いましたから、動かないことでいろいろ見えたのです。自然科学には位置を定めてする定点観察というものがありますが、私は必然的にそういう位置に立たされていたのだと思います。
 そして日本の本当の病巣は何かということが見えてきました。今は日本全体の重心が高く、浮き上がっている状況だと思います。日本社会というのは本当にひどい社会になってしまったと思いました。震災後、液状化現象が問題になりましたが、これと同じく魂の液状化現象が広がっていると。自分で考えない、判断しない。日本は法治国家で国民の遵法意識が高いといわれますが、そうではなく、言葉は悪いですが、国民は家畜化されて飼いならされた状況なのです。非常時のなかで有効に活用すればいいものがたくさんあるのに、優先順位を間違えてマニュアル通りでしか動けなくなっているおかしな民族になってしまったのです。教育においても物を考えることを教えていません。自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の心で感じて判断するという人間教育というのがないのです。
 復興とかいうけれども、行政に全部まかせています。本当の復興は点と点が結びついて、つまり何人かの人が戻って住んで励まし合って線になっていくのが、それが本当の復興だと思うのです。終戦後の日本は国そのものが崩壊していたから自分たちでがんばるしかなかったのですが、今は全部依存体質になって自分で何かをやるという力がない。補償待ちも問題になってきました。仮設住宅でも、町や村の違いで補償金の額が違ってきて、それで喧嘩になったりする。依存体質のなかで人間がさもしくなっているのではないでしょうか。
 もともと日本人は、武士道においても、“武士道といふは死ぬことと見つけたり”とあるように、死ぬことを覚悟してそこから生きることを考えてみようという美学とか美徳をもっていました。死を考えて、そこから考えれば正しい筋道ができると。しかし、今はまったく逆で本来の美徳をかなぐり捨てて、利潤、快楽、便利さを追い求めてきて、まだそれでも懲りない日本人がいます。無限に便利になっていくという幻想のなかに生きています。ヨーロッパは伝統を引きずっているのでブレーキがかかりますが、日本ほど近代において進歩主義を純粋に迷いなく受け継いだ国は他にありません。これがどれほど恐ろしいことか。原発事故というのは日本人にとって警鐘のはずなのですが、警鐘を警鐘として捉えていないということが一番の悲劇だと思います。原発事故よりは、今置かれている日本人の姿のほうがはるかに怖いですね。


ここに生きる

 最近は、沖縄のことをよく考えます。本土の人はどれだけ沖縄にひどいことをしてきたか。それに対してどれだけ沖縄の人が辛抱強く戦ってきたか。構造的にいうと沖縄の米軍基地問題と福島の原発は同じです。効率的に考えれば東京湾に原発を建てたほうがいいのに、リスクを福島に押し付けた。人が少ないし反対運動が出ても、お金で解決したのです。沖縄に対してもそうです。
 原発事故も、その事象だけを見るのではなく、長い人間の歴史、とくに日本の、そして東北の歴史の一つの出来事として見ると何かがわかるはずです。東北は収奪の歴史を繰り返されてきました。その歴史の一つの結果としてのこの事故があったと見ることはできないでしょうか。これを機会に東北の歴史を取り戻せたらと思います。
 東京など各地で反原発の集会をやっていると聞きます。当然の主張ですが、でも被災地住民としてはときどき違和感を覚えます。もちろん反原発をもっと主張して欲しいと思います。ただ被災者の苦しみを踏み台にして欲しくないのです。予測を含めて被災地がどれだけ悲惨であるか、と強調されるたびに被災地住民は心理的に追い込まれるからです。原発自体が、ものすごく反自然であり、反人間的であるから原発に反対する。これが原点で、そこから出発して欲しいのです。
 ここに生きる、ここに拠点を持つということ、そういう人が増えて、時間がかかるかもしれませんが、そこからゆっくり広げていけばいいと思います。この中で見えてくるものを、さあ一緒に頑張って育てていきましょうと言いたいです。
 今のこの瞬間、この土地で、この生き方を貫きとおすことによって希望を見出していきたい。ここで生き、ここで一生を終えると私は決めました。ここを動かずにじっと耐えながら、花が咲くのを待ちたいと思います。その中で萌え出てくるものをいつくしみ、ここで生きるための力を汲みとっていきたいです。現実を捨てて、ユートピアをとることはしたくはありません。現実には苦しみも悲しみもありますが、それも私にとっては宝ですから。今ある現実を全的に受け止め、そこにあるわずかな光を大事にしていきたいですね。ローマの詩人ホラチウスの言った「カルペ・ディエム!」、つまりこの日を掴め、今という時を大切に、という気持ちで生きていきたい、いや生きていくべきだと思います。

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そのまま思い出のようなひと時

机脇の手造り本棚から何気なしに三好達治の文庫合本を取り出す。『三好達治詩集』、『三好達治随筆集』そして『詩を読む人のために』の三冊の手造り合本である(いずれも岩波文庫)。手造りといっても茶色のなめし革で装丁されたなかなかの豪華本である。頭が疲れたり、気分が鬱屈しているときなど、ぱらぱらとページをめくる。そうした類の本には、他にも志賀直哉の短編集や伊東静雄の詩集がある。最近はそれらに、わが宗匠・眞鍋呉夫の定本『雪女』が加わった。
 それはともかく、達治の詩集『南窗(なんそう)集』の中にこんな素敵な詩を見つけた。友人・梶井基次郎への挽歌「友を喪ふ 四章」の一つ「路上」である。

巻いた楽譜を手に持って 君は丘から降りてきた 歌ひながら
村から僕は帰ってきた 洋杖(ステッキ)を振りながら
……ある雲は夕焼のして春の畠
それはそのまま 思い出のようなひと時を 遠くに富士が見えてゐた

 梶井が亡くなったのは1932年3月24日。そのころ三好達治が彼とどのような交流をしていたのかは知らない。たぶんこの詩は、実際の出来事ではなく帰天した基次郎を空想の中で悼んだ詩かも知れない。
 先ほど素敵な詩と言ったが、私が強く引き付けられたのは「そのまま 思い出のようなひと時を」という詩句である。そのまま思い出のようなひと時…
 雑駁に過ぎ行く日常の中にも、なぜかそのまま、つまりまるで写真や絵画のフレームの中にしっかり取り込まれたように感じられる瞬間があるものだ。目の前の情景を体験している、見ている自分とは別に、未来の自分の眼差しにも捉えられていると感じるような情景…そんな体験をこれまで何度もしてきた。たとえば…
 たとえば、もう20年ほど前の或る爽やかな秋の一日、鎌倉の日本庭園で眞鍋宗匠囲んでの実に文学的な集まり(それが何の集まりだったかは忘れてしまったが)に美子と一緒に参加したときの、柔らかな午後の緑色の光の中の数刻。あるいはちょうど今ごろの季節、まだ歩ける美子と夜の森公園の大きな銀杏の樹の下を通ったときの黄金色の光の中の数分…そして不思議なのは、いずれの場合にもその瞬間、あゝこれはそのまま思い出になるな、と確信していたことだ。
 と考えると、先ほどの達治の詩に描かれた出来事も空想の中のものではなく、過去のある時点で実際に起こったことと考えた方がよさそうだ。つまりそのとき、達治は「あゝこれはそのまま思い出になる」と心の中で強く感じたに違いない。
 でも本当は、そんな特権的な時間だけではなく、すべての時間が、すべての体験が「そのまま思い出になるように」生きなければならないのではないか。そのとき時間は直線状に未来へと続くのではなく、いわば螺旋状に現在に重なってくる。
 ということは、奈落の底からの視点、終末からの視点、限りなく重心を低くした視線、「末期の眼」などもすべて同じことを言っているような気がする。さらに言うなら、人はそのような瞬間の中に「永遠」を垣間見る、先取りする。

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美しき停滞

数日前、ロブレードさんから十二分ほどのビデオ映像が電送されてきた。十月四日から福島県立美術館で二ヶ月間開催される「ホセ・マリア・シシリア 冬の花」展の開催期間中、場内で希望者が常時見れるように作られた紹介ビデオである。内容は南相馬の海岸を歩きながらのシシリアさんの哲学的な独白から始まって彼の前衛的な作品紹介へと続くが、中ほどに私たち夫婦のシーンが出てくる。美子と私が車を降りて夜の森公園の坂道を登っていく場面(あゝ懐かしい、震災の年の秋だ!)と今年四月、拙宅でのシシリアさんとの対話で私が話す短いコメントである。(近く完成ビデオを「取材映像」に収録させてもらおうと考えている)
 先だってのスペインテレビの時もそうだったが、私がいちばん伝えたいメッセージが実に的確に紹介されている。今回は(毎度の主張だが)、現代日本がいかに進歩幻想にイカれているかに怒(いか)っている(すみません、つまらぬ言葉遊びです)私の話が流れる。日本だけではないが、なかでもとびきり日本が進歩幻想に冒されているとの指摘である。
 そしてたまたま今朝方読んでいた司馬遼太郎・井上ひさし対談集『国家・宗教・日本人』の中で、その発言と呼応する司馬遼太郎の面白い発言を見つけた。つまり息せき切って進歩を追い求めてきた日本がいま最も必要とするのは「美しき停滞」だという意見である。
 お二人がもし生きておられたら原発事故及びその後の日本についてどういう発言をされたか、非常に興味がある。要するにイリッチの言う「プラグを抜く」勇気、古い喩えを使うなら「パンドラの箱を閉める」勇気と同じことを主張されたのではないか、と推測している。だが明治の開国以後、闇雲に走ってきた日本にとって、実はこの美しき停滞こそが至難の業なのだ、つまり賢い減速ができないのである。
 ところで話はいつものように突然変わるが、実は今、バルセローナのカタルーニャ語発信のARAという新聞社から紙上インタビューを申し込まれて回答を執筆中なのだが、いくつかの設問の中にとうぜんオリンピック招致に関しての質問が入っている。つまり今回の日本招致の際、汚染水問題などに対して煙幕を張ったのではないのか、という痛―い指摘である。
 それに対してはこう答えようかな、と思っている。確かに海外の人から見れば煙幕とか誤魔化しに見えるであろうし、それを否定することは不可能だ。事実、日本でも私のものも含めてそうした批判が続出している。だからそうしたごまかしを弁護する気は全く無いのだが、敢えてもう少し事情説明をするとすれば、実は当事者たちにその意識は「希薄」だということである。つまりインチキをしているという意識はほとんどなく、あるのはただひたすら「一丸となって」経済の好転を、苦境脱出を、との「気迫」(また言葉遊びです)の表れであろう、と。
 でもそこが実はいちばん恥ずかしいところ、要するに一向に悪びれるところがないので始末が悪いわけだ。つまりそうした発言なり態度が一見外向きのものように見えながら実はひたすら内向きのものであり、それが国際的には明らかにインチキ・誤魔化しに見えるということに思い至らないのである。
 太平洋戦争その他での日本の愚行に関して関連諸国といつまでたっても問題を起こし続けてきたというのも、同じ心理機制から生じている。つまり当人たちには、真面目に必死に一丸となってやってきたという意識しかなく、それが他者に対するとんでもない蛮行であったという認識が希薄なわけだから、悪びれるところが無いのである。こうした日本人の心理機制を、『菊と刀』のルス・ベネディクトは恥の文化と呼んだ。つまり罪の意識が希薄で、ひたすら対面を気にする文化という意味で。
 ただルスさんには申し訳ないが、それについてはいささかの反論がある。問題がややこしくなるので、ごく簡単に言うと、欧米流、つまりキリスト教流に言う「罪の文化」と対比された「恥の文化」は確かに分が悪いが、しかしその恥をもう少し良く見てもらいたい思うのだ。簡単に片付けられない難問に入ってしまうが、要するにある意味で「恥を知る」文化は「罪の文化」を凌駕することもありうるということである。つまり「恥」といってもそれこそ体面というひたすら他者の評判を意識した表層のものから、罪意識よりさらに内面に届く恥の意識があるということである。
 要するに、絶対者の前におのれの罪行を深く反省し、その結果許されたと考えることによって、俗な言葉で言うなら「すっきり」するのに対し、恥はたとえ被害者から許されたとしても(絶対者を持たない文化では)、その恥は己が死をもってしか完全には雪(すす)がれる事は無いのである。
 そう、ここでこのところ考え続けてきたサムライの感じる恥に行き着く。こんなところで持ち出すには少し躊躇するが、『葉隠』の言う「武士道と言ふは死ぬことと見つけたり」もこのあたりのことを言っているのではないか。そんなことを言うと、とたんに三島由紀夫流の右翼思想と同一視されてしまうので、大急ぎで私見を持ち出すと、武士道の言う死は単に天皇とか主君への忠義立てというより、常に死を覚悟することによって己が生き方を律するという意味ではなかったか、と愚考するのである。
 ただ『葉隠』などこれまでヒットラーの『わが闘争』程度の危険文書として毛嫌してきたので、これではいけない、とさっそく和辻哲郎・古川哲史校訂の『葉隠』三巻本(岩波文庫)を注文したところである。(あゝしんど、またもや難問を抱えてしもた)
 閑話休題。私の言いたかったことは、このところの偽サムライ、似非伝統主義者は、そうした真の「恥の文化」を継承していないのではないか、ということである。つまりオリンピック誘致運動に端無く(はしなく)も露呈したのは、恥知らずな振る舞いだということ。彼らの好きな言葉を逆用すれば、彼らの罪「万死に値する」と。もちろん、こんな長―い、持って回った説明を外国の新聞社にするつもりはないが。
 ところで例の本の中で、そのあと司馬遼太郎は面白い例を挙げている。つまり先だって引退宣言をしたアニメ映画の宮崎駿さんが、『紅の豚』の登場人物の一人、アメリカからイタリアの町工場主のおじいさんの所に戻ってきて飛行艇を設計する十七歳の女の子の役を一般の人たちから募集してテストしたところ、ほとんどみな娼婦の声で駄目だったという話である。娼婦と言う言葉で何を意味しているのかはにわかには判じがたいが、しかし何となく分かるのは、凛として自己を主張できる女の子がいなかったということではないか。
 これも先日ここでボヤイたこと、つまり最近いわゆる女子アナ(嫌な言葉だ)なるものがニュースを読むときの声がやたら気になるということと繋がる。要するに発声からしてすでに媚びた声の持ち主が大半を占めるということだ。古い言葉を使うと「衣食足りて礼節を知る」ことが無い日本の悲劇である。あるいは「足るを知る」ことができない日本の悲劇。しかしこれは先日来話題にしてきたサムライの生き方の真逆の生き方ではないか。
 「足るを知る」は老子の言葉だし、もうひとつ「朝(あした)に道聞かば夕べに死すとも可なり」は孔子の言葉という具合に、サムライたちの生き方を律していた哲学は、中国発祥のもの、それを日本古来の哲学と合体させて自家薬籠中の物として独特な色合いに染め上げたものが武士道だとすれば、武士道も決して排他的・自閉症的な生き方ではなく、広く世界中の人に共感してもらえる哲学であり文化であると言えよう。
 つまり私の知る限り、スペインやメキシコなど世界中にいる日本文化愛好家たちが憧れるハポン、ジャパンの文化は、今や絶滅危惧種となっているのではないか。遅まきながら私が近ごろ向かおうとしているのは、その保護運動の一種かも。
 ちょっと話が長―く、しかももつれてきました。尻切れトンボではありますが今日はこれにて失礼、お粗末でした。

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腑に落ちぬこと

参院選は予想通り、自民党圧勝のうちに終わった。あまりにも馬鹿げた結果なので、わが瞬間湯沸かし器はコトリとも音を立てなかった。笑っていいとも、どころか、笑うっきゃない事態だからだ。
 ところで孫たちはいま無事里帰り中である。一昨日の電話で、愛はこっちのキューリはあまり美味しくない、原町のキューリが食べたい、と言ったあと、おじいちゃんに会いたい、などと殺し文句をつぶやいた。幼いながらこちらの心理を見抜くことにかけては天才である。
 それはともかく、選挙の話に戻るが、どうしても腑に落ちないことがある。ネットの新聞をすべて調べたわけではないが、しかしそのことについてどの新聞も取り上げてもいないようだ。つまり一人区の福島県で、自民党の森雅子が脱原発を訴えて圧倒的な票を集めて当選したことである。再稼動に舵を切った自民党公認の候補者、それもたぶん閣僚経験者(少子化担当でしたっけ?)が堂々と脱原発を訴えたこと、これ許されることなんでしょうか? 現職の首相夫人が脱原発を公言していることの欺瞞については既に書いたが、しかし夫人は政治家じゃない。しかし森議員はばりばりの政治家。これっておかしくないですか?
 「なんだべー森昌子に似て美人だこと。んで、生活も豊かになって、ほれ原発も廃炉にしてくれるんだと。こんないいことなかんべー」(いやいや自民党政権が続くかぎり、たとえ雅子ちゃんがその中で何と言おうと、再稼動、原発輸出はいよいよ加速するだけ。そのうち可愛い孫たちは嬉々として国防軍兵士に志願しまっせ。いややがては徴兵制度復活、さらには国民皆兵かもね。いやそこまで行かないとしても、戦争のできる普通の国にするというのが彼らの究極の狙いでっせ)
 急いで新聞を読んでみると、彼女、福島県の全原発の廃炉を訴えて、いろいろと迷っていた選挙民の心を捉えたらしい。でもこれ、よく考えて見ると、いや考えるまでもなく断然おかしい。日本のすべての原発の廃炉を訴えるならまだしも(それさえも自民党の中にいながら主張することはゼッタイおかしいが)、弱り目に祟り目の被災民からなんとしてでも票をかっさらおうとする魂胆が見えみえのえげつないというか、あざとい戦法である
 こんなインチキにやすやす引っかかる被災民も被災民、国民も国民だ(いま危うく非国民と書きそうになった、クワバラクワバラ)。これまでいつも言ってきたことだが「清き一票」なんて欺瞞もいいところ、何も考えない、というよりひたすら自分たちの生活の利便しか考えない無辜の、いやいや無恥の、民の一票など何の価値も無いどころか、今の日本の政治がまさにそうであるように、行き着く先は「衆愚政治」の見本みたいなギマン社会以外の何物でもない!
 静かだった湯沸かし器が沸点に近づいてきました、もう怖れるものなんか何も無い!こんな情けない状態に置かれている被災民ですらこの体たらく。いいよいいよ、滅びの道をまっしぐらに進んで行きゃがれ!
 といって、私たち老夫婦だけならこんな日本ぶっ壊れても屁とも思わないが、でもねー可愛い孫たちがこれから生きて行かなきゃならない世界、放っておくわけにも行かねーべ。さてどうすっぺ。
 話はがらっと変わるけんちょも(たぶん屁に誘われて)、昨日は出ずに心配していたが、そしてもし今日も出なかったら○○取りの翁がカンチョー持って出動と覚悟してましたが、午後一時十五分、いつもの通りやってきたケアのお二人に任せて翁は自室の机の前で固唾を呑んで待ってました。目安の十五分が過ぎても連絡無し。さあいよいよ出動。買いだめしていたカンチョーを一本もってトイレに直行…出ましたよ出ましたよ!
 さあ、こうなりゃ槍でも鉄砲でも持ってきやがれ! 何!再稼動だと!……おっと、それやっぱ、まずいっしょ。
 最近、元気が出ないときには鄭周河さんの映像と声を聞きます。そしてついでにスペインテレビの貞房さんと美人アナウンサーのマルタさんのナレーションを聞きます。貞房さんは、何も自己判断の出来なくなったこの日本を再建するには政治の仕組みと、とりわけ教育の抜本的見直しが必要だと訴えてます。マルタさんは最後のところで、日本人はいまお金と利便・快適だけを求めるという悲劇に見舞われています、という貞房さんのメッセージを代弁してます。あゝその貞房さんの悲痛な叫びが日本のテレビからも流れていたら!(残念!たとえ流れたとしても聞く耳が無いか!)
 最後に貞房さんのキーワード二つの補足をします。
 英語のライフという言葉には大きく分けて二つの意味、すなわち生命と人生、があると言ってきましたが、正確に言うともう一つ、つまりそこに「生活」を加えなければなりません。もちろん生活は「命あっての物種」と言うように、どちらかと言うと「命」に近い概念です。でも便利で栄養過多の生活をすることによって、命そのものを縮めるという二律背反的な関係にもなります。キリストの言う「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」(聖ヨハネ福音書、第12章24節)という厳しい言葉もあります。
 ともかく今の日本は、生活(水準)を重視するあまり、生命やかけがえの無い人生を粗末にする国に成り下がっていることだけは確かです。
 もう一つの補足は、伴淳のアジャパーというギャグについてです。「アジャ(スペイン語では<向こう>はパー(何も無い)よ)と無理にこじつけたが、もともと「パー」は「クルクルパー」の「パー」であることを思い出した。これでもいい。つまり「お前達がしきりに目指しているあちらには何も無いよ」という意味でもいいし、「あちらはアホの向かうところだよ」という意味に解してもいいということである。もう一つの解釈もある、つまり「パー」をフランス語の例の破裂音の「pas」、つまり「ne」と一緒に否定の意味を持つ副詞ととっても貞房氏の[オヤジ]ギャグは成立するわけだ。以上蛇足でした。

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南無三、地球は投機で回ってる!


 しばらく画面から消えておりました。NHKの鄭周河さん紹介の番組やら、スペイン・テレビの拙著紹介の番組やらで、文字ではなく生身の貞房を晒しているので、その方でしばらく時間がかせげる(?)わいと、怠けていたこともありますが、もうひとつ、何とも中途半端な時間を過ごさざるを得なかったからでもあります。
 つまり先週、毎年一回の精密検査で心電図やら尿の検査やら胸部レントゲンやらをしてもらったのですが、その問診の際、胸部レントゲン写真を見てI医師が「これは血管が重なって出来た影だと思いますが、安心のためCTを撮ってもらいましょう」と近くの病院に予約を入れてくれたのです。なんとも気分的に落ち着かない五日目が今日で、午前中病院で撮影してもらい、いま帰ってきたところ。結果はいつ分かるか聞いたところ、クリニックに届くまで3、4日かかるとのこと。何でもスピードアップの時代にそれはないでしょ、と思ったけれど、これだけは待つしかない。
 で、これ以上中途半端な執行猶予の時間を気もそぞろに待つのは馬鹿げている、もうそれについては考えずに、しっかり「生きて」行こうと考え直したところです。でも世の中には、今も持病を抱えたり、余命を気にしながら生きている人がどれだけいるかことか、その人たちにとって毎日がどれほど大変なことか、と考えると、掛け値なしに偉いなあ、とその人たちを尊敬してしまいます。
 私にとって、たとえば今入院とか手術とかが必要になったとしたら、いちばん困るのはその期間、美子の介護が出来ないことです。それだけは何としても避けたい。強がりを言うつもりはありませんが、美子のことが無かったらどんなことでも耐え抜けるのですが…
そして唐突にこんな都々逸をつぶやきました、「貞房殺すにゃ刃物はいらぬ、入院必要告げりゃいい」。つまり日ごろ勇ましいことを言っても、貞房にとって妻・美子は泣き所というわけ。ところでこの都々逸まがいの文句の元歌は、「ニコヨン殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の三日も降ればいい」だと思いますが「ニコヨン」といっても今じゃぴんと来ないでしょう。ニコヨンはつまり昭和20年代の半ば、失業対策事業に就労して職業安定所(今のハローワーク)からもらう日給が240円だったことから土木作業員(土方とも言った)を意味した言葉。いろんなバリエーションがありますが、傑作は「噺家殺すにゃ刃物はいらぬ、あくび一つもあればいい」でしょうか。
 それはさておき、この五日間、もちろんただぼーっとしていたわけではない。もしも結果が悪い方に出たらどうしようか、としきりに考えていた。美子の世話ができなくなることを怖れたただけではなく、おかしくなってきた日本をこのままにしておきたくはない、といよいよ切迫感が増してきました。比喩的表現ではなく文字通りの末期の目から見れば、多少の問題はあるにせよこのまま日本が、そして世界が推移していくと考えている多くの人たちの目を覚まさせないうちに自ら果てることはなんとも我慢がならぬ、などひとり怒っていたのです。原発事故の収束さえ覚束ないのに、あたかも何事も無かったかのように愚かな政治を進めている安倍晋三よ、お主は後世の評価では「愚者列伝」の筆頭に来る政治家だぞい、などとつぶやきながら。
 いやいや冗談じゃなく、日本を筆頭に、世界全体がおかしいのですぞ。地球を何千回、いや今だったら何万回でしょうか、ぶっ壊すことが出来る核弾頭が存在すること自体、どう考えったっておかしな世界でしょ。「笑っていいとも!」なんてアホ面下げて笑ってる場合じゃないんですよ、ほんとに。
 いやいや、もう何回も書いたり喋ったりしてきたことですが、この世界は理想や信条や善意の人たちの努力によって動いてるんじゃありません。はっきり言えば「投機」によって動いてるんですよ。こんな世界になったのは、そんな遠くの昔じゃありません。長くても2、3世紀この方のことです。マルクスがどう言おうがケインズがどう言おうが(あと名前が出てきません)、この世は明らかに「投機」、あるいは「投機心」によって展開してます。ガリレオが異端審問所で「E pur si muove! それでも地球は回ってる!」と言いましたが、いまはそれを少し換えて「南無三、地球は投機で回ってる!」と言わなければなりません。
 もちろんこんな世界を一気に元に戻すことは不可能です。革命なんてやっても無駄なことです。でもこの世がおかしいということを少なくとも自覚すべきでしょう。何?無駄なあがきは止せ、ですって? そうかなー、パスカルの「考える葦」じゃないけど、いやそうだけど、人間の尊厳て、突き詰めていけばそこに尽きるのじゃない?
 そして我らがウナムーノが『生の悲劇的感情』で引用しているセナンクールの『オーベルマン』の決定的な言葉を、今日の結論としてだけでなく、いまの私自身への自戒、いや励ましの言葉にしましょう。

「人間は死すべきものである。確かにそうかも知れない。しかし、抵抗して死のうではないか。そして無がわれわれに予め定められているとしても、それを当然と思わぬことにしよう


★3日朝の追記 渡辺一夫さんの、確かフランス・ユマニスムについての文章の中で読んだ言葉だが、現代に生きる私たちへの無上の覚醒と励ましの言葉を取り急ぎ書き加えておく。「この狂気の時代にあって、唯一残された道は、いかにして正気であり続けるか、である」。(正確な引用はまたの機会に)

★★同じく3日朝の追追記 先ほどとつぜんクリニックから連絡が入り、昨日の結果が出たのでいらっしゃいとのこと。取るものもとりあえず(もちろん美子の安全を確認して)出頭(?)しましたら、CT検査の結果、ガンその他の心配は一切無い、という嬉しい判定結果。八割がた大丈夫と信じてはいても、これだけは実際に結果が出るまで心配なものです。でも待合室のテレビから流れる映像は大飯原発再稼動のニュース、嗚呼!一難去ってまた一難、さあ皆さんめげずにすべての原発廃炉まで息の長い戦いを共に戦い抜きましょう!

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避けられない課題

ちょうどエアポケットに入ったみたいに、すべてに張り合いを失い、思うことといえば、残された時間のことを考えれば所詮すべては中途半端に終わるのでは、などと柄にも無く(?)弱気の虫に取り付かれた数日が続いた。こんな気持ちに襲われたことはこれまでだってしょっちゅうあることなので、別に慌てはしなかった。そう、こういうときは機械的な手仕事を続けること。私の場合は古本装丁の作業である。今回はメキシコの小説家のものが中心となった。それにはあと数日で、メキシコ大使館からの客人を迎えるための心の準備の意味もあった。
 今回の訪問は、例のオクタビオ・パスの長詩『太陽の石』の朗読会に関連する流れの中の一環である。つまりこれまで何度か触れてきたように、一昨年の大震災・原発事故を追悼する意味で企てられた詩の翻訳・朗読の催し(初回は三月八日、東京の芭蕉記念館で)が、ここ南相馬でも行なわれる話が持ち上がった矢先、それがちょうど400年前の慶長地震・津波の際にヌエバ・エスパーニャ(メキシコの前身)の特使セバスティアン・ビスカイーノが相馬を訪れたという史実とぴたり重なったことから、俄然新しい意味を帯び始めたのである。
 実はその下調べのこともあって、今回の朗読会の世話人のひとり阿波弓夫さんが先月南相馬にいらしたので、いつもの通りメディオス・クラブ事務局長の西内さんを交えて第一回の打ち合わせをした。今週後半に予定されている訪問はそれの本格始動への第一歩のためである。詩の朗読会そのものがメキシコ政府と日本政府合意の下の文化交流であったのだが、来月または六月開催予定の催しは、はっきりメキシコ大使館が前面に出る行事になるわけで、そうした公的な対応にはまったく不慣れなわがクラブはいささか心もとない気がしないでもない。でもできないことを無理してやるわけでもなし、できることだけしっかりやれば…
 いやそんなことを書くつもりではなかった。例の装丁の作業だが、先ずはオクタビオ・パスのスペイン語詩集やらエッセイ集を合本にしたり、布表紙にしたりしているうち、彼の『孤独の迷宮』(高山智博・熊谷明子訳、法政大学出版局、1990年、第5刷)が読まれないままだったことに気がついたこと。そしてそれを飛ばし読みしながら、メキシコそしてメキシコ人が抱えるとてつもない困難な課題に初めて目が開かされたことを報告したかったのである。つまりかつては長らく宗主国スペインの支配下にあったが、1821年の独立以後、一度は途切れたスペイン征服以前のマヤ・アステカ文明との連続性をも徐々に回復しつつ、国民の大半がインディオとスペイン人の混血(メスティソ)という独特な人種構成もあって、ユニークな国づくりをしてきた、との一般的な認識しか持ち合わせていなかったが、ことはそう簡単ではなかったことを改めて教えられたのである。簡単に言えば、独立運動を主導したのはクリオーリョ (現地生まれのスペイン人) だったということは、スペインからの独立は彼らのそれではあっても、決して社会構造そのものの変革ではなく、むしろ現代にも続く独裁者の温床はそのまま残ったということである。

 「…新生諸国はそれぞれに独立記念日を持ち…民主的な憲法を制定していた…だがイスパノアメリカでは、植民地体制の遺骸の上に、近代的な衣を着せただけのものであった。自由と民主主義的な観念は、我々の歴史的な状態を具体的に表現するどころか、むしろそれを隠したのである。政治的な虚偽が、まるで体質的ともいえるほど、我々国民の中に取りついた。精神的な弊害ははかり知れず、我々の本質の奥深くにまで達している。我々はごく自然に、嘘の中で動きまわる…」

 パス(1914~1998)のこの言葉を読みながら、彼の一世代あとのカルロス・フエンテス(1928~)までが執拗にメキシコとはそも何者か、という難問にどうしてあれほどこだわってきたのか、その謎が少し分かり始めている。フエンテスの名前まで出してしまったが、ここでも恥を忍んで白状しなけばならないが、わが敬愛する先輩・西澤龍生さんが訳された彼の『メヒコの時間』(新泉社、1975年)もまたこれまで読まずじまいなのだ。 冒頭に述べた悲しい現実はそのとおりだが、しかし中途半端に終わってもいい、死ぬまで、いやボケが来るまで、日々新しいことにも挑戦していこう。
 そしてパスの言葉をもう一度よく読み直して見ると、これは決してメヒコやイベロアメリカ諸国だけの問題ではなく、わが日本にもほぼそのまま当てはまる指摘ではないか。「和魂洋才」は掛け声だけで、実は「魂」までが近代的な衣装をすっぽり被らされ、自分にさえ自分が分からなくなってしまっている、見えなくなってしまっている、それが日本であり日本人の現実ではないのか。政治のみならず社会そのものが体質的虚偽に浸食されているのではないか。
 言われている地方分権も、そうした中央の体質構造をそのまま地方に移し変えるだけなら、ちょうどほとんどの地方都市がリトル・トウキョウ化しているのと同じではないか。これまで何度も繰り返し主張してきたように、今回の不幸な震災・原発事故がすべてに亙っての自己点検の機会であるべきなのに、そのチャンスをまたもや見逃そうとしている。
 政治についてもそうだが、私としては特に教育に関して大変な危機感を持っている。このままならアイデンティティを持たない人間、私流の言葉で言えば、限りなく魂の重心が高い、というより重心を欠いた等質の人間を金太郎飴製造機のように作り出すだけのものであろう。政治の地方分権以上に緊急の課題は教育の地方分権である。硬化した日教組も問題だが、それ以上に硬直し巨大化した文部科学省の地方分権、というより解体が必要である。
 大昔、私が帯広市柏小学校の生徒であったころ、十勝開拓の父・依田 勉三(よだ べんぞう、1853~1925年)のことを教えられ、子供心に深い印象を残した。後年、静岡の常葉学園大学の教師になって学生たちを夏季合宿に伊豆に連れていった際、そこの松崎が勉三の生まれ故郷であることを知り、まるで自分の故地に出会ったような不思議な感動を覚えたものである。しかしいま考えると、彼はちょうど新大陸を征服したスペイン人のようなものであり、本当の十勝の歴史教育はアイヌの歴史から始められなけれならなかったはずだ。
 それはともかく、この教育システムがこのままだと、「笑っていいとも!」のスタジオ参加者のように、同じくだらぬ冗談に、同じタイミングで馬鹿笑いする国民の大量生産に役立つだけだろう。いやシズテムをいじるだけでは、これまでの教育改革の轍を踏むだけだ。まどろっこしく見えるかも知れないが、国民全体の中に本当の意味の覚醒がなされなければすべては無駄であろう。とてつもなく大きな難問を、メキシコや中南米諸国のみならず、わが愛する日本もまた突きつけられていることに先ずは気づくことだ。
 そう考えると、無気力に陥っている暇など無いわけ。さあ元気を出して頑張ろう!

※文中、メキシコをメヒコと言ったり、中南米をイベロアメリカとかイスパノアメリカなどと呼び混乱させて申し訳ない。先ずメキシコ(México)、この場合の x の発音はJ、カタカナにすればハ行、つまりヒと発音される。だからスペイン語圏の人はメキシコをメヒコと言う。またイベロアメリカはポルトガル語圏のブラジルを含んだ呼称で、一般に中南米を指すラテンアメリカ(ラテン系アメリカ)と同義であるが、しかしイスパノアメリカと言う場合はスペイン語圏アメリカすなわちメキシコ以南のブラジル以外の国々を指す。念のため。

※※表題を「避けられない課題」としたが、しかしこの難問はしてもしなくてもいい哲学論議と違います。つまり「生きる」とは究極的かつ必然的に「生きるとは何か」を問うことと同じであるように、「日本とは、日本人とは何者か」と問うこと自体が、真の日本、掛け値なしの日本人であることに繋がるのです。何?面倒くせえだと?「愛する」ことが限りなく面倒くせえことであるように、この世で真に価値あるものは、確かオルテガさんもどこかで言ってたように、すべからくメンドウクセエことなのさ。すべてはその覚悟ができるかできないかにかかっている。いやなに、しかめ面して深刻ぶるのとは違いまっせ。爽やかににこやかに、楽しみつつ生きていくことでっせ。念のため。

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先ずは心の除染を!

先週の日曜日、すぐ隣りのカトリック教会で行なわれた「日本カトリック部落差別人権委員会」というグループの春季合宿で一時間半ばかりお話をしてきた。どういう委員会でどういう活動をしてきた会なのかは知らないが、その会のお世話をしている一人のシスター(昨年、駅近くに設置されたカトリック・ボランティアセンター担当)に頼まれてのお出ましだ。
 ちょうどミサが終わったらしい聖堂の中で、しかも祭壇にお尻を向けてお話するのはいささか恐れ多い気もしたが、しかし話していくうちそのことはすっかり忘れ、時に持ちネタの駄洒落、さらには例の(?)終末論とスカトロジーの相関関係にまで話が及んで、あとから反省したがそれこそ後の祭り。
 それはともかく、日ごろ話し相手に恵まれないために溜まりにたまった数々の思いを際限なく話すのは避けたいと自戒していたが、しかしむかし取った杵柄というか、1コマ90分の体内時計がきっちり作動して、終わってみたらちょうど一時間半であった。西は広島あたりからの人もいるらしい合計30名近くの参加者は、大部分は私ぐらいの年配の人だったと思うが、その人たちに向かって言ったことをまとめにまとめて(この言い方埴谷大先輩に似てきたが)言うなら、遠方から見れば確かに南相馬は被災地・悲劇の町だが、私のように初めから動かずに定点観測をしてきた人間からすれば、8割がたは喜劇、それも質の悪い喜劇の町だということ。つまり愚かな行政と、自ら考えることをしない住民による喜劇である、と。
 放射能による死者は、少なくともこれまでのところゼロだが、慌てふためいての自主避難はまだしも、病人や老人の半ば強制的な移動もしくは移送は、ある場合は医師法違反どころか犯罪に近いものがあった。益体も無い事故後検討会とかで、南相馬はなぜ293名もの病人や老人の死者が出たんだろう、なんてすっとぼけた発言を、何の批判も加えないで報道するマスコミには、怒りを通り越して開いた口がふさがらない、などの話もした。
 被災者の一人の、苦しい体験談などが聞かされるだろうと思っていた参加者たちも、祭壇を後ろ盾に怒れる一人の老人が矢継ぎ早に悲劇の町の実態を暴いていくのを、たぶんあっけにとられて聞いていたのではと心配したが、後日、主任神父さんから皆さん喜んでおられましたよ、と聞き、ほっと胸を撫でおろした(古臭い表現だが)次第である。
 ところで話は変わるが、午前中、気になっていた例の郵便局宛ての手紙を何とか書き終えた。原町郵便局にはどうせ午後出かけなければならない用事があったので、窓口に置いてきてもよかったのだが、今回はきちんと90円の切手を三通それぞれに貼り、郵便番号・住所もしっかり調べて書いて投函してきた。どういう反応があるのか楽しみでもあるが、その文面を保管しようとわがパソコンのドキュメント収納箱を覗いてみたら、これまでも3通ほど郵便局宛てに書いた抗議文が残っており、それらには文書でのまともな返答など無かったことを思い出し、とたんに興も醒めてしまった。
 それに追い討ちをかけるように、午後の配達で福島県保険福祉部・健康管理調査室というところから分厚い大型の封筒が私と美子宛てに二通も届き、中を開けてみると、「県民健康管理ファイル」というものが入っていた。A4の文書が入る立派なファイルである。福島県と福島医大が主管する「県民健康管理調査」に関する結果などを保存して「家庭用カルテ」として使ってくださいということらしいが、申し訳ない、別の書類入れに流用するつもりだ。
 過去二回ほど送られてきた調査票はいずれも破棄した。それらは外部被曝線量などを推定するための資料にするらしいが、はっきり言って当時のことなど思い出したくもないし、それを記録して届け出ることもお断りしたわけだ。将来のための基本資料に役立てたいだと? おいおい、またこんな事故があると想定してるんかい? こちとら、放射能のことなど一日も早く忘れたいと、これでも必死に生きている。で、膨大な量の数字を集めて、統計表を作って、それでどうしようってんだい?
 こちとらの願うことは、ただ一つ。一日も早く福島県、いや日本中のすべての原発を廃炉にし、すべての有害廃棄物を最終処理場に埋めること、それもどんな地震にもびくともしないところに、日本科学の粋を結集して絶対安全な方法で。つまり世界に先駆けてパンドラの箱の蓋を閉めることだ。
 放射能のことに限らず、日本は(だけじゃないが)すべてのことに数値が優先する国に成り下がっている。たとえば教育である。日本の学校の機能というか役割の半分以上は数値に関わっている。つまり成績評価とその数値の処理や保管に大部分のエネルギーが使われている。いまさら言うまでもなく、教育とは教える者と教えられる者の、時にはその関係が逆転するほどの優れて人間的かつ生命的な出会いであり対話である。それ以外の雑事は最小限にとどめらるべきもの。ところがいまや教育は成績評価と統計と意味のない比較が主戦場の世界になってしもた
 そしてその成績を数値化するための試験問題に間違いがあると言ってはペコリ平謝りのパフォーマンス、そのデータが紛失したといっては謝罪会見。数値やデータが主役で、生徒や教師は脇役の教育現場。
 むかし現役の教師だったころ、或る大学に傑作な先輩教授がいた。本当かウソかは知らないが、学生たちのもっぱらの噂は、あの先生、答案など採点せず、机の上から答案を滑り落とし、いちばん遠くに飛んだ順に成績決めるんだって。まさかとは思ったが、あの先輩なら不思議でないかも、と思った。あまりに不真面目ですって? でもねー学ぶということは、教場での教師の教えや、本を読んでの新しい知解によって次第に広い世界が開示されていくこと、そしてそれに興奮し喜び、さらに広い世界へ絶えず開眼していくことであり、それ以外のことはすべて二義的な付け足しではなかろうか。ところがいまや学校教育は生徒の記憶の程度を数値化するつまらぬ記録装置に成り下がっているのだ
 今時の病院も、患者の問診や触診はほとんど行なわれず、とりあえずはCTスキャンとか種々の検査の数値化が主な仕事となっている。これからいろいろお世話になるところだから、あまり病院の悪口は言いたかないけど、学校も病院も、いずれもいつのまにか数値とデータが幅を利かせる世界になってきているのである。
 この話、それこそ際限なく続きそうだからこの辺で止めておくが、表題の意味について一言。先日の会でも言ったことだが、南相馬のかなりの人たち、とりわけ幼い子供さんを持つ若いお母さんたちに、いま最も必要なことは、懇切丁寧なカウンセリングではない。定期的に市を訪れて母親たちの育児相談に乗ってくれている知り合いの心理学者もいて、まことに言いにくいし暴言と取られるかも知れないが、ぶっちゃけた話、それら心配性のおかあさんたちにいちばん必要なのは催眠術師の派遣である。つまり「さあ、あなたの頭の中の放射能に関する思い煩い、これから三つ数えるうちに、遠くに飛んでいきますよ、いいですか、ひとーつ、ふたーつ、はいっ、飛んでいきましたよ、さあもうあなたの頭の中に放射能はありませんよー」

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嗚呼、一等国!

※いま右のコメント欄で、久しぶりに面白い駄洒落を思いつきましたのでご覧下さい。 

 今朝の某紙のネット・ニュースによると、訪米中の安倍首相が戦略国際問題研究所(CSIS)での講演で、「日本は一級国家。今も、これからも二級国家にはならない。それが、私が一番言いたかったことだ。繰り返して言うが、私はカムバックした。日本も、そうでなくてはならない。」と言ったそうだ。この発言は、アーミテージ元国務副長官など数人の発言に反論してのものらしいが、おいおい安倍よ、またもや君の古臭い国家観が見えてきたよ、と言わざるを得ない。古臭いだけではなく、きわめて危険な国家観である。
 実はいま紹介したのは演説の冒頭部分だけで、さらに読もうとすると、「記事全文をご覧いただくには、××新聞デジタルへのログインが必要です。」とのメッセージが入って、登録会員でなければ読めない仕組みになっている。いったいいつからこのような次第になったのか覚えていない。実は一昨年の大震災・原発事故からしばらくして、それまで一度も止めたことの無い新聞購読を止めた。その新聞だけでなく他のすべての新聞、さらにはテレビ報道が「奈落の底から」見ると、それまで気づかなかったこと、つまりいかにいい加減な報道がなされているかに嫌気がさしたからである。
 もちろん中にはこれはと思う的確な記事、自分の蒙を啓いてくれる記事が無いわけではない。しかしそれはきわめて稀で…なにか適当な喩えを、と思ったが出てこない。
 しかしそれら以外に情報を得る方法は無いわけで、その後は講読はしないが時おり各社のネット報道やらテレビ報道を、かなり覚めた眼で見るだけになった。では外国ではどのようになっているのだろう。私が時おり覗いているのはスペインの新聞、特に「エル・パイース」や「ABC」などスペインを代表する大手の新聞だが、ニュースの途中で「ここからは登録会員のみ」などとまるでどこかの秘密クラブ入り口みたいなことはしていない。
 秘密クラブなんて上品(?)な喩えを使ったが、本当はそうした扱いを受けるたびに、まるで祭りの見世物小屋で客の興味を引きそうなものをちらりと見せて、後はお代を出せば見せてやるよ、と言われているようで誠に味気ない、というより、はっきり言って不愉快である。
 たとえば高い執筆料を払って掲載する記事に対して、読みたければお代を払って、と言われるならある程度なっとく出来る。しかし事件や、安倍首相の演説内容など、国民が知る権利のある(かな?)ニュースまで金を払わなきゃ教えない、というのは、どうだろう? 報道に携わる者として、たとえ無料でも国民に知らせたいと思わないのだろうか。
 もちろん現今、新聞社や出版社がコンピュータやケータイなどの急速な普及によって経営的にも大変困難な時代を迎えていることは重々承知しているし、同情もしている。とにかくこれまでのように、まるで総合商社並みに肥大化し巨大化した組織では、多数の社員・従業員のみならずその家族を養わなければならないという事情も分からないでもないが…
 思わず本題から離れてしまった。そう、安倍首相の演説のことである。記事の途中だから、この首相演説を記者はどういう魂胆から記事にしたのか分からないが、つまり批判的な目で記事にしているのか、それとも…私がこの記事を読みながら、思わず連想したのは、むかし李香蘭つまり山口淑子が初めて故国日本に帰ってきたときの話だ。彼女の乗った船が下関へ入港し、水上警察の係官が上船してきた。彼女がパスポートを出すと、警官がとつぜん怒鳴り始めた。

「貴様、それでも日本人か!よく聞け。一等国民の日本人が三等国民のチャンコロの服を着て、支那語なんぞ喋って、貴様! 恥ずかしくないか、え?」

 安倍晋三の言う「一級国」はこの水上警察官の言う「一等国」とまったく同じことである。こんな時代錯誤的な言葉、というよりそういう発想をする人間が、今の日本を代表する首相であることをしっかり認識する必要がある。これが何を意味するかが分からない人は、そう、いつのまにかアベノミクス(何だこりゃ!ザケンジャナイ!)の術策にはまり始めていると思ってください。

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体罰・自殺事件

どこかの男子高校生が部活の指導教員から体罰を受けたことを苦にして自殺した、という事件があったようだ。実はそのニュースを新聞紙面でしっかり読んだわけではなく、ただテレビ画面でざっと知っただけであるから、これから書くことはその事件についての論評でないことをあらかじめお断りしておく。つまりこの種の事件が繰り返し起こるたびに感じることを一般論として述べるだけである。
 生徒一人の命が失われた事件だから誰もはっきり言わないようだが、実に後味の悪い事件である。というより、事件を機に巻き起こったいつもの周辺事態がなんとも嫌な、としか言いようのない思いを喚起する。周辺事態と言ったのは、たとえば事件後の学校とか教育委員会の姿勢である。もっと具体的に言うと、テレビカメラの放列を前にしての「責任者」たちのあの謝罪パフォーマンス。反省すべきことが多々あるのだから謝罪は当然だが、もういい加減あの謝罪パフォーマンスは止めたらどうか。産地偽装から入試問題のミスまで、その度にあのパフォーマンスが日本中で繰り返されるようになったのは、いったいいつの頃からか。取材陣ばかりかテレビ画面を見る観客(!)までが、責任者たちの深々と下げた頭のどれが一番先に上がるか、などと固唾を呑んで見守っている。要するに「見るに堪えない」光景である。
 もしも謝ることがあるなら、謝るべき相手への心からなる謝罪の言葉を述べた後に、「しかるべき対応は今後とも真剣にさせていただきますが、とりあえず本日の会見はこれにて終わらせていただきます」とあのパフォーマンス抜きで切り上げたら、どうなる? おそらく全国から抗議の電話が殺到するであろう。あゝなんて道徳的な国民だこと! だから僻目かも知れないが、まあこの場は無難に頭を下げておきましょか、といった魂胆丸見えの仰々しいパフォーマンス。
 今回の場合はどうであったかは知らないが、体罰を与える教師のことなど、これまでずっと校長以下誰もが知っていて黙認してきたことではなかったか。つまり我が校の○○部の好成績はあの先生のおかげ、少々のことは眼をつぶってましょ。要するに体罰に関しては、全教職員の「共犯」である場合がほとんど。
 でも中には、体罰を与えたり、生徒を厳しく叱った教員の側にも同情すべき点がある場合もある。この点で印象的だったのは、『北の国から』の分校に都会から赴任してきた女先生(俳優の名前は忘れたが…あっ思い出した、りょうこ先生を演じた原田三枝子だ!))の場合である。つまりあの場合、生徒の自殺はまるで「当て付け」「意趣晴らし」としか思えないし、りょうこ先生が可哀相に思えた。自分の命を犠牲にした生徒について誰もそんなことを口に出しては言わないが、しかしだからこそ最高最大の仕返しになる。
 生徒のことを思っての真剣な、ぎりぎりの体罰はありうると思うが、しかし問題を起こした教員には、体罰が常習化していた場合が多い。そして怖いのは、そうした体罰は次第にエスカレートしていくことだ。旧陸軍内務班での日常化していた体罰がそうであったように。 私が親なら、そんな教師は心からなる軽蔑に値すること、ましてやそんな教師の為に己の命を犠牲にするなど愚の骨頂だと子供に教え諭すだろう。事件の後、講堂に集められた生徒たちを前に、校長や教師はどんな訓示を垂れたのだろうか。一度聴いてみたい気がする。貞房先生ならこんなことを言うかも知れない。

「あってはならない悲しい事件が起こりました。こうした結末に至るかも知れないいくつもの兆候があったのに見てみぬふりをしてきた私・校長初め教職員全員、心から反省しています。我が校は運動部や文化部の活動では全国的に名を馳せた有名校です。それを誇りにしてきました。でもそんな好成績など、あなた方一人一人の命に比べれば、言葉は悪いですが屁みたいなものです。自分をもっと大事にしてください。先生といえども人間です、なんて逃げを打つ気は毛頭ありませんが、でも理不尽なことを言ったりしたりする人に対しては、相手が先生であろうと誰であろうと、自分が正しいと思ったことを堂々と主張する人間になってください。しかしあなた方は先生方を相手にするには実に弱い立場にあります。どうしても理解してもらえないときには、他の先生やこの校長の所に相談に来てください。それはけっして告げ口をすることではありません。この学校が単にものを覚えるだけではなく、人生に起こるいろんな難題を一緒に考えるための場になるためです。私がいつも言ってきたように、皆さん一人一人が自分の目で見、自分の頭で考え、そして何よりも自分の心で感じる人になるための学校でありたいからです……」

 例の問題を起こした学校では、その運動部、バスケット部でしたっけ?、は活動を停止したというニュースが続いた。おいおい何を考えちょる? それじゃ生徒たちはますます萎縮し、教師たちはますます自信を失うのとちゃう? 指導教員を入れ替え、りょうこ先生みたいな(彼女バスケできるかな?)素敵な先生のもと、亡くなった生徒のためにも人心一新して明るい学校になるよう、それこそ教師・生徒一丸になって努力すべきじゃない? 
 それはそれとして、新聞やテレビの報道の仕方、何とかなりません? たとえばですな、例の謝罪パフォーマンスが始まるな、と思った瞬間、カメラをパンさせてですな、見るに堪えない場面を映さないなど。そんなテレビ局や取材班が一つでもあれば日本の報道機関にも希望が持てますけど、相も変わらず他社に負けじと、そら横一列にヨーイドン、あゝ救われねーっ!

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からつ塾

古本整理も、ときに次のような大きな出会いに繋がることがあるので馬鹿にならない。ことの発端は、書棚の隅にあった『[トンネルの向こう側へ]』(思潮社、1984年)という地味な装丁の200ページほどの本である。題名に[ ]という括弧が付いているのはどうしてか気になりながら読み始めたのだが、小説としては実に風変わりな小説である。作者はマリアヘスス・デプラダ、訳者は大嶋仁。作者紹介によると1951年、スペインのサモラ市出身とある。巻末の訳者あとがきを見ると、1978年、バルセロナの書店でセルロイドの表紙にゼロックスコピーを束ねただけの粗末な原書に出くわして読み始め、たちまちその魅力に捉えられ、ついには翻訳までするに至ったということだ。
 実は私、まだこの小説を読み終えていない、というより読み始めて直ぐ、以下に述べるような出来事に遭遇して、そちらの方に関心が向かったのである。だからこの小説については、また別の機会に書くことにしよう。
 ところでわが国のスペイン関係事情については普通の人より少しは知っているつもりだが、この本の作者についてはまったく知らなかった。おっと申し遅れたが、この小説は日本文化との出会い、特に志賀直哉の文学との出会いに大きく影響されて書き出されたものらしく、だとしたら彼女(そう、名前から推してとうぜん女性である)について少しは調べてみるのが礼儀というものであろう。
 それでさっそくインターネットで検索。すると彼女、現在は日本に、それも唐津にある塾に関係していることが分かった。「からつ塾」というのがその正式名称で、さらに調べていくと、なんとそこには彼女だけでなく訳者の大嶋仁(ひとし)氏も講師を勤めていた!
 メディオス・クラブの精神を生かすには、将来南相馬に市民塾のようなものを作りたい、そこには私が埴谷・島尾記念文学資料館でやっていたような文学講座だけでなく、地元の歴史や文化や伝統についての講座、さらには外部から講師を招いての、大学並みの本格的な種々の講座のできる市民大学があれば、と思っていた。だから、この機会を逃さず、この「からつ塾」とお友だちになりたい、と思ったのである。
 善は急げ、とばかり「からつ塾」にメールを送りました。これまでの経験からすると、こうした問いかけにきちんと応えてくれる組織は滅多にない。地元の公共機関でさえ、ほとんどの問いかけは無視される。悪気はないのかも知れないが、要するにそうした問いかけにしっかり応じる仕組みができていないのであろう。たいそう大事なことなのに残念である。しかしこの「からつ塾」は違っていた。
 メールを送って数時間後に、塾の事務局長さんからお返事が届いただけでなく、いまカナダに出張中の大嶋ご夫妻にも連絡を入れます、との回答があったのである。で、その際、密かに私が想像していた通りの事実が判明した。つまりモントリオールで大嶋氏とご一緒の方こそがマリアヘスス・デプラダさんその人だったのである。その詳しいいきさつはもちろん知らないが、翻訳を通じて知り合い、ついには生活を共にするようになられたのであろう。めでたしめでたしである。
 そして何とその大嶋氏からもほどなくメールが届いた! そのメールの中で氏は次のように書いておられる。

 「南相馬の名前はニュースではよく耳にしてきましたが、そうした被災地においてこそ、知的なレベルを高める塾の活動は、実は非常に大事なことだろうと勝手ながら考えています。有形財産は災害で失われることがあっても、無形財産は永続するからです。」

 まさにその通り! 南相馬の真の復興は、経済的なそれよりも(もちろんそれも必要だが)精神的な復興、言葉の真の意味におけるルネッサンス(再生)が必要なのだ。唐津には地方都市のあるべき姿がすでに実践されその成果が存分に得られてきたのであろう。この先輩塾からの力強い応援が約束された今こそ一歩を踏み出すときである。今日の夕刻、さっそく西内君が拙宅に来てくれ、彼と今後の作戦をいろいろと話し合ったところである。といって、私はいつもの通り彼に「おんぶにだっこ」ではあるが、少なくとも気だけは張っている。
 最後に、いい機会なので、「からつ塾」のホームページから大嶋ご夫妻の略歴、そして「からつ塾」の今年度の講義予定をご紹介しよう。

大嶋 仁(おおしま・ひとし)
1948年生まれ。東京大学大学院博士課程(比較文学比較文化)修了。バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリで教鞭をとったあと、現在、福岡大学教授。からつ塾発起人。
 著書 『心の変遷 -日本思想をたどる-』(増進会出版)、『福沢諭吉のすすめ』(新潮選書)、『ユダヤ人の思考法』(ちくま新書)、『正宗白鳥』(ミネルヴァ書房)などのほか日本思想史(※フランス語とスペイン語)がある。

マリア・ヘスス ・デプラダ=ビセンテ (Maria-Jesus De Prada Vicente)
スペイン国サモラ県サモラ市生まれ、フランコ時代にフランスへ亡命。パリ国立東洋言語文化研究所で日本文学を修め、その後福岡大学で博士課程に進学。文学博士となる。その他、東京浅草「人形の久月」より木目込み人形の教授資格を取得。
 著書に「日本文学の本質と運命」(九州大学出版会 2003年1月)「ゆらぎとずれの日本文学史」(大嶋仁との共著 平成17年 ミネルヴァ書房)がある。現在、福岡大学非常勤講師。

★平成24年(2012年)からつ塾講義予定

○第81回講義1月「史料で読み解く虹の松原一揆の実像」山田洋氏
○第82回講義2月「(日韓の)新たな未来を築くには何が必要か」朴裕河(ぱく・ゆは)氏(韓国・世宗大学教授)
○第83回講義「日中関係における靖国問題:その構造的要因」佐藤治子氏(大阪大学准教授)
○第84回講義5月「3.11以後のまちづくり・人づくり―NPO法人「鎌倉てらこや」の活動報告 」池田雅之氏(早稲田大学教授・NPO法人「鎌倉てらこや」理事長)
○第85回講義6月「佐賀県東松浦半島の玄武岩中にレアアースを含む新鉱物を2種発見」上原 誠一郎氏(九州大学大学院理学研究院地球惑星科学部門 助教・理学博士。
○第86回講義10月「人間はなぜ、自然にひかれるのか」宇根豊氏(元・農と自然の研究所代表)
○第87回講義12月「脳科学と文学」大嶋仁氏(福岡大学教授・からつ塾発起人)

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人様相手の仕事は

老朽化した瞬間湯沸かし器がまた沸騰することのないよう注意深く穏やかに日を送ってきたが、残念ながら今日、久しぶりに作動してしまった。そんなロートル(あゝ懐かしい言葉!)湯沸かし器のことなど聞きたくもないだろうが、書かずにいると罅(ひび)が入るので、まあ我慢して聞いていただこう。
 ことの発端は今日の午後転送されてきた一通の書類である。差出人は南相馬市役所社会福祉課社会福祉係、宛先は何とばっぱさん。つまり今年初めまでばっぱさんの疎開先であった十和田市から転送されてきた「義援金第二次追加配分振込口座の変更について」という文書である。ときどき福島市の医科大からばっぱさん宛ての健康調査書などが送られてきたことがあり、面倒だがその度に死亡の報告をしてきた。おそらく何十万という県民対象の業務だから少しぐらいの遺漏はあるでしょう。しかしお膝元の南相馬市から死者宛ての文書が届くのはちと腑に落ちない。
 つまりこちらとしては、ばっぱさんの死亡についてはこれまで何度も税金のことやその他もろもろの手続きの機会に報告済みなのに、未だにこうしてバッパさん宛ての手紙を寄こすのはどうしたことか、と思うのである。そう言うと、国民総背番号制にすればこうした間違いが無くなると言われるかも知れない。実は私自身その制度について今まで特に考えたことはない。つまり今のところ賛成でも反対でもない。しかしそれはそれとして今の問題に返ると、たぶん現在市の人口は往時の半分、すなわち3万ちょっとと思うが、しかしいちばん肝心な市民の生き死にの情報が、部署が違うだけで、このように目詰まりを起こしているのは公的機関としてまことにお粗末だと言いたいのである。
 でもともかくばっぱさんの死亡については知らせなければ、と書類の中に明記されていたメール・アドレスに連絡してみた。するとこのメールは届きませんでした、とのサーバー(?)よりの返事。一字一字アドレスを確かめてみたのだが、まったく間違はない。でも仕方がない、じゃ電話だ。さあ、これが事態を紛糾させていった発端である。
 「社会福祉課さんですか? 本日、今年の一月に亡くなった母あてにお宅が発送した義援金振込み口座についての文書が十和田市の方から転送されてきたのですが…」
 いちいち詳しく通話内容を報告するのもシンドイので後は端折るが、しかしこれだけの話を聞いただけでもプロなら察しがつくのではなかろうか。つまり死者宛てに文書を送ったというとんでもないミスを。私が係りならこう答えるであろう。
 「あっすみません、こちらの情報不足で間違って送ってしまったようですね。本当に申し訳ありません。さっそくこちらのデータを訂正しておきます、本当に失礼しました…」
 いやそれよりも、物ではなく他ならぬ人間様相手の仕事人なら、まず死者への哀悼の言葉を言わないだろうか。「お亡くなりになっていたのですか、知らぬとはいえ、たいへん失礼いたしました、ご愁傷さまです…」
 ところが電話口に出てきた若い男は、イケシャーシャーと、あたかも何事も聞かなかったかのように、「こちらは資料どおりに十和田市の方に送ったのですが…」。この返事を聞いた瞬間、湯沸かし器がボコッと低い音を出した。で、ちょっと意地悪な質問をしてみた。

「それではお聞きしますが、死者に対しても義援金を出すというのですか?」
「いえいえ、亡くなられた方には出ません」

 この答えを聞いたとたん、湯沸かし器の温度が沸点に達してしまった。教育上よろしくないので、それから先のやり取り、というか私が吐き出した怒りの火焔の詳細を書くことは遠慮する。
 要するに役所であってもすべてにわたって遺漏無き仕事を期待するのは無理というものである。仕組みから来るミスもあるだろうし、スタッフの個人的なミスもあるだろう。しかし市民の生き死に関する情報くらいは、しっかり管理しておかないととんでもないことが起こる。今回のように義援金を出す出さないということなら、いやそれでも当事者にとっては実に不愉快なことだが、たとえば謂れのない支払請求とか、その他遺族の心を傷つけるようなことが起こるかも知れない。
 先だっても、銀行で似たようなことがあった。つまり長年御得意さんだった死者への哀悼の言葉が一切なく、ただひたすら手続きやら残高などの数字のことしか言わなかった行員。要するに顧客や市民やらを数字やデータでしか見ていない非人間的な仕事振りが露呈しているのだ。
 住みやすい社会、行き届いたサービス、市民の身になっての行政……そんな綺麗な謳い文句も、日々の生活の中、具体的な人と人とのやりとりの中で実践されないなら、そう、犬にでも喰われっちまえ!

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毅然は偽善

領土問題がどのような解決に向かうのか、それともこのまま混迷の度合いを深めていくのか、それこそ予断をゆるさない。なーんていかにも心配しているかのようだが、ぜーんぜん。あまりに馬鹿げていて、ニュースを追う気にもならない。それでも、昨日は三つの大新聞(といっても発行部数のそれだが)の社説をざっと飛ばし読みをしてみたが、具体的な解決策を提起している新聞などありゃしない。
 簡単な解決法などあるはずもないのは初めから分かっていたことだが、いずれも今後日本の立場を国際社会に広くアピールしていくべきだとか、冷静に法と正義に訴えていくべきだとか…すみません正確な文言を引用すべきでしょうが、そうするのもシンドイので大体の論調をナゾルだけです、…それにしてもまったく出口無しの状態を、それでもあたかも以後になにか事態の好転をもたらすものが控えているかのような言い草、それこそ落語家の常套句、「お後がよろしいようで」を繰り返しているに過ぎない。
 自民党総裁選への候補者たちも異口同音に、この際日米同盟の堅固なところを見せつけなければ、などと言って、いつもの通り親分を担ぎ出すところはいかにも情けないが(彼らの期待を見事裏切ってパレット、いや間違ったパネッタさん、当たり前だが、どちらの味方もしません、などと言っている)彼らの言っているいわゆる強硬姿勢を聞いていると、あんたそれ本気にそう思ってるの? それで解決へ近づくことができるの? とからかいたくもなる。
 政治家たちがなにか問題があると、というより明確な解決策がなくて窮しているときの常套句も気になってしょうがない。「粛々と」? いや今回特に気になっているのは、もう一つの方、そう「毅然として」である。
 わが敬愛する大作家・武田泰淳さんに『政治家の文章』(初め雑誌『世界』に昭和34-35年に連載し、のちに岩波新書としてまとめられる)という面白い文章があり、久しぶりに、といって今までまともに読んだことは無いのだが、書棚から『全集』第13巻を取り出して読み始めた。ところが武田氏の槍玉に上がっている日本の政治家たちは宇垣一成にしても近衛文麿にしても、その思想はともあれなかなかの文章の書き手であり、これなら真剣に渡り合うのも面白いだろうが、最近の政治家の文章など俎板に載せるほどの文章を書く人などどうもいそうもないので、彼らの常套句にイチャモンをつけるだけなのだが…
 「毅然として」、この言葉を聞くたびに、ははーん、やつは明確な方策のないことを誤魔化してるな、と思わざるを得ない。つまり西部劇などの対決場面で、相手のガン捌きがもしかして自分より上かも、ここで抜き合えばヤバイかもと思い、「今回は諸般の事情があってこの勝負は一時お預けとしよう、その時まで逃げるなんてことはするんじゃあねえぞ」などとカッコよく啖呵を切りながら背中を見せて立ち去ろうとするのだが、内心はビクビク、背中は冷や汗ビッショリ、といった図を連想するのだ。もちろんこの場合の相手はガン・マンというより、問題の総体そのものなのだが。「毅然として」、これを英語で言うと resolutely だろうが、人間の本性を辛らつに暴いたアンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』で resolute はかく定義されている。「われわれが容認する方向で頑固な」。
 つまり、自らの姿勢を他人がそう見るのではなく、自らを煽り立てながら「毅然として」とか「決然として」と美化するのは、たいていの場合、いや日本の政治家の場合は百パーセント、己れの無策と弱さをことさらに誤魔化すための方便である。つまり相手の主張やら意見をひとまずしっかり聞いた上で、それにどの点でどの程度まで折れることができるか、しかも自らの主張と利益をどのようにして相手に認めさせ、納得させられるか、その具体的な智恵を持たない場合の常套句だということである。
 言うまでもなく、史上どの領土問題においても、一方がまるまる得することなど、武力をもって封じ込める以外(しかしそれは一時的なもので、かならずツケが、それも結局は大損となって返ってくる)絶対にありえないことだからだ。賢い政治家、外交官なら、どこまでなら譲れるかを実にシビアに計算してから交渉に臨むはず。つまり私の見るところ、双方がそれぞれ面子を立てながら、しかも互いに利益を得るには、当該地域の共同管理しかありえないのである。
 最後ににわか仕立ての格言もどきと、古典的な英語の格言を紹介しよう。

「毅然は偽善に通じる。」
「欲張りの丸損」Grasp all, lose all. (欲張って格子から手が抜けなくなったサルの姿が見えてくる)

 領土問題に口を出さないと言いながら、今晩もつい…こんどこそ絶対に口をつぐみましょう。 でも守れないかも…

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理性と感情

脱原発 負担は覚悟 意見公募 集計結果

 二〇三〇年時点の原発依存度などをめぐる政府のパブリックコメント(意見公募)の集計結果が二十七日、公表された。有効意見は八万八千二百八十件で、政府が示した原発比率の三つの選択肢(0%、15%、20~25%)のうち、原発ゼロ案の支持が約七万六千八百件(87%)を占めた。さらに、原発の代替手段となる再生可能エネルギー・省エネ対策については、電気料金の上昇につながるにもかかわらず「コストがかかっても拡大」が39%に上り、脱原発に向けた国民の覚悟が示された。
 国民的議論の結果を検証する二十七日の専門家会合では、多数が原発ゼロを支持する意見公募について、「国民が政府に怒っているという表明。情緒的、主観的だからといって、正当に考慮しないのは危険だ」(小林伝司大阪大教授)として、重く受け止めるべきだとの見方が示された。

            (「東京新聞」2012年8月28日 07時02分)

 この暑さの中、実に爽やかな(?)印象を残すニュースであった。小林教授の意見は、こうした結果に危機感を募らせるであろう一部政治家や識者の反論を予想してのコメントかも知れないが、私からすればそれこそ見当はずれの、人間や世界についての根本的な無理解を示す「危惧」であると言いたい。
 原発事故以後、国民のあいだにようやく芽生え始めた反原発、脱原発への意志表明に対して、何人かの政治家たちがヒステリックな感情論だと決め付けたことも記憶に新しいが、しかしヒステリックな反応という評言はそっくりそのままそうした論者に熨斗をつけて返さなければならないだろう。事実、ある政治家の領土問題などへの対応を見ていると、まさにその評言が当てはまる。
 要するに歴史上人類は何度も理性で大きく過ちを繰り返してきたのであって、それに比べると感情での間違いは小規模だし一時的なものであったということだ。たとえばヒトラーが層々と積み上げた人種差別思想とその実践たるホロコーストなど理詰めで人間や世界を裁断しようとする思い上がりから生じた。
 実は少し前から、小林秀雄の「アシルと亀の子」という初期エッセイを探していたのも、理性がいかに間違いやすいものであるかを言い当てていたエッセイではなかったか、と思ってのことである。つまり理屈では、遅れて出発する足の速いアシル(アキレス)は、先行する亀の子には追いつけない、なぜならアシルが百メートル追いかけても、そのとき亀は50(?)センチ先に進み、その50センチ先の亀に追いつくためにさらに百メートル走っても、その間さらに亀は50センチ進んでる…だからアシルは永久に亀に追いつけない、などおよそ現実的ではない結論を出してしまう、そんな思考上の錯覚を取り上げたエッセイではなかったか、と。あれっ違ったかな。
 ともかくこの暑さの中、アシルの捜索は諦めた。だから見つかって読み直せば、とんでもない誤読・勘違いであったかも知れない。
 しかし理屈にしろ記憶にしろ、人間の理性的な部分はいかにも精緻でありながら実はきわめて間違いやすいものであることのもう一つの例。それはこのところの古本蘇生術の最中に起こった不思議な事件だが、一昨日以来、こんな小さな家の中で一冊の本が忽然と消えてしまったのである。もっと詳しく言うと佐木隆三の『復讐するは我にあり』という上下二巻の合本文庫本を改めて解体して装丁し直しをするときに、その下巻が消えてしまったのだ。念のためゴミ箱の中まで探したのだが、まるで神隠しに遭ったかのように見えなくなってしまった。これも美子が読んだ本で、私には特に読みたい本ではないので惜しくはないが、それにしても気持ちが悪い。どこかにひょいと置き忘れたのだろうが…
 つまらぬ例など出すな、ですか。ごもっとも。それではもっと荘厳で歴史的な例を出しましょか。史上有名なスコラ哲学にまつわる笑い話。いま詳しく調べるのは面倒ですが、たぶん反スコラ哲学陣営から出された馬鹿話なんでしょう、針の先に何人の、おっと天使は「人」で数えませんな、たぶん神様に近い存在だから「体(タイ)」でしょうか、つまり何体とまれるか、という議論です。純粋霊の天使が場所をとることはないだろう?そうです、その通り。しかし鹿爪らしいスコラ談義を続けていくと、えてしてそんな陥穽にはまってしまうぞ、という教訓話です。それと原発とどういう関係?
 分からないかな、要するにだね、頭のいい原発設計者がここまでは計算上危険ではない、ここまでは理論上安全であるなどと、厳密極まりない机上の計算の果てに原発を作ってきたのでしょうが、そんな計算上の安全とか許容範囲なんぞ想定外の自然の暴威の前にひとたまりもなく崩壊するということです。
 小林秀雄を援軍にと思ってましたがそれもうまく行かず、ここでもう一人に助けを求めよう。志賀直哉である。これも実にあやふやな記憶で、この暑さの中(おや、この人、立論のいい加減なことを暑さのせいにしてるよ)確かめるのも面倒なままに言うのだが、確か彼も理屈は間違えるが感情は間違えない、と言ってたような気がする。
 ともかく嫌なものは嫌だ、という感情は間違えようがない。たとえば反戦。戦争がどんなに愚かで悲惨なものか、おまけに割りの合わない愚行かを千万言費やして論じても、「おら戦争嫌だ」という厭戦感情に若(し)くはない。そう言えば、この「モノディアロゴス」の鼻祖ウナムーノに『生の悲劇的感情』という名著があったっけ。

 ともかく感情を馬鹿にしちゃいかんぞなもし。

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空恐ろしい国

ここに二冊の文庫本を合本にしたものがある。厚紙で補強し、さらにそれを藍色の布切れで包み、そして背中を豚革で装丁したものである。だいぶ昔、今のように狂ったように装丁しまくった時代の名残である。ただ背文字が老眼では読みにくくなってきたので、今回その部分だけ少し大きな字のラベルに変えた。堀田善衛の『スペイン430日――オリーブの樹の蔭に』(ちくま文庫、1989年) と『日々の過ぎ方――ヨーロッパさまざま』(ちくま文庫、1991年) である。
 しっかり読んだことがなかったので、ところどころ拾い読みをしてみたが、これがなかなか面白い。前者は1977年7月から翌年の9月まで、北スペイン、カンタブリア海に面したアストリア地方のアンドリンという村での生活を綴ったもの、後者はその後一年ほど日本に戻った後、今度はバルセローナを中心に7年ほどのスペイン滞在の折々に書かれたものである。
 作家の長期外国生活ですぐ思い出すのは、1970年からポルトガルのサンタクルスというやはり寒村に滞在した壇一雄のことであるが、それは2年間であり、堀田善衛の十年近くの滞在には遠く及ばない。
 別に長さを競わせるつもりはないが、一スペイン文化研究者にとって彼の四巻にも及ぶ大作『ゴヤ』(1974-77年) 以来、そのスペイン文化論には多くの刺激を受けてきた。だからこの2冊のスペイン滞在記の中にも、スペイン研究者の顔色なからしめる多くの卓見が随所に輝いている。
 しかし今回ぱらぱらとページをめくりながら我が意を得たりと感じ入ったのは、そのスペイン文化論ではなく、外から見た日本の異常さについての数々の感想である。たとえば次のような指摘。

八月三日(miércoles)

 留守宅から、家内用の低血圧の薬と「週刊文春」を送って来た。
 こういうところで日本の週刊誌を見ると、日本という国がつくづくすさまじいばかりに空恐ろしい国になりつつあることが痛感される。つまらぬ私的な情報、あるいは裏情報と呼ぶべきものに尾ヒレがついて、それが莫大な金どころか、いわば産業になる。しかもそういう情報が個人の生活を蔽い、その分だけ生活に充実感がへずられて行く。

 日付の後の括弧の中のスペイン語は水曜日の意味である。いつまで経っても曜日を覚えられないのでスペイン語で書くことにしたからである。いやそんなことはどうでもいい。ここで言われている「空恐ろしさ」が、あの大震災後もいささかの変化も見せず、いやむしろさらに加速していることの「空恐ろしさ」のことである。堀田善衛はこの文章を書いてから十年後の1998年に亡くなったが、もし今生きていたらどう思ったであろう。やはり「加速している」と言うに違いないと思う。
 日本人は古来、というより近世以後、自分たちが外国人にどう思われているか、どう見られているかを、異常なほど気にするようになってきたが、しかし不思議なことに、自分を客観的に見るという視点が決定的に欠如している。なぜか、真の意味での主体性が無いからである。昨今のクール・ジャパンやオタク文化の隆盛にただただ気を良くするだけで、それが果たしてどういう意味を持つかを冷静に内省する視点が欠けている。
 昔むかし、「スペイン文化論」の授業で強調したことは、スペインがとりわけ「近代」をめぐって日本とは対極的な姿勢をとった国であることを「利用」して、スペインを自分自身を客観的に見るための「合わせ鏡」と見做すことだった。これはスペインかぶれ、外国かぶれとは正反対の姿勢である。
 それはともかく、ときどきネットの新聞やテレビの番組を見るが、その度に前述の堀田善衛とまったく同じことをその度に感じる。私の言葉で言えば「魂の液状化現象」である。3.11 を経験したからであろうか、その「空恐ろしさ」は日を追うごとに募ってきている。これが世を拗ねた老人の被害妄想的感慨でないことを祈るのみである。助けてくださーい!

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涙の総量に見合った幸せを


 ばっぱさんの万葉の旅の成果50首は、実は文集『虹の橋』にすべて収録されていた。未収録のものがあれば紹介しようと思っていたが…でも約束は約束だから、いくつか好きな歌を並べてみる。

     茜色の夕日とまがふあかり差し
           弥勒の姿壁にうつれる

     見はるかす平城宮跡の芝原に
           初秋の陽ざし強く照り映ふ

     簡素なる部屋に小さき机あるのみ
           人をつくるは人にてありなむ

     いつの日か訪ねんものとあくがれし
           万葉の旅を師と共にゆく

     悠久の時の流れの中に居て
           砂を踏み居る一瞬の我

 歌のことはよくは知らない。だからこれらがいい作品かどうかは知らない。しかしばっぱさんらしい歌であることは間違いない。特に萩の松下村塾を訪ねたときの歌と思しき「簡素なる…」は、生涯教員であったばっぱさんの教育哲学が仄見えて微笑ましい。また鳥取砂丘を歌ったと思われる最後のものは、福島女子師範時代、初めてストライキを主導した(らしい)ばっぱさんの骨太な思弁癖がたくまずして表出されている一首である。

 ところで昨日、以前ここで紹介した小高の又従姉のS. Mさんとその実家である本家のお嫁さんが、ばっぱさんへの弔問の意味もあって突然訪ねてきた。本家、つまりばっぱさんにとっての本家、いやちょっと複雑なので実名で説明すると、ばっぱさんの父・幾太郎は井上家の次男だったが、結婚後、嫁つまりばっぱさんの母親・仁の実家である安藤家の跡取りがいなくなったため、ばっぱさん八歳の大正8年に幾太郎は安藤家の養子になるのだ。つまりばっぱさんの旧姓そのものが井上から安藤に変わったわけである。あゝややこし。

 本家のお嫁さんと言っても、さて何歳だろう、もちろん私よりずっと若いが…要するに私の又従弟の長男のお嫁さん…やっぱりややこしい…で、彼女と話しているうちずっと忘れていた一つのことを思い出したのだ。つまりその彼女の叔母さんに当たる人は、私の一家が(私が小学五年の秋)北海道からその本家の隠居に転がり込んだときには今の愛ほどの女の子だったが、昔の農家に時おり起こった悲劇、つまり囲炉裏に落ちて顔面に火傷を負っていたのだ。本当に可愛い子だったのに。

 その後成長してから手術を受けたと風のうわさで聞いたことがあるが、あれからずっと幸せな生涯を送ってきたと思いたい。でも今度の大震災をどう潜り抜けたろうか。お二人にあえて聞く勇気がなかった。今の愛の年頃からその後どのように生きてきたのか、ただ想像するしかないが、彼女だけでなく、その親たち・祖父たちのことを考えると…ともあれ彼女自身そして親たちが流した涙の総量に見合った、いやそれをはるかに超える幸せを掴んだことを心から願わずにはいられない。

 日ごろは忘れていた血の繋がりについて、その温かさ、有難さ、懐かしさを改めて考えさせられた午後となった。いまでも親戚付き合いは続いているであろう。しかしどう考えても、かつてのような強い繋がり、確かに時には鬱陶しいが、しかし理屈ぬきに互いの心の中を温かいものが流れる繋がり、いま流行の言葉で言えば絆が、ますます弱く希薄になってきたのではと思わずにはいられない。

 近代がもたらした人間関係の質的変化、はっきり言ってしまえば希薄化、を簡単に時代の趨勢であると言っているだけでいいのであろうか。大震災後とりわけはっきり見えてきた日本社会の底の薄さ、私の言葉遣いで言えば魂の液状化現象について真剣に考えなければならない時期に来ているのではないか。核家族なんていう言葉がいまや死語になってしまったという程度まで、社会の液状化現象は進んでいると考えざるをえないのではないか。

 人と人の繋がり、それは血や民族や国境を越えて広がるのが理想とはいえ、その基本・原型はあくまで親子・兄弟・親戚関係であり、そこが強固でなければ博愛もただの空証文に過ぎないからだ。

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大山鳴動して

「浪江町の子供、生涯3ミリシーベルト未満 福島県の内部被曝調査」 産経新聞、9月12日。
「福島・南相馬 小中学生の内部被曝量非常に少ない」 」朝日新聞、10月18日。
「福島原発周辺住民、内部被曝量は限度以下 京大など調査」朝日新聞、11月15日

昼を過ぎるとあっと言う間に陽が翳り始める。昨日は散歩をしなかったので、今日はしようと美子を車に乗せて新田河畔に出かけてみたが、車を降りるころは風が強くなっていて、それでも50メートルほど歩いてみた。しかし今日は鴨の親子も巣から出てこないのか、川面には寒々とした細波だけが立っていて、途中で散歩はあきらめた。それでも美子には車に乗るだけで気晴らしになるらしく、バックミラーで見ると目をつぶらず外を見ている。今日は短いドライブで良しとしよう。
 先日はあきらめた江渡狄嶺の本、とうとう買うことにした。選集二巻本が「日本の古本屋」でアマゾンの半額以下で売りに出ているのを見つけたからだ。このところ東北学や安藤昌益の本を読み続けているが、これといった成果があるわけではない。ただ残された時間の中でやることがまた一つ増えただけだ。しかし美子の介護のことを考えると、たとえばスペインや中国などの海外旅行はもちろん無理、そればかりでなく美子と老後はゆっくりと国内旅行をしたいね、と言っていたこともどうやら出来そうにもなく、それはそれで残念ではあるが、しかし致し方ないこととあきらめることは簡単だ。その代わり、と言ってはなんだが、この家で一生本に埋もれて、今までやりそこねていたことを、ゆっくり一つずつ片付けていく時間は、このままの健康が許されるなら可能だし、それだけでもう我が人生は甲斐ありと感謝しなければならないであろう。
 ところで冒頭に振ったいくつかの新聞の見出しにあるように、大袈裟な脅威論が次第に色褪せて見えることが続いている。しかし脅威論の論客たちが鳴りをひそめつつあるにも拘らず、植えつけられた恐怖心は一向に衰える気配がない。昨日もテレビで、どこかの大学の若い医師(先生?)が母と子の放射線の勉強会とかで、線量計を配りながら、これからずっと線量計を正確に使って安全な生活をしていきましょう、などと馬鹿なことを教えている場面が映し出されていた。線量計機器のメーカーから金をもらってるわけでもなさそうだが、なぜ子供たちにまで線量計を使わせようとしているんだろう。国なり県なり町なりが測定して、そこが安全圏であると認定(?)したなら、あとは線量など気にしないで元気に勉強したり運動したりするよう指導するのが医者や教師の役目ではなかろうか。
 そんなことを漠然と考えながらネットを見ていって、たまたま目に入ったのが上のようないくつかの情報だったのだが、他にも面白いサイトを見つけた。あの西部邁氏のサイトで、「低放射線をめぐる嘘の数々 西部邁ゼミナール 2011年10月15日放送」である。ゲストの低線量率放射線医科学・低線量率放射線療法の専門家・稲恭宏氏の見解を西部氏ともう一人が聞くという形の動画である。話は一度見た(聞いた)限りではよく分からなかったが、要するに先日ここで紹介したオックスフォードのウェード・アリソン教授と同じく、いま日本中に荒れまくっている脅威論がどれだけ馬鹿げたものであるか、非常に論理的に(? 内容をよく把握できないが、全体の調子はアリソン教授と同じくきわめて理性的で確信に溢れていると理解した)語っている。
 保守派の論客らしく西部氏は、この馬鹿げた脅威論によっていま日本が陥っている国家的危機を憂慮しているわけだが、政治的姿勢は彼とは真逆な私も、国家的危機であるといういう点に関してはまったく同じである。つまりこれをどこかの国の、あるいはどこかの政治的勢力の陰謀とは思わないが、この脅威論に踊らされたわが国が、単に政治的・経済的なダメージだけならまだしも(それとて大変なことだが)、国民の大半が精神的に崩壊している現状(学術用語を使えば精神神経免疫学的症候群)を憂えているわけである。
 西部邁氏とは、道産子で昭和14年生まれという二点では同じだが、それ以外はまったく違った道を進んでいる私である。なんて比較するのも烏滸がましいし、向こうは歯牙にもかけないであろうが、氏はかつてはその著『大衆への反逆』でオルテガを高く評価し、拙訳『スペイン九十八年の世代』(ライン・エントラルゴ著)にも深い理解を示したように、あるところまでは共鳴するものを持っていた。そうだ、もう一人同じような方向に進んでいった保守派の論客がいたわい。西尾幹二氏である。西尾氏の場合もその著『ヨーロッパの個人主義』あたりまでは付いていけたが、いつのころからかその政治姿勢が私とは真逆な方向に向かってしまった。いや、そんな個人的な齟齬はこの際どうでもいい。
 要するに、こと原発事故をめぐる最近の世情に対する憂慮という点では、交じり合うはずもない線が交じり合うという不思議を経験しているわけだ。
 ともかく線量計をもって生活するの愚からは抜け出さないと、子供たちにも放射線以上の害を与えることだけは確かである。ついでに言わせてもらうと、これまでの脅威論では時おり子供をダシにして過度の恐怖心を煽る傾向があることに注意したい。事故後いろんな場面で「子供のために」とか「子供は放射線に対する感受性が大人の何倍も強い」というような文句が、結果的には異論を許さない「黄門様の印籠」の役を演じてきた。つまり大人たちの謂れのない恐怖心を糊塗するお守りとして子供がダシに使われている場合がかなりあるということだ。
 しかし最後に念を押しておきたいことがある。つまりアリソン教授のときと同様、私はなにも稲氏や西部氏の意見を全面的に信じているわけではない。つまりあまりに一方的に猛威を振るってきた過度の脅威論に対する一服の中和剤と考えているに過ぎないということだ。マスコミや言論界からなぜか不当に無視されているアリソン教授の『放射性と理性』を持ってはいるが読む気にはならず(そういえば西内君に貸したままだ)、なにかのときに取り出す(かも知れない)護符と見做していることもそれと軌を一にしている。

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一難去って…

一難去ってまた一難、なんて古い言葉を思い出す一日だった。いやそんな表現が適切かどうかは知らない。しかし実感としては、あゝまたか!と感じたことは確かである。それは姉への電話のときに起こった。
 昨日、思いがけない人から電話があった。数日前だったか、徳富健次郎の『思出の記』について書いた際、祖父幾太郎の弟・豊記大叔父に触れたが、その末娘の美知子さんから電話がかかってきたのだ。最後に会ったのは、彼女がまだ仙台の短大生だった頃だから四〇数年前になろうか。ちょっと年齢的におかしいと思われるだろうが、実は彼女、大叔父がかなりの歳になってからの子なのだ。つまりばっぱさんの従妹ではあるが、親子以上に歳が離れている従妹というわけ。
 そんなこと書いたら彼女には迷惑かも知れないが、でも彼女ももう六〇を越えてしまった。ともかく、この震災がなかったらたぶん起こりえなかったであろう一族再会である。
 前置きが長くなってしまったが、この美知子さんのことや、先日の十和田での健次郎叔父たちの訪問のことなどを話そうと、久し振りに姉に電話をかけたのだが、話が来春ばっぱさんの南相馬へのご帰還に及んだ際、ばっぱさんはともかくとして愛ちゃんたちは戻らない方がいいよ、と言われてしまったのである。従弟の場合は叔父を介して間接的であったが、今回は電話で直接話している最中にその話になってしまった。
 ご想像の通り、一昨日からここで述べた考えをかなり激しい口調で話す仕儀に相成った。まっ簡単に言えば、きょうだい・いとこ同士であれ、たがいの家庭の問題に立ちることはやめましょう、これだけは自信を持って言えるが、従弟や姉に対して、これまでそれぞれ家庭の事情があったときにも、こちらからはいっさい差し出がましい意見など述べたことがないのですから、と切り口上で言って電話を切ったのである。
 なぜそこまで意固地になるの?、とあきれている方もいるであろうが、いや話は実に簡単なのです。これが私たち夫婦自身に関わること、たとえば南相馬は危ないからあなたたちどこかに避難したら、と言われたとしてもこうまで激昂はしないだろう。つまり事は可愛い孫たちに関することであり、それについては自分なりに真剣に、さまざまなことを勘案して、そして当人たちの合意のもとに決めたことに対して、よくもまあ簡単に干渉してくれましたねえ、ということである。
 こんな身内の行き違いまでよく恥ずかしげもなく暴露すること、と思われるかも知れないが、しかし善意で言っていることに対して、それを「突っ張って」断わる方が、世間的には間違いなく分が悪いわけであろうから、まあ大目に見てもらいたい(?)。いやもっとはっきり言えば、あの大震災のあと、相手を傷つけたり中傷することにならないなら、どんな些細なものであれ「わだかまり」を抱えたまま生きることはやめよう、と思っているのだ。つまり明日の命も分からないのに、なにか思い遺すことをそのままにして死にたくはないのである。なにも怖いものはない、と言った真意はこれである。ウナムーノは、なぜ人間は甲殻類のように幾重にも内面を鎧(よろ)って生きているのだろう、と嘆いたが、事実私たちは内面を隠しに隠して生きている。
 むかし東京に住んでいたころ、たとえば終電車に乗り合わせたときなど、一日の労働を終え、サラリーマン、苦学生、ときにマスカラがずれたままの女給さん(古っ!)が疲れ切って吊革にぶら下がっている光景を見ながら、不思議な連帯感みたいなものを感じたものである。そんなとき、だれもが持っている刺々しいもの、構えているものが剥げ落ちて魂が露出している、と感じたのだ。今ならだれとでも友だちになれそう、誰に対しても心からの友情を持つことができる、と。
 たぶんご当人はもうこのブログを見ないであろうから、ここで一つの思い出話をしよう。実はある時、その人が私にくれたメールの中から、とてもいいエピソードをこのブログで引用させてもらったことがある。それはその人自身に関わることではなく、その人が震災後の町なかで見かけた情景を実に的確に描写した文章であった。もちろん断わりなく引用するのだから、名前は伏せ頭文字にとどめた。ところが後日、その人から以後そのような引用は遠慮願いたいと言われたのである。そのことによって何か実害があったのですか、と聞くと、いやそれはない、ただ自分は自分の書いたものが人前に晒されることに慣れていないから、との返事であった。以後その人からの音信は途絶えている。
 現代は不思議な時代である。ケータイ、インターネット、さらにはスマートフォン(でしたっけ?)とかiPhone(でしたっけ?)とか、凄まじい勢いで言葉や情報が行き交っている。それでいて互いに内面を表すことが病的なまでに避けられている。その多くは匿名性という仮面を被っている。そして時にその仮面の陰から、「死ね!日本から出て行け!」などおどろおどろしいしい呪詛が吐き出される。ツイッターとか2ちゃんねるとかいうものに対して、不快感以上の恐怖心を感じて近づきたくもないと思っているのはそのためである。
 しかし震災であれ戦火の中であれ、不思議でもあり感動的でもあるのは、そのとき人々の魂が露出し、互いの内面を臆せず溶け合わせる稀有な機会に恵まれることである。なぜこれまで互いを根本のところでは信ぜず、ひたすら本心を隠しながら、おざなりの付き合いしかしてこなかったかに気づく貴重な瞬間である。
 末期の眼でものごとを見、考え、感じるとは、まさにそのことなのだが。
 ちょっと待て? 話が少しこんがらがってきましたな。続きはまた明日にしましょう。ともかく今日も(おっともう明日になった)疲れてしもた。

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脱学校の試み

福島市や郡山市の小学校の異常な毎日を報じる記事を読んだ。窓を閉め切り、蒸す教室。窓側の方が放射線量が高いので(本当かいな?)、その不公平感を無くすために毎日列替えをしているなどなど。窓を開けても線量はまったく同じだという実験結果が出ているのに、それを信じようとしない親たちへの配慮からそうせざるを得ないらしい。
 先日もここで「ちぢこまるの愚」という文章を書いたが、ここまでくるとやはり異常という外はない。不安と不信の底なし沼に足を取られている感じだ。そしてだれもその愚を諌めない。ここまでは安全という例の閾値をだれも知らないからだ。
 こんな形で集団生活をさせるなら、放射線ではなくストレスで病気になる子が出てくる恐れがある。ここまで来たなら、いっそ事態が収束するまで、先日提案したように、いくつか選択肢を作って、あとは親の判断にまかせてはどうだろうか。つまり南相馬市とは事情が若干異なるが、毎日学校に子供を通わせたい家庭、教師の定期的巡回指導を条件に家庭学習をさせたい家庭、そのいずれかを選ばせる。もちろんいずれの生徒に関しても、今後長期にわたって定期的に健康状態のチェックを国の責任の元に実施する。万が一将来健康被害が出た場合はB型肝炎などの場合のように、訴訟を起こして初めて国が動くなんてことではなく、当初から無条件に国の全責任の下に子供の健康を守らなければならないのは言うまでもない。
 これまた震災直後の時点で書いたことだが、たとえば閾値など基準が分からぬ事態においては、暫定的・限定的ながら、各自ひとまず自分なりの行為基準を打ち立てなければならないときがある。そして一度選んだ状況下にあっては、つとめて自由に、積極的にその環境を生きるよう努めなければならない。あたかも現在自分たちの生活を圧迫しているものが存在しないかのように(鴎外に「かのように」という短編があった)。
 要するに、この非常時くらいは、教育というものを学校とか校舎・教室からもう少し広い場所や機会に開放することである。元教師のおじいちゃんやおばあちゃん、元教師でなくても子供の教育に関心のある多くの人を動員して、新しい角度から教育を見直す絶好の機会と捉えることができるのではないか。
 その子たちにとって、この新たな経験が、将来必ず深い意味を持つようになるはずだ。それじゃ学級崩壊だと? そう崩壊、それもいい方への崩壊、正しくは開放である。人類の歴史において、現在のような学校制度はたかだか百年ちょっとの歴史しかない。学校がないと無知蒙昧な人間が輩出する? いやそんなことはないよ。元教師の言うことではないかも知れないが、日本のように学校依存型の社会は、均質な人間つまり金太郎飴型人間は作るが、「自分の目で見、自分の頭で考え、そして何よりも自分の心で感じる」人間を作るにはあまり役立たない、というかむしろ足かせになっていることの方が多い
 脱原発ならぬ脱学校のささやかな試みである。
 ところで話はとつぜん変わるが、明朝、三泊四日の停泊を無事終えて、オデュッセイア号は台風2号に追いたてられるようにして避難先へと向かう。無事目的港にたどり着くことができるよう祈るばかりでる。愛はもうすぐ3歳、教会幼稚園年少組に入園できるであろうか。

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自宅学習はいかが

※最後に二つの追記を加えました(25日午後五時)。よろしく。

朝日新聞の「いま伝えたい 被災者の声」には連日写真入で各地の被災者の生の声が掲載されている。私の一家も震災後まもなく、二つの新聞に載った。おかげでそれまで音信が途絶えていた人と再び繋がることができたし、これまでまったく知らなかったたくさんの人がこのブログを読んでくださるようになった。改めて新聞というものの威力を思い知らされた。そう言えば、終戦後間もなくのころ、NHKラジオの「尋ね人」という番組があり、戦争によって離ればなれになった人同士がしきりに互いの消息を尋ねあったものだが、それと同じ役割を、現在ではテレビと新聞が担っているというわけだ。満州からの引揚者だったわが家でも、知人の消息が知りたくてずいぶんあの番組を聞いたものである。
 さて今日もそのページを見ていくと、あれっというような記事が眼に飛び込んできた。南相馬市原町区のお母さんと幼い二人の娘さんの記事である。自宅が津波被害がなく無事だったのに、放射能が怖くて福島市のあづま総合運動公園内の体育館で暮している親子らしい。あれっと思ったのは、震災後すぐのときにとりあえず避難していったのは理解できるが、それから二月以上も経っていろいろと状況が分かってきたのにどうして?と思ったからである。放射線値のことなら原町区より三倍も高い福島市でなぜ不自由な避難所生活を続けているのか、正直分からない。避難所生活が意外と楽しいと思っているなら、それはそれで文句をつけるつもりはないが……唯一考えられるのは、例の緊急時避難準備区域という、実際は現実と懸け離れている線引きに縛られていることか。
 今日の散歩はまた新田川河畔だったが、その途中、迎えに出たお母さんと一人の小学生の姿を見た。隣りの鹿島区の小学校からの帰り道だろう。先日も言ったように、これも実におかしいことだ。私が小学生の親だとしたら、どうしたろうと考えてみた。隣町の小学校にバス通学などさせずに、原町区の空いた小学校での授業再開を主張しただろう。それが聞き入れてもらえなかったら、事故の方が収束するまで、自宅学習を許してもらえるよう働きかけたかも知れない。つまり日頃から子供の教育全てを学校に丸投げするような風潮を嫌っているからだ。それでなくても今は非常時(そして自分の勤務先は休業と仮定しよう)、だからせめてこの機会だけでも、わが家で思い切り本を読ませたい。私の家に来てもいいというお友だちがいるなら、我が家でその子らの面倒を見てもいい。もちろんまるっきり自由というわけではなく、学校側からおおよその勉強内容が指示される。
 むかし教師をやっていたのに、と思われるかも知れないが、明治以降、日本ほど学校信仰が深く根付いた国も珍しい。子供の教育にとって、学校はあまたある教育手段の中でもっとも効率的で均質的な方法・手段の一つに過ぎない。つまり学校が独占的に教育全般を支配しているのはむしろ不健康なことだと、今度の震災を機に親たちが考えてみる必要があるのではないか。全てを文科省や教育委員会、そして学校に独占させるのではなく、それぞれの家庭が応分の責任というか権利を取り戻す必要があるということだ。
 原発事故が収束するまでのあいだ、どうしても学校生活を続けさせたい家庭に対しては、校舎・教員などの手当てをするが、一方で自宅学習を希望する家庭に対しては(中高生については無理としても、少なくとも小学生に関しては)それを許し、そのためのガイドブックを作成し、担任教師が定期的に家庭を巡回し、必要な指導助言を行なう。なお夏休みなど数度にわたって放射線値など気にしなくてもいい大自然の中の林間学校などで思い切り友だち同士の友好を深められるよう配慮する……どうもこの自宅学習の可能性は夢のまた夢かも知れない。しかし今回の震災が、これまでの学校教育を根本から見直す絶好の機会であるにもかかわらず、相変わらず余裕のない、本当の思考力や創造性の涵養とは反対の、従順だが自分の頭で考えることの少ない子供たちを、まるで金太郎飴みたいに量産する学校システムを継続するだけだとしたら、情けない、無念だ、と思う。
 一度地元の高校で開かれた相双地区の先生方のある教科の研修会に呼ばれたことがある。思い切って言わせてもらおう、なんと先生方の元気のないこと、たぶんつまらぬ雑務や部活指導で休み返上の生活に疲れていたのだろうか、申しわけない、これじゃ子供たちも元気がなくなる、と思ったことを覚えている。子供たちを地域全体が育てていくという発想転換をしない限り、南相馬の未来も暗いですぞ。もしもなにかお手伝いできることがあったなら、老躯に鞭打ってでもお手伝いします。話は思わぬ方向に脱線し始めました。ここらで軌道修正、いやここらで今晩は終わることにしましょう。

★追記 先日ここに登場願った「はげあん」さんこと私の従弟は、毎年夏にチェルノブイリ被災者の子供たちを北海道上士幌に招いてホームステイさせるプロジェクトをずっと実践している。来日時の検診と帰国前のそれとでは格段の相違(白血球? もちろんよい方への変化)が見られるそうだ。全国の善意の人たちの協力が得られれば、この特別林間学校計画は、実にいい考えかも知れません。どなたか具体的に話を進めていただけませんか。

★★ 迂闊にも知らなかったが、彼が代表を務める「チェルノブイリ里親の会」は、早くも3月17日に、東日本大震災の被災児たちを受け入れる準備を始めたそうである(「十勝毎日」報)。同会名称で検索すれば出てきます。

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内部へ進め!(続き)

前回の舌足らずのメッセージに鋭く、また適切に反応してくださった方もいて、あのまま途切らせるのは無責任なので、もう少し続けてみる。歴史の古層などと辞書にもない新語を作ってしまったが、それを基層と言い換えてもいい。実はこのあたりの考えは、このモノディアロゴスの名付け親(と言っても彼が自分のエッセイ群をそう命名しただけだが)で前世紀前半に『生の悲劇的感情』(1913年)などをもって世界的な名声を博したスペインの思想家ミゲル・デ・ウナムーノの考えを引き継いでいる。
 私たちは歴史というものを、たとえば天皇や王様など為政者たちの交代、あるいは戦争や領土拡大などいう大きな歴史的事件の継起として捉えるのがふつうである。しかし実際は、そうした表立った交代や継起は、ちょうど海面に惹起する波のようなもので、それらを支え産み出す深い海底なしには存在できない。ウナムーノは歴史の基層を内なる歴史(intra-historia)と名づけた。つまりレパントの海戦の大勝利の日も、いつものとおり生ぬるい水と固いパンをもって黙々と生業に携わる無数の名も無き人々の存在抜きには意味を持たぬ空騒ぎに過ぎないとしたのである。
 歴史の表面に層々と積み重なったものを掘り下げていくと、その底に確かな手触りを感じさせる人間の基層にぶつかる。たとえば今回の大震災のあと、各地でたくさんの新しい出会いが、そして思いもかけない懐かしい再会があったはずだ。もちろん素晴らしい出会いや再会だけではなかった。ふだんは信頼し一目置いていた人が、意外にもそうではなかったという苦い発見もまたあったはずだ。
 そしてそれら個々人の中に、さらに内なる世界が広がる。自分でも気づかなかった内なる私の発見。またまた話が脈絡を失って拡散しそうだが、怖れず続ける。たとえば私の中には福島県人とか東北人とか、日本人とかに納まりきれないものが見えてくる。たとえば私の中にかなりの確率をもって先住民族のアイヌ(神に対する<人間>を意味するそうな)の血が流れている、そしてさらにその底には縄文人の血が…
 今ではほとんどかえりみる人もいないが、かつて江上波夫の騎馬民族日本征服論が騒がれたことがある。歴史学的に異論があるかとは思うが、しかし日本人のアイデンテティーを考える際、大和朝廷を中核とする農耕民族と固定せずに、もっと広い世界の中で考えるための大きなヒントを与えてくれるのではなかろうか。
 話は一挙に跳びますよ。だから今朝の新聞を見てびっくりしたし、イヤーな感じを持った。つまり大阪府の橋下徹知事が代表を務める地域政党「大阪維新の会」(維新)の府議団が、府立学校の入学式や卒業式などで国歌を斉唱する際、教職員に起立を義務づける条例案を5月定例府議会に提出する方針を固めた、というニュースである。何を馬鹿なことを言っとるか、である。これまで口がすっぱくなるほど(あゝ懐かしい表現)繰り返してきたが、伝統と伝統主義が違うように、愛国心と愛国主義は似て非なるものである。網野善彦氏の指摘を俟つまでも無く、日本国の存在はそう古いことではない。ましてや国歌や国旗においておや。つまり私は、日本人である前に東北人であり、アイヌとの混血であり、そして…縄文人なのだ。たかだか数百年の歴史しか持たぬ狭隘で排他的な日本人という範疇に押しこまないでくれー!
 話はさらに飛ぶ(もはや跳ぶどころじゃない)。だから時々BSで見るベネツィアさんの番組、いたく感心してます。彼女、並みの日本人より、もちろん橋下知事より、はるかに日本人ですなー。彼女が日本国籍じゃなくても、たとえアイルランド(でしたか?)国籍でも、そんなこと関係ない。彼女は日本人が失ってしまった日本人の魂を生きてますぞい。
 最初怖れていたように、話は収拾がつかなくなりました。またそのうち、この議論を蒸し返しましょう。おやすみなさい。

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内部へ進め!


ハアー
遥かかなたは 相馬の空かヨ(ナンダコラヨト ハ チョーイチョイ)
相馬恋しや なつかしや(ナンダコラヨト ハ チョーイチョイ )


夕食後、ユーチューブで久し振りに三橋美智也の「新相馬節」を聞いた(他にも森昌子や藤あや子、大塚久雄のがある)。伸びやかな歌声につれてはろばろと相馬の空が広がってゆく。相馬恋しや なつかしや。しかしその空はいま放射線に汚染されている。聞いているうち、かつてなかったことだが、不覚にも涙があふれてきた。懐かしい、そして悔しい、情けない。
 1878年(明治11年)6月、イギリス・ヨークシャー出身の牧師の娘イザベラ・バードは東京を出発して日光から会津を通って新潟へ抜け、それからさらに北上して北海道まで、通訳の日本人の男一人を連れにしての旅を敢行した。後にそれは “Unbeaten Tracks in Japan” (邦訳名『日本奥地旅行』) として刊行された。芭蕉の『奥の細道』(1702年)よりもさらに長途の東北紀行を著したのだ。それはともかく、バードの本の原題に注意が向かう。アンビートンはもちろん「未踏の」という意味だし、著者もその意味で使っているわけだが、しかしそれは同時に「征服されたことのない」、つまり「まつろわぬ」の意味がある。
 私自身百パーセント東北人の血を引きながら、実は東北については何も知らないまま生きてきた。もともと母方は八戸、父方は会津が先祖らしいが、双方とも相馬に流れ着いたのである。道の小草にも米がなる(相馬盆歌)豊かな相馬に。
 開闢以来けいけんしたことのない大災害に見舞われた東北、鉄道網や幹線道路が寸断されて、一時はバードが旅した奥地に逆戻りしそうになった東北。いま少しずつ復興に向けての動きが始まっている。明治の富国強兵の時代には兵士の供給地として、太平洋戦争後の復興期には労働力の補給地として(「ああ上野駅」の時代)、そしてGNP世界第二位の時代には電力供給地として粉骨砕身してきた東北。
 もしかしたら、この大震災は自分たちのそうした過去を根本から考え直す絶好の機会なのではないか。純朴とか粘り強いとか、おだてられてきた割りには真のアイデンテティーを持ち得ないままに来たことを真剣に内省してみる好機とすべきではないか。
 国家エネルギー政策でも相も変らぬ供給地の地位に甘んじてきた東北。今回の事故は、東京電力という国家お抱えの巨大企業に正に収奪される図式が今さらのように露呈した事故だった。これからは巨大企業に吸い上げられる形ではなく、もっと分散型の、つまり地産地消型の形に変えていかなければならないであろう。
 いやいや不慣れな領域で、よくは分からない問題について話すことはやめよう。ただぜひ言いたいことがある。新相馬節を枕に振ったのもそのためであった。つまりこの際私たちはそれぞれ自分とは何か、を真剣に考える必要があるということである。換言すれば、復興を目指すは良し。しかしどこへ? 個人であれ、国であれ、覚醒のために進む方向は二つ、いや三つである。すなわち元に帰る、現状を維持する、そして先に進むの三つ。復古も現状維持も論外であろう。では先に進むにはどうしたら良いか。いま誰しもが目標としているのは、単に元の町に戻すことではなく、むしろ新しい形の町作りを目指すべきだということである。
 だがおのれ自身をつかまないままに前に進むのは愚かであろう。新しい青写真のもとにテクノポリスでも作ろうか? いやいや同じ進むにしても、これまで歩いてきた路線と地続きの未来ではなく、いうなれば内部に進むこと。
 ちょっと古い例だが外国の例を出そう。1898年の米西戦争で新興アメリカ合衆国に負けたスペインは、自国の再建をめぐって喧々諤々の議論が持ち上がった。かつての栄光のスペインに戻るか、それともヨーロッパの先進諸国を目標に前進するか。そのときこれら二つの道ではなく第三の道を目指すべきという思想が強く主張された。すなわち前に進めではなく、内部へ進め、という思想である。
 内部とは? それは既に経験した過去へではなく、いつの時代にあってもおのれの魂の中に流れていたものへと向かうことである。つまり自分たちの歴史の中に、いやもっと正確に言えばその古層に脈々と流れていたものの再発見へ。
 新相馬節を聞くときに、おのれの内部に湧き上がりあふれ出すものの再発見である。この議論、いささか込み入ってきたので、中途半端だがまた次の機会までお預けにしよう。

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プラグを抜く勇気

新聞が読めるようになったのは良いが、いやなニュースが目に付く。今日のそれは、自民党内で「原子力守る」政策会議が発足したことである。東電の元副社長で現在は顧問の加納時男・元参議院議員が「参与」として名を連ねている。彼はインタビューで「低線量の放射線はむしろ体にいい。これだけでも申し上げたくて取材に応じた」などと、被災者の神経を逆なでするようなとんでもない暴論を吐いている。前にも言ったことだが、そんなに安全で、しかも健康にいいとまでおっしゃるなら、原発の側に暮すなり、あるいは日焼けサロンのようなところで、こんがり放射線を浴びたらよろしい。
 救いは、すぐ横に掲載されているインタビューで、河野太郎氏が「次の選挙でそういう議員(推進派議員のこと)を落とすしかない」とまともな答えをしていることだ。そうかい、早くも推進派がうごめき出しているのか。ただいつものことだが、今の日本ではまともな人は常に少数派であるという情けない事態が続いている。
 加納時男のニュースよりも胸糞悪いのは、ビンラディン殺害の詳報である。武器を持たない相手を有無を言わせず殺害したあと、DNA鑑定で本人であることを確認し、それから死体を海の底に沈めたそうだ。これって質の悪いマフィアのやり方じゃない? おまけに、作戦が漏れることを怖れてパキスタン政府に知らせることも、ましてや了解を得ることもなく敢行したというから恐れ入谷の鬼子母神である。そしてホワイトハウスでは、作戦の一部始終を映し出す画面を、大統領たちが固唾を呑んで眺めていたというおまけまでつく。
 9.11が憎むべき犯罪であったからといって、今回の無法行為が免責されるはずもないのに、これを批判する論調がほとんどないというのは、これおかしくないですか? そんなにアメリカに気を使わなくちゃならないんですかね。死者の数が違うなんて理屈は通りません。オサマとオバマとわずか一字違いだけど、無法者である点でもほとんど違わないと言われても抗弁できませんぞい。
 またチラッと見たテレビのインタビューで、ノーベル化学賞受賞者の野依良治氏が原子力利用の今後について、どうですか脱原発の方へ向かうということですか、と聞かれて、どうも煮え切らない言葉に続けて、推進派も反原発派ともに原理主義であってはならないというようなことを言っているのを聞いた。白状すると、私自身は脱原発と反原発がどう違うのかも知らない、ちょうど原水協と原水禁の違いが分からないように。ただ野依氏がどういう意味で原理主義と言ったかどうかは知らないが、原子力利用に反対することに宗教的な理由などあるとは思われない。
 つまり私は以前から、なにか宗教的な理由から原発反対を主張しているのではない。科学的といったら烏滸がましいが、原子力利用は決してクリーンではなく、またそこに生じる危険を人間は回避できないというごく単純で明快な理由から反対しているだけである。
 要するに、イリッチという人が言う「プラグを抜く(アンプラグ)」、もっと古い喩えでは「パンドラの蓋を閉める」勇気を持たない限り、人類は救われないぞ、と主張しているだけなのだ。しかし原発問題だけでなく、ビンラディン殺害に伴う世界の緊張化など、今さら繰り返すのも癪だが、なんだかいよいよ住みにくくなりますなー世界は。かといって他に行くところなどないわけでありまして、そんなこと考えていきますと、夜も眠れなくなります。でもありがたいことに、というか自然の摂理でしょうね、私にも睡魔が訪れようとしております。難しいことはまた明日考えましょうか。それじゃ皆さん、お休みなさい。

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第三の男の論理

人間をどう捉えるか、という難しい問題を考える際にいつも思い出すのは、或る映画の極めて示唆的な一場面である。グレアム・グリーン原作、キャロル・リード監督の映画『第三の男』(1949年、イギリス映画)の有名な場面、すなわち死んだと思った旧友(第三の男、オーソン・ウェルズ扮する)が悪質なペニシリンの横流しでボロ儲けをしていることを知ったアメリカの三文作家(ジョセフ・コットン扮する)が、ウィーン郊外の遊園地の、観覧車の中でその旧友を問い詰める場面である。粗悪なペニシリンによって大勢の子供たちまでが犠牲になって死んでゆく事実を突きつけられて、第三の男が答える。

「犠牲者? 感傷的になるなよ。あそこを見てごらんよ」と、彼は窓越しに、観覧車のはるか下で黒蠅のように動めいている人間たちを指さして、言葉を続けた。「あの点の一つが動かなくなったら――永久にだな――君は本当にかわいそうだと思うかい? もしも僕がだね、あの点を一つとめるたび二万ポンドやると言ったら、ね、君、ほんとうに――なんの躊躇もなく、そんな金はいらんと言うかね? それとも、何点は残しておいてもいいと計算するかね?……」(小津次郎訳を一部変えた)

 いまその場面を思い出したのは、今回の原発事故以後の政府やら東電やらの対応を見ていると、実は彼らに被災者たちの顔が見えていないんじゃないかと思えることが度重なったからである。もちろん会ってもいない多数の人間のいちいちの顔は見えるはずもないが、しかし人間には想像力というものが備わっているはずだ。簡単に言えば、彼らにその大事な想像力が著しく欠如しているのでは、と危惧するのである。
 政治家は小説家でも芸術家でもないと言うのか。いやいや政治家に限らず、人間が人間として人間らしく生きてゆくためには、想像力は必須のものである。と言うことは、多数の人間の生活だけでなく、ときにはその生き死ににも責任を持たざるを得ない政治家に、想像力は取り分けて必要だということになる。もしかして昔の修身の教科書に出ていたかも知れないが、柄にもなく仁徳天皇作と言われるこんな歌を思い出す。

高き屋にのぼりて見れば煙(けぶり)立つ民のかまどはにぎはひにけり(新古707)

 支持率を気にする政治家は多いけれど、民の煙をほんとうに気にする政治家はあまりにも少ない。もちろんこの場合の煙は、民の暮らし向きだけでなく、まさに荼毘に付されて立ち上る民の煙すなわち命そのものをも指す。
 第三の男の理屈は根本から狂ってはいるが、論理的にはまことに正確である。つまり視点をどこに置くか、によって人間理解がそれこそ大きく変動するのである。たとえば、これまた映画の話で恐縮だが、昔の西部劇に登場するインディアンは射的場の駒以外の何物でもなかった。つまり視点は一方的に白人開拓者に固定されていた。ハリウッド映画の中でインディアンが先祖伝来の土地を略奪される犠牲者の顔に見えてくるには長い年月を必要とした。つまり一時期まで映画製作者にも観客にも、人間理解のための想像力が決定的に欠けていたわけだ。
 人間理解にとって、時には相手の側から見る、相手の立場に立ってみるという視点の移動も大切だが、もう一つ重要なのは、人間理解には縮小も拡大もしてはならないとうこと。つまり人間理解には等身大の理解しかない、ということである。
 第三の男の場合のように、等身大の人間が黒蠅に縮小されること、あるいは銃の照準器の中の正に点になることによって、殺人や戦争や、そして政治的愚策が生まれるのである。拡大の例としては、権力やお金によって視点が曇らされ、相手が異常に大きく見えることであろうか。
 ついでに思い出したことがある。それは小林秀雄の言葉で、自分には鋭い批評など怖くもなんともない、ただ一つ怖いのはお袋の眼、なぜなら自分を拡大も縮小もせずありのままに見る眼だからだ、といったような言葉である。さてどこにあった言葉か今は思い出せないが、なぜか気になる言葉だった。

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答えのない問い

原発事故を含めての今回の大震災を私たちはどのように受け止めたか、どう対応したか、それこそ千差万別である。受けた被害の大小、家族などの人間関係、そればかりでなくまさにタイミングの問題も絡んで、実に多種多様な人間模様が浮き彫りになった。もちろん大震災のもっとも深刻な部分は現在進行中であるから、どれが正しい選択であったか、どれが不適切であったかは、それこそ予断を許さないし、私としては将来ともそれを判定する気にもならない。巻き込まれたすべての人がいわば被害者だからだ。もちろんゲンパツ事故は、何度も主張してきたように紛れようもない人災である以上、その責任は今後厳しく検証され、必要なら手厳しい法的責任をも問われなければならないのは今さら言うまでもない。
 しかしいま私が考えているのは、ゲンパツ事故以後に起こった事態、つまり政府によって策定された避難や屋内退避の指示を受けての人々の反応についてである。先日話題にした双葉町のおばあちゃんは数少ない例外として、20キロ圏内の避難指示にはさして選択の余地は無かったであろう。もちろんいったん避難したあと、情勢の変化というよりは無変化に業を煮やして、ときなは町ぐるみの新たな避難地への移動はあったが。
 つまりいま私が言うのは、正に私自身が置かれている屋内退避指示地域での対応の諸相についてである。もちろんこの指示とて時間の経過と共に、自主避難勧告、さらには現在、計画避難なんとかというわけの分からない区分けが加わっているらしい。「らしい」と言ったのは、当地での現在の環境放射線値の極端な悪化、飲用水の劣化、そしてもっとも重要な風向きによる危険度の増加がない限り、みずから避難する意志などこれっぽっちも持ち合わせていないからだ。
 話をもとに戻すと、既に報告済みのように、当初、当該地区の市民の八割近くが「自主避難勧告」以前の自主避難に踏み切った。しかしその後、徐々に避難先から戻ってくる市民の数が増え、正確な実数(市役所さえそれを把握していないであろう)は知らないが、避難者と残留者の数は逆転していると見て間違いないであろう。たとえば再開した店舗、部分的ながら診療を再開した病院など、徐々に市民生活は息を吹き返している。私ならずとも、放射線値の悪化などが無い限り、市民たちはもはや再度の避難はごめんだと思っているに違いない。
 さて前置きが長くなったが、ここからが実は本題である。といってあらかじめ答えが用意されているわけではない。私自身がその前に大きな疑問符を抱いて立ち止まっている問題だからだ。今日の午後のことから話し始めようか。午後、避難所にいる友人から電話が入った。事故の翌日から、何度か心配になって電話をかけたが誰も出ず、避難したのだろうと思っていた友人からの電話である。彼ばかりでなく、日ごろ親しい付き合いの会った友人が何人か、まったく消息がつかめなくなって久しい。それぞれ避難所もしくは子どもや親戚の家に避難したのであろう。
 ところで友人は避難所生活の素晴らしさを長々としゃべった。要するに避難所生活も捨てたものではなく、皆に親切にされるし(彼は持病を抱えている)、友人もできた。昨晩などフランス料理のシェフが出張してきて、皆に美味しい料理をふるまってくれた…ところが聞いている私は、正直に言うと、ことさら避難所生活の良いところを強調することの中に、裏返しに、いわば根扱ぎにされた不安定な非日常にあえて目をつぶった虚勢の響きを感じてしまったのである。しかし他人のことは言えない。もしかして、タイミングが微妙にずれて、私も彼と同じ選択をしていたかも知れない。それを踏みとどまらせたものは何か? 正直に言うと、究極のところは自分でも分からない。秤の針が一瞬どちらかに振れるように、一方に傾いたからだ、と言うしかない。
 大災難に遭遇して、かえって私たちは一体感を再認識したし、いまや心を合わせて、一つになって、復興を目指さなければならない、と毎日のように叫ばれ励まされている。そうであろう。それを否定することなぞできるはずも無い。しかし…今度の震災を機に、私たちがどれだけばらばらであったか、そしてその距離は互いの努力なしには、これからも埋められるはずもないのだ、という冷酷な現実もまた知らされたのではなかったか。わが家にもそれはあった。極限状況に置かれたがゆえにこそ、その違いがはっきり意識されたのである。つまり今度の大震災は、人々の心を互いに結びつけると同時に、また互いの違いをも苦く実感させたはず。だからこそ能天気な「日本は一つ」式の応援歌に、心のどこかで違和感を持つのだ。
 先ほどの疑問、なぜ私たちは、それぞれ多様な選択をしたのか、という疑問に正解は無いのかも知れない。そして結局最後に残るのは、私たちは何と不安定な存在か、予測できない事態に遭遇して、一瞬のうちに根扱ぎにされてしまう何と弱い存在であろうかということ。ただここで念のために強調しておかなければならないのは、そうした不安定な位相に人間を追いやるのが自然ならまだしも、愚かな政治や、結局は投機的な欲望を正当化する国際経済の犠牲にだけはなんともしてもなりたくない、ごめんだ、という強い思いである。
 肉親さえ一瞬のうちに失うという悲劇の直後に、テレビから流れて来るニュースがその結果円相場の暴落が始まったとかなんとか、その残酷なアンバランスを不思議とも矛盾とも受け取れなくなっているとしたら、つまり人間の不幸が誰かの投機的な欲望を刺激する契機となっている世界経済の狂った現実を不思議とも思わなくなっているとしたら……あゝそこまで問題を広げると収拾がつかなくなる。
 ともあれ、この大震災とりわけゲンパツ事故は、私たちにさまざまな、そして最需要な問題を突きつけていることだけは確かである。それにしては授業料が高すぎるが…

★翌朝の追記
 いつもそうだと言えばそうなのだが、昨夜書いたもの、自分でも何か釈然としない、何か奥歯に物が挟まっているような気がしていた。朝、起きしなに、そうだ一番言いたかったことを書いていなかった、ということに気がついた。それはこういうことである。
 私にとって重要な決断がいつもそうであったように、選択の余地のあるものをいくつか、あるいは最終的には二つ、のプラス・マイナスを比較対照してのものではなかった。つまり決断の際、ほとんど逡巡しないできた、秤の針が一瞬のうちにどちらか一方に傾くように、気がつくとすでに決断していた。
 大事なことについては、日ごろから考えてきた、それも学問的・理論的にというより、生(せい)の重心に触れ合うところで考えてきた、ということだ。なんだかこう書くと剣の達人の境地を言っているようで誠に面映いが……
 ずばり本当のことを言えば、重要な決断の理由はすべて「後付け」だということ、もっとくだいて言えば「ちゃらんぽらん」。お粗末でした。あゝ、ちょっとスッキリしました。★追記はここまで。

★追記の追記  「生の重心」という分かりにくい表現を使ったが、言い方を換えればものごとを根っこから考えてみること(それは幼児の発する「なぜ?」に近い)。「根っこ」はラテン語で radix、その意味で言うなら私は「根っこ主義者」、radical、「根源主義者」もちろん「過激主義者」とも「原理主義者」とも違いまっせ。むしろその対極に立ってます。★

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砕けて当たれ!

 
 たぶん世の中には敢然と戦わなければならない敵というものがあるに違いない。敵は必ずしも人間とは限らない。たとえばそれは不正であったり、貧困など社会悪であったりする。でも病はどうだろう。医学の進歩によって、予防処置を講じたり、病原菌そのものの撲滅などによって、かつてよりかは被害が少なくなってきてはいる。しかし新型インフルエンザがそうであるように、敵自身が進化し、それとの戦いが終結することは、おそらく、ない。つまり不老不死の夢が見果てぬ夢であるように、病や死に完全に打ち勝つことなど不可能であろう。
 たとえば個人的なことを言えば(といって私の書くものはすべて個人的なものにすぎないが)、妻は認知症であろう。なぜ「であろう」などと曖昧な言い方をしたかというと、実は医者から正式にそう診断されたわけではないからだ。数年前、これは認知症に違いない、といくつかの症候から判断せざるをえなくなったとき、専門医に診察してもらおうとは一度も思わなかった。少なくとも現段階では、効き目のある薬も、外科手術も無い、と分かっていたから、わざわざ「お墨付き」をもらうまでもない、と思ったからである。たぶん世の多くの人と、この点は違うのかも知れない。
 たぶん世の多くの人は、このような場合、先ず専門医に診察してもらい、さらにそれを確かめるため、評判や口コミを頼りに大学病院など大きな病院を巡り歩くかも知れない。その間味わわなければならない不安、焦燥感は半端じゃなく、精神的な疲労が重なる。
 いまではその当時の記憶はすでに薄れかけているが、簡単に言えば、観念したのである。じたばたしても始まらない、しょうがない、この事態を受け入れるしかない、と思ったのである。私の下した判断が絶対正しいとは、今でも思っていない。しかし私にとっては、この決断はごくごく自然な、とうぜんの結論であった。そして以後気をつけたことは、妻なり私なりどちらかが怪我や病気をしないことであった。妻が入院などすれば、急速に症状が進むからであり、私が病気などすれば妻の介護ができなくなるからである。
 要するに、私にはいつの間にか「当たって砕ける」より「砕けて当たる」生き方が染み付いてしまったのだ。「砕けて当たる」という表現は、もしかすると敬愛する作家・島尾敏雄の言い方を真似たのかも知れない。つまりどうやっても敵わない相手に対しては、当たって砕けるより、まず腰を低くし、相手の繰り出す強烈なパンチを柔らかく受け止めた方がダメージが少ないと思っているからかも知れない。俗な言い方をすれば、「負けるが勝ち」である。
 まだ働き盛りに結核で死んだ一人の叔父がいる。彼は生前、高校野球の実況などで、解説者が東北からの出場校を評し、東北人は粘り強いなどという決まり文句を発するや否や猛烈に怒り出した。そして自分の出生の地相馬を指して日本の癌だとまで言い切った。でも私はいつもそれを愛情の裏返しだと思っていた。
 「北の国から」で、大滝秀治演ずる北村清吉が、入植した麓郷の百姓たちが大不作を前にしても「へらへら笑っていた」と言ったシーンがなぜか記憶に深く残っている。あまりの惨めさに「笑うしかない」のだ。でも絶望しているわけではない。へらへら笑いながら、負けない、たじろがない。つぎの一手をなんとか考えている。
 今回の原発事故が天災でも病気でもなく、愚かな人間による人災であるということでは、腹立たしさが増幅するが、しかし当方にはどうしようないと言う一点では天災に似ていなくもない。事ここに至っては、前から主張してきたように、恥も外聞も面通もない、世界の叡智を集めて可能な限りの方策をつぎ込んでもらいたいし、こうまで世界の注目を集めているのであるから、いかにトントな面々でも、そうぜざるを得まい。さてしかし、当面私のすべきことは、事故現場での作業の経過に一喜一憂することではなく、客観的な数値を確認しながら、必ず事態は修復に向かっていることをあたかも信じているかのごとく、それでなくとも残り少なくなってきた己れの畑(余生)を黙々と耕すことでしかあるまい。因みに、今夜八時現在の例の数値は、0.68マイクロシーベルト/時、最低値更新中。

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「くに」とは何か?

籠城生活雑感(四月四日、震災後25日目)晴れ

 午後たまたま目にしたテレビには、原発立地市町村の長たちが松下忠洋副大臣(何大臣か知りません!)に対し、原発の安全対策を早急に実施するよう要望し、立地市町村への風評被害を防ぐことや防災体制の見直しなども求める場面が映っていた。陳情の形をとるしかないのかな、と複雑な気持ちで画面を眺めていた。このところ、時おり頭に浮かぶのは「くに」とは何だろう、という疑問である。いや、私自身の考えは相当以前からはっきりしている。2003年行路社刊の『モノディアロゴス』の「愛国心」と題する文章にこう書いている。

 「私自身いろんなところで主張してきたが、「くに」には大きく分けて三つのレヴェルがある。国家(state)と国民国家(nation)と国(country)である。国家とはたとえば国連加盟時にその資格として考えられる法的概念である。ここでは国土も国民もいまだ個的特性を持たぬ冷たい抽象的レヴェルに留まっている。国民国家に来て初めて国民(民族)の顔が見えてくる。この二つの概念にずれがあることは、南北朝鮮を見れば分かる。つまり民族としては一つだが、国家としては分断されている。自分を育んでくれた大地、海、そして自分の中を流れる懐かしい父祖の血を表す言葉こそが「くに」なのだ。しかし残念ながら日本語そのものが混乱していて、英語のカントリーと等価の日本語が無い。たとえば英語圏の人に向かって、あなたの国はどこですか、と訊くとき、絶対にステート(アメリカ英語の州ではない)とかネーションとは言わずにカントリーと言うだろう。」

 これに付け加えるなら、三番目のカントリーはスペイン語でパイース(país)と言うが、ここから風景という言葉パイサヘ(paisaje)が出てくる。さらに言うなら愛国心は英語でもスペイン語でもパトリオティズムだが、これはラテン語のパーテル(父)から出た祖国という美しい言葉パトリア(patria)から派生する。簡単に言えば、本来の愛国心とは国家に対する忠誠ではなく、父祖の地そして血への懐かしく、そして愛情あふれる思いなのだ。
 私は法学者でも言語学者でもないが、今述べたことは間違っていないはずだ。
 さて今回の大震災で問われている大きな問題の一つが、私たちにとって「くに」とは何か、という問題であることは確かである。これまで述べてきたことからも明らかだが、私たちにとって「くに」は現政府でも現行政でもない。私たちにとって、真の「くに」は先祖たちの霊が宿るこの美しい風土(あえて国土とは言わない)であり、そしてそこに住む人間たちなのだ。日本「国家」は、浜通りと呼ばれるこの美しい海岸線を原発銀座にしてきた。つまり、「国家」にはいつも生きている人間の顔が見えない。大本営の作戦地図にも、今回の20キロ圏30キロ圏にも人間の姿は見えないのだ。
 「くに」は今回、地震・津波という甚大な自然災害を被った。これは人災の部分を含みながら、しかし結局は自然災害である。しかし原発事故は明らかに、どういう弁明も空疎に響く明らかな人災、国家エネルギー政策から生じた紛れようもない人災そのものなのだ。
 今回の大震災は、政府の対応も報道の仕方も、この自然災害と人災が一緒くたにされている。それが象徴的に現れているのが、ここ南相馬市かも知れない。これまで何度も言って来たように、ほんとうの被災地の人たちには申し訳が立たないような、愚かな行政の、現状把握をしないままの愚かな指示の結果起こっていることなのだ。
 「必死に生きる」こと以外はすべてにおいて素人そのものの七十一歳の無力な爺さんが怒っております。頭脳はおそらく平均並みかそれ以下の一人の爺さんが、お上や科学エリート集団をば「トント」呼ばわりしておりますです。

 ケ・トント! さ、皆さんもご唱和願います、ケ・トント!!!


※ちなみに今日午後八時現在の例の数値は、0.78マイクロシーベルト/時です。たぶんこれまでの最低値でしょう。

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暫定的もしくは限定的信・不信について

今回の震災に関してさまざまな報道や見解や提言が飛び交っている。その全般についてコメントする用意はない。いまはただ一点について述べておく。
 原発事故に関するさまざまな経過報告がなされ、そして具体的な数値などが公表されている。確かにある場合は現状報告のスピードが遅い、いや遅すぎる。しかし被害現地にいる者としては公表されたものを先ず信じるしかない。というより敢えて信じるべきだとさえ思っている。
 私自身は日ごろから政治や国のあり方については批判的な人間である。原発に関しては、当初から絶対反対を唱えてきた。東電はもちろん設置市町村の長たちの姿勢を厳しく批判してきた。しかし避難所にいる一人の市長は今になって東電に対して怒っている、などと泣き言を言っている。しかし私からすれば、原発設置やその維持を積極的に推進してきたおのれの不明を、いや過誤をまず反省すべきではないか。周囲の批判に耐えながら設置反対の姿勢を貫いてきた少数派の市民や町民におのれの不明をまず詫びるべきではないか。
 わが南相馬市の現状に関しては、政府や国の公的機関に対する不信が底流していることを認めざるを得ない。つまり日ごろは為政者たちに何の批判も加えずに、悪く言えば盲従してきた圧倒的多数の「善良な」市民たちが、この危機的状況にあって不信感を顕わにし、そしてその不信感のもとに行動したという事実である。つまり屋内退避地域の大多数の人間が、その指示を疑い、そして現在の通信機器から得るまことしやかな「真実」の方を信じたわけだ。放射線測定値は偽の数値で、実はもっと危険度が高い数値を隠している、だからまず遠くに逃げなければ、などと判断したわけだ。
 私は昔なら「非国民」と言われかねない意見をずっと表明してきた人間である。しかし今回のことでは(暫定的かつ限定的に)公的見解や発表されてきた数値などを「信じ」ている。屋内退避の指示に従ったことによって、万が一命を落とすことになったら、世の終わりまで何万回でも「化けて」出て、為政者たちを呪い殺すつもり(あゝ恐ろし!)である。
 昨夜の文章の中で、職場放棄という少々きつい言葉を使ったが、緊急の場合に自分の命を守ることは許されるのでは、と思われた方もあったかと思う。もちろんである。愛する妻や孫の命が救われるならわが身を犠牲にしてもいいと思っている私でも、例えば濁流にもまれたときなど、ついわが身の保全を本能的に選択することはじゅうぶんありうると思っている。しかし今回の南相馬市の場合、そうした危険度の高い状況にはなかったのである。もちろんスタッフの中には、津波被害でわが家を失い、家族を失った人もいよう。そのスタッフが残された家族と一緒に避難するのはとうぜんの行為である。私が言ったのは、我が家の場合のように家屋倒壊を免れ、電気や水道も確保された状況の中で、すでに述べたような「不信」あるいは「風評」に狼狽して、病人や老人たちを見捨てた人たちのことを言ったのである。 もちろん事態が収まったとき(あゝそうなったらどんなにいいことか!)、あのときだれと誰がそのような行動に走ったか、など詮索するつもりも非難するつもりも毛頭ない。だれもが前述したようなのっぴきならぬ状況の下での苦渋の選択をしたと「信じる」つもりである。
 ただ願うのは、事態が少し好転して、外部から善意のボランティアたちが駆けつけてくれる前に、彼あるいは彼女たちが一分でも早く職場に復帰して、施設の再建に全力を尽くしてくれることだけである。

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無用の心配

また寒さが戻ってきたようだ。昼ごろ、かなり大きな地震もあったし、どうもすんなり春になってくれそうもない。このところ、連日『モノディアロゴスⅣ』の印刷、製本に精を出してきた。時おりの激励の言葉に支えられて。しかし徒手空拳の感じは払拭できない。でもそんな折、思い起こすのはウナムーノのあの言葉である。

Aquí os dejo mi alma-libro,
hombre-mundo verdadero.
Cuando vibres todo entero
soy yo, lector, que en ti vibro.

ここに残すのは、私の魂なる書物、
掛け値なしの私の人間性そして世界だ。
もし君が何かに強く心動かされるとしたら、読者よ、
君の中で心動かしているのは、この私だ。

 美子が数日前から、坐るときも歩くときも、なぜか体を左に傾ける。手術した脊椎の具合が悪くなったのでは、と背中をさすってみるが、痛いわけでもなさそうだ。ともかく自分のことを言葉で説明できないので、こちらで変化の予兆を気づいてやらなければならない。椅子に坐るときは、背中にクッションをあてがったりして様子を見ていたが、これ以上悪くなる様子はなさそうだ。ばっぱさんのグループホームに、認知症の進んだおばあさんがひとりいるが、彼女は常に前屈みで心もち体を傾がせて小刻みに歩いている。美子もいつかああなるのだろうか。
 そしていつか階段を昇り降りが出来なくなり、私たち夫婦の居間を一階に移さなければならないときが必ず来る。そのとき、排便や入浴は? そんなことを考えて心が暗くなったが、しかし先のことをくよくよ悩んでも仕方がない。そんな折、川口の娘からメールがあり、次男が熱を出したがインフルエンザではなかった、でも来週卒園式を控えている長男にうつったらどうしよう、と書いてきた。その返事に、ことは為るようにしか為らないから、心配しないで、と書いた。そう、ことは為るようにしか為らない。おじいちゃんも覚悟を決めよう。
 でもそのためには、こちらが丈夫でなければならない。最近はベッドや椅子から立ち上がらせるとき、かなりの力が必要になってきた。そんなとき腰を痛める心配がある。だから日ごろから体を鍛えておく必要がある。そんなことを漠然と考えていたからか、午後の散歩の代わりに(小雨がぱらついていたので)寄った百円ショップでゴム製のストレッチャーを買ったきた。でもこれどうやるの?「エクササイズのご使用例」の一つにこんなのがあった。

「脚部シェイプアップ=椅子に坐って片脚を曲げ、チューブを土踏まずに掛け、反対側を両手で持つ。手の位置をそのままにして、ゆっくり脚を伸ばし、元に戻す」

 おっとこりゃシェイプアップの方法だ。でも少しは腰にいいかも知れない。

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ひとり黙々と平和菌を撒く

テレビで「世界遺産」の特集を放映している。通りすがりに見たら、今日はスリランカの仏教遺産についてらしい。お釈迦さまが悟りを開いたという菩提樹を守るカーストの話である。お参りに来る参拝客たちから花や喜捨を受け取り、代わりに彼らの願いを取り次ぐ仕事を二千年近く引き継いできたカーストの男たちが、得々と自分たちの存在意義を語っている。それを見ながら、宗教と伝統について考えさせられた。
 果たしてお釈迦さまは未来永劫、こうしたいわば特権階級が他の多くの卑賤なカーストの上に、言って悪いがふんぞり返っていることを望んでいたのだろうか。カトリック教会にも「教会=神秘体」という考え方がある。つまり宗教組織の中の階層の意義、聖職者と信徒の上下関係、を是とする思想である。第二バチカン公会議以後、信徒の使徒職という考え方が出てきたが、ヒエラルキー(聖職者位階制度)そのものを否定するものではないだろう。つまりこれは、肉体がそれぞれ固有の働きを担う諸器官から構成されているように、組織が生きながらえるためにはヒエラルキーが必要不可欠であるという思想である。これはもっともな考え方であり、これを否定することはできないであろう。しかし……
 世界遺産に見られるように、宗教と文明・文化そして習俗と芸術、などには切っても切れない関係があって、もし宗教というものが存在しなかったら、これら壮麗かつ繊細な美術や芸術もまた存在しなかったであろう。それは否定すべくもない。それはそうだが……
 ふと安藤昌益のことが頭に浮かんだ。家に彼の全集やあらゆるデータを網羅したCDもありながら、そしてもしかすると母方の先祖が八戸で彼と繋がっていたのではないか、という謎がありながら、いまだに何ら探索の一歩を踏み出さないままの、あの昌益のことである。彼はあらゆる既成の宗教的権威、それは日本古来の神道や仏教などの宗教ばかりか、中国から伝わった学問的権威までも一刀両断に切って捨てたらしいが、そこにはどのような意図が、そしてどのような覚悟が秘められていたのか。
 血が繋がっているかいないかはともかく、そろそろ本腰を入れて彼の思想に踏み入ることを始めなければならないのではないか。私と宗教、とりわけキリスト教との最終的な関係を確かめるためにも、彼を読み込むことが助けになるのではないか。
 人類の歴史において宗教が果たしてきた役割はとてつもなく大きく深い。宗教がなかったら人類の発展もまた不可能であったに違いない。しかし同時に、宗教が持っている負の歴史もまた否定すべくもない。もちろんプラス・マイナス・ゼロではなく、プラスがまさっていることは事実である。然(さ)はさりながら…
 ではお前は何を目指しているのか、と問われれば答に窮する。神なき神学? とんでもない。無宗教的ヒューマニズム? 正直、分からない。まさに深いの中に迷い込んだような気持ちである。ただ漠然と考えているのは、たとえばこの私がこの小さなブログを通じてやっているように、一人でも多くの人が、組織の中の一人としてではなく、あくまで自立した個として、生きることの意味を考え、そしてそれを表現し、共鳴すべきときは共鳴し、緩やかな連帯を作っていくこと、そしてそのためにも、インターネットは強力かつ有用な媒体になりうること…以前、日々「平和菌」をいたるところにばら撒くこと、などと言った覚えがあるが、いまのところ考え及ぶのはそこら辺までかな。

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鈴の話

花岡大学との出会いはどういう経路からだったか、今はもう思い出すことができない。しかし最初の場面ははっきり思い出すことができる。アマゾンでなにかの本を探しているとき、不意に青空に吸い込まれていくような、白い帽子で白いシャツ、黒いスカートの女の子の後姿が目に飛び込んできたのだ。花岡大学『復刻版 やわらかい手』の表紙絵であった。何の本か? 
 実は初め、花岡大学を「暮しの手帖」の花森安治と間違えた。あのおばちゃんみたいなおじちゃんが何を書いたのか、と。ところが花岡大学はお坊さんで童話作家だった。1909(明治42)年、吉野の寺に生まれ、いくつかの大学で教鞭をとりながら童話を執筆し、小川未明奨励賞や小学館文学賞を受賞したらしい。『花岡大学仏典童話全集』全八巻、『花岡大学童話文学全集』全六巻(共に宝蔵館刊)がある。
 ところで『やわらかい手』には五つの童話が収録されていて、その最初の「鈴の話」を読んでびっくりした。これが童話? 確かに子供も理解できるやさしい文章で書かれている。しかし内容は実に残酷で悲しい話なのだ。ある冬の朝、継母にいじめ抜かれて入水した女の子の死体が流れてくるのを、彼女をひそかに好いていた同級生の男の子が偶然橋の上から発見するところで話が終わるのだ。
 考えてみれば、お伽噺とか童話は意外と残酷なものが多い。「かちかち山」は狸の背中を燃やす話だし、「舌切り雀」は文字通り雀の舌をちょん切る話である。しかしいずれも「むかしむかし」の話であって、この「鈴の話」のように、いまそこにある世界の話ではない。しかも同級生の入水などという身近に起こるショッキングな話ではない。こんな話を子供に読ませていいものだろうか。
 いや断然いいのである。むしろ読ませるべきであろう。子供たちが生きていかなければならない世界は、けっしてハリー・ポッターの魔法の国ではないし、テレビゲームのように容易にリセットできる世界でもない。現に時おりのニュースに、若い母親や父親に虐待されて死んでいく子供たちのことが報じられる。
 友人の司馬遼太郎が巻末に「不滅について」という追悼文を寄せているが、そこに生前の花岡大学とのこんな会話が紹介されている。

「花岡さんはある時、<私の中にいる一人の少年だけが読者です。その読者のためにのみ書いているのです>といわれました。<そういう少年が、現実にいるでしょうか>と問いますと、<いると思って書いているのです>とおっしゃったのです」

 入水した少女の苦しみ、そして凍てつくような冬の川に入ってその少女の遺体を岸まで抱き運ぶ少年の悲しみに共振し共鳴する少年や少女たちによって、人類の不滅の魂は受け継がれていくのである。その魂のリレーこそが真の文学の役割なのである。
 ところで題名「鈴の話」とは、少年の父親が鈴作りで、少年はあの朝、「形はちいさいけれど、焼きあがりもめずらしく優雅であり、うすべに色に彩色」された鈴を少女にあげようとしていたことからきている。

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一日の労苦

さて初めにおことわりしておきたいことは、昨夜の「トゥーラ叔母さん」の一部にとても大事な修正を加えたことである。そして今日のお話はそれに続く。つまり引っかかっていたのは、パリ遊学の若い周恩来が、だれもがその輝かしい業績を疑っても見ないフランス革命を、それほどまでに覚めた(冷めた)目で見ていたのだろうか、という疑問である。そしてその答が見つかるのではないか、という格好の本をアマゾンで見つけて、さっそく注文した。小倉 和夫 著『パリの周恩来―中国革命家の西欧体験』(中公叢書) である。
 毎度のことだが、知らないことが多すぎて気が遠くなりそうだ。旧満州体験を手がかりに中国そのものについても知りたいと思い、古典から現代中国文学まで、基本的と思う文献をそろえてきたが、そのどれもまともに読まないままだ。もちろん中華人民共和国の成立事情についても正確な事実はほとんど知らない。たとえば毛沢東と周恩来、彼らの真の関係や文革に際しての彼ら二人の位置、などなど知らないことばかりである。毛沢東と周恩来を検索すると、矢吹晋という人の『毛沢東と周恩来』が見つかった。著者について調べると1938年生まれで東大経済学部卒、アジア経済研究所を経て横浜市立大学名誉教授と出ていた。もともとは講談社現代新書だったものをネットに全文開放しているらしい(新書がないので確かめようがないが)。自分ではこうやって毎日ネットに書いているが、難しいものをネットで読む習慣がないので(たぶん死ぬまで)A4版88ページ全部をプリントさせてもらった。さて読むのだろうか。
 ときどき晴れ間が見えるようでまた曇り空に戻る一日だった。時間の過ぎるのがなんと早いこと。ほどよいタイミングで美子をトイレに連れて行く、薬を飲み飲ませる、食事をする、ばっぱさんを訪ねる前に夜の森公園で散歩する、などなど、決まりきった動作を繰り返すうち、いまさっき終えたばかりのことが、果たして今日やったことなのか、それとも昨日やったことなのか、判然と区別ができなくなってしまう。
 ときおり、わけの分からない不安で目の前が暗くなることがある。美子はいつまでこの状態を保ってくれるだろうか、私自身が怪我や病に倒れたら、美子はどうなるのだろう。気にしだしたらきりが無い。まっ来るものは仕方が無い、無理をしないで、ゆっくり対応していくしかない。
 こんなことぐだぐだ書いても詮無いことだ。一日は一日の労苦にて足れり?だったか、たしかこれは聖書の言葉だ。はてどこにあったろう?こういうとき、昔は聖書コンコルダンスとかを苦労して調べなければならなかったが、今ではヤフーで検索すればたちどころに出てくる。そして私のように、一日の終わりにため息をついて聖書の言葉に慰められる人が、またなんとたくさんいることだろう!ため息をつく人が自分以外にもいて、ほっとするかだって?
 はんかくさい、そういうわけにはいかないべさ。ともあれ、その箇所を書いておく。

 [明日のために心配するな。明日は、明日が自分で心配するであろう。一日の苦労は一日で足りる](マテオ、6-34)。

 うーん、やっぱ聖書はかっこいいっすなー。

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ある小出版社の話


 先日O氏からいただいた「ル・ファール」(フランス語で灯台を意味する)という洒落た雑誌の奥付を見ていたら、発行所が「れんが書房新社」となっていた。なつかしい社名である。
 むかし、その当時から出版界の不況が始まっていたのだろうか、翻訳をしても引き受けてくれる出版社がなかなか見つからない。そこでワープロで印字したものを勤務校(清泉女子大)近くの軽印刷所に持って行き、印刷製本を頼んだ。こうしてできたのがマダリアーガの『情熱の構造―イギリス人、フランス人、スペイン人』とライン・エントラルゴの『スペイン一八九八年の世代』である。奥付を見ると、一九八三年四月、六月となっている。
 それがどういう経路であったかははや忘却の彼方だが、れんが書房の鈴木誠氏の眼に止まるところとなり、まず『情熱の構造』(一九八五年)を、次いで何と『九十八年の世代』(一九八六年)までも出版してくれることになった。しかしもちろんそれだけが原因ではないだろうが、まもなく経営不振に陥ったとの風の噂を聞いたように思う。氏と直接お会いしたこともあった。八王子のどこかに倉庫を借りていて、そこに来られたときにお会いしたのだったか。ご自身詩人であり、いわゆる商売人とはほど遠い静かなお人柄が印象的であった。
 それから四半世紀が過ぎたわけだ。その間はまったく交信が途絶えた。そして「ル・ファール」との出会い。この雑誌は仏文学の小海永二氏の季刊個人誌で、氏と交流のある詩人や評論家の作品が掲載されている。さっそく奥付にあった電話番号を回して、氏と旧交を温めることができた。昔は社員が複数いたと思うが、いまは居候兼イラストレーターと氏だけの文字どおりワンマン会社。
 ともかくあの当時すでに始まっていた出版界の不況は、いまやアイパッドや電子書籍の登場で「構造不況の下り一本道をズルズル滑り落ちる」(氏の表現)一方で、れんが書房新社のような弱小出版社の生きのびる道は閉ざされているとのこと。現在では企画出版というのか、委託されたものを出版しているらしい。
 そして今日、日仏学院企画・日仏演劇協会編集の「コレクション 現代フランス語圏演劇」全十五巻のうちの本年六月刊行分の二冊が送られてきた。ミシェル・アザマ『十字軍・夜の動物園』(佐藤康訳)とワジディ・ムアワッド『沿岸・頼むから静かに死んでくれ』(山田ひろ美訳)である。いずれも知らない作家の作品だが、前者は一九四七年生まれのフランスの劇作家、後者は一九六八年レバノン、ベイルート生まれの劇作家・演出家と紹介されている。
 数々の名著を出してきた良心的な出版社が鈴木氏の代で消えていくのは悲しいが、しかし出版社といえども人間様と同じ、いずれは死んでいく。なら、生きているかぎり、あざとくベストセラーなど狙わず、自分が気に入った本をていねいに出版していくのもいいかも知れない。
 私から差し上げた私家本『モノディアロゴス』については、同封のお手紙に「きっちりすっきり出来ていて驚きました。なかなかの技術ですね」と書かれていた。一冊の出版部数は、れんが書房のものの三〇分一くらい(たぶん)だろうが、そう、私も自分の好きなものを好きなように、これからも生きているかぎり細々と出していきますぞ。

【2020年11月30日、息子追記】
マダリアーガの『情熱の構造 イギリス人、フランス人、スペイン人』、ライン・エントラルゴの『スペイン一八九八年の世代』の2書をれんが書房新社へとつなげてくださったのは、川成 洋先生であった。この場を借りて、先生に父に代わり、心からの感謝を申し上げます。以下に先生が父を追悼し、捧げてくださった遺作『情熱の哲学』のご書評を紹介します。

『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』

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忘恩の彼方に

出たばかりの『島尾敏雄日記 「死の棘」までの日々』(新潮社)が伸三さんから送られてきた。本当は他にもたくさんの本が、そしてその中の一冊はあまりに高価なので購入をためらっていた彼の写真集までが、送られてきたのだが。でもみなまで書くと、羨ましく思う人がいるかも知れないので、これ以上は言わない(あゝ、その態度、思わせぶりで感じ悪いよ)。
 中に、新潮社の宣伝誌『波』最新号が入っており、栞の挟まったページを開くと奥さんの潮田登久子さんの「奄美の家の膨大なモノの中から」というエッセイが載っていた。義母ミホさんが奄美大島の自宅に残した大量のモノの整理に悪戦苦闘する記録だが、先に出た真帆さんのものとあわせ読むと、死してもなおミホさんの霊がモノに乗り移っているようで、ちょっと怖い。と言ったらミホさんに叱られるかも知れないが。
 亡くなる半年前、ミホさんが、嫁の登久子さんと孫娘の真帆さんを正座させて、上機嫌に小笠原流の礼儀作法を伝授するエピソードなど、見方によっては鬼気迫るものがあるが、しかし今になってみれば、何事にも一生懸命であった彼女の過剰なまでの善意が見えてくる。もちろん近くにいる人にとって、それは息苦しさ以外の何物でもないのだが。
 今さら伸三さんに恩を売るつもりは毛頭ないのだが (これ掛け値なしに本当)、改めて考えてみれば、一時期、はからずも私は伸三さんの代わりを務めるような仕儀に立ち至ることが何回かあったのでは、と思うことがある。たとえば昭和六十三年十二月、加計呂麻島呑之浦での文学碑除幕式に、国内にいなかった (?) 伸三さんのいわば代わりに立ち会ったこととか、あるいは鹿児島から東京移転をもくろんだミホさんのために (そのとき伸三さんは「孝さん止めといた方がいいよ、あとで後悔するから」と確かに言った) 家探しをしたこと(伸三さんの予言どおりドタキャンになった)などなど。
 そんなことがあった後だったから、ミホさんが平成八年 (1996年) に名瀬市浦上にコンクリート製の (だと思う) 書庫と家屋を建てたとき、その落成式にしきりに参列するよう誘われたのだが、理由を作って行かなかった。その時も伸三さんは折悪しく (?) 国内にいなかったはずだ。
 たぶんその頃からだろうか、ミホさんとしだいに距離を置くようになったのは。つまりあまり接近すると、人間、相性というものがあって、互いの善意がうまく機能しなくなることがある。仕方がないことだ。ただ今までだれにも言ったこともなく、ましてや書いたこともないのだが、遠い昔、ミホさんの熱い、真剣な善意を向けられたことがあったことを書いておきたい。いつか私もこの世から消える。書いておかなければ、たぶん誰にも気づかれず永遠に消え去るエピソード。
 そのときのことは、昭和四十二年十一月、私がとつぜん聖職者への道を断念する旨の手紙を名瀬に送ったときのミホさんからの手紙に残されている。

 「突然の御便りで大変驚きました。早速に敏雄さんから御返事さし上げる事が出来ません事を御詫び致します。敏雄さんは十月十五日、名瀬を出発致しまして、只今欧州を旅行中でございます。十二月十五日頃帰宅の予定になって居ります。
 余りの急な御知らせにどのような御返事をさし上げましたらおよろしいやらわかりません。御便りを戴きました時、大きなショックで、文面を拝見しながらマヤと二人で涙をポロポロとこぼしました。決断を下されるまでの御気持御拝察申上げられてなりません。御便り読み終わってすぐ、お苦しみのさなかの孝ちゃんの御声なりと…と存じましてすぐ電話を申し込みまして夜十時過ぎまで図書館の電話口でマヤと二人で通話をお待ちして居りましたが、一向に東京への通話が通じませず、マヤが<十時が修院の門限ですから、消灯も十時かもしれないから、お電話があまりおそくなっては孝御兄さまに御迷惑かもしれない>と申しますので、通話を取り消して家へ帰りました次第でございます……」

 実に四十三年ぶりに読み返している。あのときのミホさんのお気持のことがいつも念頭にあったら、たぶんミホさんとの関係は別様に展開したかも知れない。でも残念ながら、人間はこうして忘恩と覚醒を繰り返しながら生きている。いや、忘恩はいけない。残された日々、ミホさんだけでなく、忘恩を繰り返したたくさんの恩人たちのことを思い起こしながら生きていこう。

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呪われてあれ、脳科学者どもよ!

年寄りの涙もろさは、生理学的にじゅうぶん説明できるだと?
言ってくれますねえ、脳科学者さん。
たしかに涙腺がゆるんでるんしょうなあ、このごろやたらと涙もろくなりました。
このあいだなんぞ、妻の手を引きながら公園を散歩していて、
木陰に小さな、可憐な花を咲かせている野草を見て、一瞬眼の前がぼやけましたもの。

ひっそりと可愛らしい花を咲かせて、何と健気なんだろう、
だれに愛でられるというのでもないのに。

か細い脚をからませることもなく上手に草の上を走る雀さん
だれにも注目されず、目の端の小さな点としか意識されない謙遜な小鳥さん
お前のねぐらがどこにあるかなんてだれも気にもしてない雀さん。

お前たちの姿を見てるだけで、鼻の裏が熱くなり、
放っておくと嗚咽に進んでしまいます、でもねえ、それって素晴らしいことじゃない?
涙腺がゆるくなったから涙もろくなったんじゃなくて
あらゆることに対して感じる心を持つようになったから、しぜんと涙腺がゆるむ、

つまり因果関係は逆に考えたほうがいいんじゃない?
かのオルテガさんも言ってたじゃないの、器官が機能を作るんじゃなくて、
機能が器官を作るって、つまり感じる心が涙腺をゆるませるのだって!

これまで忙しさにかまけて、じっくり過ぎ行く時間をいとおしむ余裕がなかった
いまこうしてやっと、周囲を親しみを込めて見れるようになったのです、
なら、老いることは素晴らしい!

シベリア流刑のドストエフスキイが処刑台の上で、今生の別れと覚悟して
周囲に広がる自然を見たとき、それらは何と美しく、そして愛おしく
彼の眼に映じたことか!
処刑の恐怖もなしに、ゆっくりじっくりこの世との別れができること
こんな楽しみが老後にとっておかれてたとは、あゝ何たる幸せ!

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一つの死亡記事から

新聞の切り抜きなど、はたして死ぬまで読み直すことなどあるんだろうか、などと思いながらも捨てられないで、いろんなところに残っている。富士貞房の大親分の、とこっちで勝手に言ってるだけだが、富士正晴氏が、新聞切り抜きの山の中に埋もれている写真を見たことがあって、あそこまでやるかねえ、と変に感心したことがある。しかし幸い私の切り抜きなどたいした量にはなっていない。せいぜいスクラップ・ブック3冊くらいではないか。
 で、前置きはここまでで、今日机の上を整理してると、10センチ四方くらいの小さな切抜きが出てきたことを言いたかったのである。それはいわゆる死亡記事で、一昨年八月十一日のものである。死者はまだ他にもいらしたのかも知れないが、切り抜かれている部分には、お三方の死去が報じられている。東京外国語大学名誉教授、日本スペイン協会理事長の荒井正道さん、日本舞踊家の若柳鵬翁さん、そして米国の写真家ジョー・オダネルさんである。
 かすかな記憶を呼び起こすと、最初は、見覚えのある小さな写真(亡き弟を背負った原爆被災少年の写真)に気づいて、その撮影者ジョー・オダネルさんの記事を切り抜こうとして、すぐ上の荒井正道先生の死去にも気づいて、両方の記事を切り抜いたはずだ。この写真については同じ町に住む詩人 WJ 氏の心に深く共振する哀歌がある。すでに絶命した弟を黒い紐で背負った少年の、直立不動の姿は、戦争反対の百万言より、戦争の悲しさ、非情さを語って余りある。
 いや、実はこれも前置きで、本当に書こうとしたのは、そのオダネル氏の名前が Joe O’Donnell と綴ることをネットで知ったことから思い出したことである。私自身はオドンネルと発音していた、もう半世紀も前のペンパルのことである。そのころ、つまり高校一年生であった私は、英語上達の一助にと(そんな殊勝な動機ではなかったか?)ペンシルバニアの田舎町に住む同年輩の女の子と文通を始めた。たしか郵便局に勤めるお父さんとお母さん、そして写真ではすごくのっぽの兄さんの四人家族で家の造りや車庫、車など、田舎とはいえ an American way of life の一つひとつが、私にはまぶしかった。
 彼女からは箱入りのチョコレート・ケーキの材料や、金色のシャープ・ペンシルの付いた、金色のケースに入ったメモ帖などが送られてきた。私の方からは…覚えているのは日本の童話に下手な翻訳を付け加えた絵本などを贈ったはずだ。彼女からは、筋はわかったが、and という接続詞が多すぎるとかなんとかコメントされたことを覚えている。
 大学3年になったころ、今度思うところあって修道院入りを決意したと知らせたら、すぐにだったか、少し経ってからだったか、実は私も修道院に入ることにしました、と知らせてきた。オドンネルという姓がおそらくヨーロッパでスペインと並んで熱烈なカトリック国であるアイルランド特有の姓であることを知ったのは彼女を通してである。
 その後数年して、私が広島の修練院にいた時と思うが、ちょうど兄がカナダ留学からの帰途、彼女のいる修道院を訪ねてくれたこともあった。それからまた数年経って、私は修道服を壁に架けた(colgar los hábitos en la pared = 還俗する)が、ほどなく彼女からも修道院を出て、その後いい人にめぐり合って結婚した、との知らせが届いた。さてそれからまた40年近くの歳月が流れた。もう連絡を取り合うことはないが、彼女はどうしているだろう。私のように、何人かの孫に囲まれたおばあちゃんになっているのだろうか。

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単一民族

先日、馬鹿な政治家の日本人単一民族説が話題になった。単一であることを至上の価値とみなす迷妄は、ついにはヒットラーのアーリア民族至上主義に発するホロコ-ストや、1990年代、ユーゴスラビア崩壊後に勃発した数々の紛争での民族浄化の愚行にエスカレートせざるをえない。狭隘でゆがんだ国粋主義の末路がいかなるものか、われわれは歴史上何度も痛い目にあってきたのに、同じ間違いが今日も世界のいたるところで繰り返されている。
 最近、「朝日新聞」の「ニッポン人脈記」というコラムで、十回にわたって「ここにアイヌ」という連載があった。以前、武田泰淳の「森と湖のまつり」に触発されて(といって、実はまだこの小説さえ読んでいないのだが)アイヌ問題を勉強しようと思ったのに、あれ以来すっかり放置したままなので、興味深く読んみた。いろいろ新しい事実が分かってありがたかった。暴走族総長あがりの俳優・宇梶剛士がアイヌの血を引いていることや、前から名前だけ知りながらいつか読みたいと思っていた哲学者・花崎皋平氏が、幕末以降の和人によるアイヌ抑圧を告発した松浦武四郎について『静かな大地』を書いていたこと(さっそくネット古本屋に注文)、若いアイヌたちがいろいろな形で自分たちのアイデンティティを模索し始めていることなど。
 先日我が家に滞在した叔父とも話したことだが、天保年間に八戸から相馬に天秤棒に赤子を載せてたどり着いた(荷車を引いて、と思っていたが天秤棒だとのこと)母方の先祖は、もしかしてアイヌの血を引いていたのかも知れない。というのは、仁ばあさん(私の祖母)は昔からその顔の輪郭がアイヌ的であり、口元の刺青があればまさにアイヌだったからである。
 もちろんこれは、もしもそうだったら嬉しいな、面白いな(?)とある種の誇りをもって言っているのである。つまり例の代議士たちとは180度反対の価値観・民族観からの願望である。
 今日の午後、川口から孫たち(2、4歳の男の子)がやって来て、ばたばたしているので、せっかく再開したモノディアロゴスもあやうく休みそうになったのだが、同志社大学のT教授からのメールで、この二日間モノディアロゴスが動いていて嬉しかった、というメールがあり、十二時前になんとしても今日の分を、と張り切ったのだが、尻切れトンボになりそう。また明日続けます。

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アオバナチョウ・ススリナメキチ

表題に掲げたわけの分からない呪文のような言葉は、実は64年以上も前の私のあだ名らしい。
 そのことが分かったのは、バッパさんの例の『虹の橋』がきっかけである。つまり今日まで45冊ほど作った『虹の橋』の贈呈者のひとりに長崎在住のI. Uさんがいた。旧満州熱河省灤平県で親しく付き合っていたMさんの一人娘である。歳は多分姉と同じだと思う。引き揚げ後、いつからまた連絡が繋がったのか覚えていないが、私が広島で修練をしていたころ、一度萩までMさんを訪ねたことがある。そしてMさんもそれをきっかけに一度か二度、相馬までバッパさんを訪ねてくださった。そのころIさんはすでに長崎の歯医者さんに嫁いでいたので、Iさんとは灤平で別れたきり会っていない。
 ともかく今日の午後、そのIさんが電話を下さったのだ。彼女は、先生はお元気?と言ったが、それはもちろんバッパさんのこと。父の死後、在満小学校の教師となったバッパさんの教え子だったからだ。また彼女は日向さんのこと覚えてる?とも言った。もちろん覚えてます。当時のことを書いた「ピカレスク自叙伝」にも小田切さんという名でこんな風に紹介している。「東京帝大出の学士さんで、満州事情研究のためと称して、単身ぶらりとこの町にやってきた青年である。別にこれと言った仕事もせず、よく俺たちの仲間になって他愛なく遊んだり、裸山をほっつき歩いたりする高等遊民といったところである。どういうわけかおやじと気が合うらしい」
 彼女の話によると、帰国後も折りにふれて「あのチビどうしてるかな?」としきりに心配してたそうだ。そしてこの日向氏(残念ながらもうだいぶ前に他界されたが)私につけたあだ名が「アオバナチョウ・ススリナメキチ」だったというのだ。当時の子供はみな洟をたらしていたが、なかでも私の青っ洟が目立ったのだろう。ところで「アオバナチョウ」の「チョウ」が何を意味するのか、電話が終わってから気になりだした。「町」だろうか?いや「蝶」ではなかろうか?つまり「青洟蝶・啜り舐め吉」。蝶のようにそこらじゅうを飛び回っていたからだろう、と勝手に解釈させてもらうことにする。
 それにしても、65年も前の自分のあだ名と再会して、懐かしいような、恥ずかしいような、そしてちょっぴり寂しいような複雑な気持ちになっている。
 なんてつまらぬあだ名の話をしてしまったが、本当は今日の午後、かなりの難産の末に、しかし(重さは3000グラムちょっとで身長も50センチ)元気に生まれた愛ちゃんについて書きたかったのだが、あまりに嬉しいので、つい話しはあらぬ方に進んでしまったのである。さっそく孫自慢を、と笑われそうだが、母親似の可愛い赤ちゃんである。新生児室の中の彼女を、窓越しに妻と長いあいだ眺めてきた。早く、この陋屋を彼女の泣き声や、そして笑い声で満たしてほしい。

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ルーティンの有難さ

心を締め付ける悲しいことや心配事があればあるほど、毎日の決まった手順を絶対に変えないで一日を終えたいと強く願う。今日もそんな一日だった。鬱屈するものが時折心を掠めるが、努めてそちらに意識が向かわないように、何事も無かったように時間をやり過ごそうとする。
 今日はもしかして今年一番の暖かい、というより暑い一日だったかも知れない。福島市では27度まで気温が上がったそうだ。さもありなん。昼食のあと、いつもの日程をこなした。いま「粛々とこなした」と書きそうになって、あわててその言葉を避けた。前からそうだが、最近特に保守党の政治家たちがこの言葉をひんぱんに使い出した。確か武田泰淳が政治家の日本語を取り上げた本を書いたと記憶しているが、そのうち読んでみよう。
 ともかく黙々といつもの午後のノルマを果たした。まずバッパさんを訪問する。部屋を閉め切っているのが息苦しいような暑さだったので、妻も私も久方ぶりの軽装で出かけた。バッパさんは最近すこぶる元気である。施設入所の条件の一つは、軽度の認知症を患っていることだが、バッパさんはどちらかというと高齢者に共通する通常のボケに過ぎないので、かなり症状が進んだおばあさんもいる施設に入れることに少しためらいがあったが、しかしグループホームの良さは妻の母親の場合で実証済みなので、あえて入れてもらっている。
 ちょうど昼寝から覚めたときだったが、最近夢の中に必ずじいちゃんばあちゃん(つまり彼女の両親)が出てきて、たいそう幸福な気持ちになると言う。同時に4年近く妻と同居しながら妻の認知症に気づかなかった、いや気づこうとしなかったことを反省している、などと殊勝なことを言うようになった。気づくのが遅すぎたなどとはけっして思わない。分かってもらって有難い、そう素直に感謝している。
 次に御本陣に寄る。急斜面の階段をゆっくり登っていくだけでも、この二人の老人には相当な運動になる。頂上から(といってせいぜいい20メートルくらいの高さだろうか)見下ろす野馬原やその向こうに横たわる(阿武隈山系はけっしてそびえてはいない)国見山などの眺めは、鬱屈した心を解き放ってくれる。私より体力がありそうな妻の晴れ晴れとした表情に安堵する。ボケたっていい、元気でさえいてくれれば、なんとでも難関を越えることができる。
 そのあとスーパーで買い物、そして帰りがけに嫁の入っている産院に寄る。二人部屋だが、現在は一人。そっとノブを回すと、いつも満面の笑みを浮かべて振り返る。あっパパ、ママと言う彼女の声に慰められる。ベッド脇の小型のロッカーの上に、誕生祝いに贈った赤いカーネーションの鉢植えがあるが、今日はさらに盛りだくさんの花をあしらった花かごが載っていた。先日、最初のお子さんを死産してしまった同室の妊婦さんが退院の挨拶がてら、誕生日を覚えていて置いていってくれたそうだ。
 このご夫婦のことを考えるなら、入院はしているが大過なく33週目を迎えられたことに感謝しなければなるまい。生まれてくる孫に多大の期待を寄せるのは酷な気もするが、私たち老夫婦にすれば、この孫が元気に生まれ出て、我が家に光と愛をもたらしてくれることを願わずにいられないのだ。

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万有内在神論


 今朝からようやくカイロをやめた。下着に貼るカイロである。いままでそのおかげで(と思っている)ギックリ腰にならないで済んだ。これだけ長い間ならないのは、今まで無かったのではないか。はっきり覚えていないけれど、最後になったのはまだバッパさんが家にいたときではなかろうか。すると一年以上は魔女の一撃を食らわなかったことになる。
 今なると妻の世話ができなくなる、と気を張っているからだろうか。その代わり、手の湿疹がいま真っ盛りである。今までいろんな軟膏をためしてみたけれど、どれもまったく効き目がない。アトピーだかアレルギーだか、結局は原因が分からないのだから、毎年の過ぎ越しだと観念して、自然と治るのを待つしかない。
 いまふざけて過ぎ越しなどと言ったけれど、復活祭などというものとは無縁になってから何年になるだろう。おそらく十年くらいだろうか。キリスト教に限らず、あらゆる組織宗教とは今後とも、つまり死ぬまでかかわりを持つことは無いと思うが、じゃあなたは無宗教論者あるいは無神論者か問われれば、さてなんと答えよう。まず無宗教と無神論とは同じものではないはずだが、特定の宗教を持たない、と言う意味では無宗教であろうし、人格神を信じていない、という意味では無心論者であろう。
 いまふと思い出したのだが、十九世紀スペインの教育改革者がドイツから本国スペインに持ち帰った思想に万有内在神論(panenteismo)というものがあった。ドイツの哲学者クラウゼなどが主張した思想である。私流の乱暴な理解では、汎神論と一神論のちょうど中間に位置する思想であるが、もっと正確を期すれば次のようになる。

 「理神論や超越神論のように世界を神の外部に措定せず、また汎神論のように世界それ自身を神の顕現とすることによって神を世界のうちで消滅せしめず、万有は神のうちにあり神によって包括されているという考え方」(平凡社『哲学事典』)。

 なんだか分かったようで分からない定義である。再度自己流に解釈すれば、ヨーロッパ社会のようにキリスト教というものにがんじがらめにされて息苦しくなった世界から、なんとか出口を求めた人たちが東洋の汎神論的世界に一気に飛びつくことにもためらいを感じ、両者のいいとこ取りをしようとした妥協の産物といえようか。私自身がいまその思想にいちばん近いところにいるなどと言っているわけではない。正直に言えば、そう自己措定するまでにも至っていないのである。まっゆっくり考えてみよう。死は待ったなしだって?そんときはそんときまで。
 ともかくローマ教皇のアメリカ訪問でまたまた露出した目も当てられない教会組織の退廃の極みにはうんざりしている。というか、貧困と憎悪と戦火が絶えないこの世界にあって、口先だけの平和の祈りなど聞きたくもないということ。結局はおのが組織の安泰と繁栄が大事だということは見え見えなのだから

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真の読書人を目指して

毎夜10時ごろ妻を寝かしつけると、ようやく自分の時間が来たという感じになる。しかしその頃になると、今度は睡魔が訪れてきて、本を読む気力も注意力も極端に減少している。いやいや嘘を言っても始まらない。昼日中であっても、睡魔に襲われなくても、集中力も理解力もかつての半分以下になってしまった。
 しかし今日の午後はいつもと少し事情が違った。机の上に積んであった小川国夫の本 (「新潮現代文学65」) を久しぶりに手に取り、何度か読んだはずの「アポロンの島」を読み始めたのである。そして冒頭の「枯木」の文章のすばらしさに改めて感銘を受けた。島尾敏雄の言う「形容を抑制し、場景と登場人物の外面的な動きを即物的に写生し、透明な使い方によることばを、竹をたてかけるぐあいにならべただけなのに、その字と行の白い空間からかたりかけてくるなにかに、ひきつけられた」という小川評がまさにドンピシャリの作品であった。
 そして思ったのである。読書量はこれからどんどん減っていくであろう。なにか新しい読書術、たとえば速読法を覚えて、読書量の減少傾向に歯止めをかけなければならないのであろうか。
 そんなことはないはずだ。簡単に言えば、これからは量より質である。たとえば今日のように、いい作家、いい作品を、これまで読んだか読まなかったかを気にせず(なんだかすべてが初対面のような気がするので)、また前書きから後書きまで律儀に全部を読破するなんてことは考えずに、じっくりゆっくり読んでいくことにしよう。
 もう一度スペインに行こうとか、死ぬまでにはぜひ熱河の灤平に行きたい、などと思っていたが、それも諸般の事情で行けなくなるかも知れない。でもそんなことはどうでもいいような気がしてきた。いいよ、本の中を旅するから。学界の新しい傾向とか、新刊本や新説などのことを知らなくてもいいや。たとえばこれから死ぬまで一歩も外に出られないようなことが起こっても、一切かまわない。
 つまり今手元にある本だけでも、死ぬまで読み切れない。いや蔵書数は同業者の平均以下でも、想像力を刺激して、未知の世界へと導いてくれるだけの本は既に揃っている。現に今日の小川国夫の作品でも、本当に今まで読んだのだろうかと思わせるような、浅い通り一遍の読み方しかしてなかったわけである。
 そうだ本物の読書人になろう! 読むことイコール生きること、になるように。遍歴の旅に出る前のドン・キホーテではなく、道中散々な目にあった後に、ようやくこころ定めて郷里に籠ろうとしたドン・キホーテに見習って、その素志を受け継ごう。その過程で、書くことに自然と移行してゆけるなら、なお素晴らしい。

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きぼう?何と重たい字面!

ところでわれらのスペイン語教室は別名を持っている。ESPERANZA(希望)である。スペイン語の単語で国際的に通用するのは、フラメンコとかゲリラとかカルデラとかいろいろあるが、いかにもスペイン的な響きの言葉の一つがそのエスペランサであろう。
 あまり腹立たしいのでろくに見もしないし読みもしないが、今度打ち上げられた人工衛星の部品(?)の一つ、ささやかな日本向けの機械が「きぼう」と言うのだって? せめて漢字の希望だったら格好がつくものを。日本人宇宙飛行士の参加費はいくらで、その部品搭載にいくら払ったのだろう? 気になる。
 いや金がかかるからイチャモンをつけてるわけではない。んっ! やっぱ金がかかるからかも。要するに、宇宙開発がそんなにすばらしいこと、掛け値なしの賞賛に値することなんですか?ということである。ほんとにエンデバー(endeavor=真剣な努力)なんでしょうか? だって私たちが住んでるこの地球が、いまとんでもない危機に陥ってるというのに。宇宙開発に使われるそれこそ天文学的な数字の金を、温暖化対策や砂漠化対策に使えば、もしかすると国土が日々海に埋没していく恐怖におびえている南の島の人々を救うことができるのではないですか。
 開発推進者や賛同者からは、地球が駄目になりそうだから宇宙に活路を見出そうとして、まさにエンデバーしてるんだよ、との反論が返ってくるかも知れない。だがちょっと待てよ! 泥舟を捨てるつもりになってるの? 君、根本的に間違ってるよ! それこそお天道様に申し訳が立たない。さんざっぱら利用だけ利用しておいて、都合が悪くなったら、はいサヨナラ、というわけですか?
 テレビのコマーシャルで、「地球に優しい原子力発電からできた高放射能の廃棄物を何千メートルか地下の安全なところに埋める計画に賛同する市町村は、手を挙げてください!」などと可愛い女の子を出しに使って、まっことおっそろしい計画をいけしゃあしゃあと宣伝している。おいおい、表面のほうだけでなく、地下までぼこぼこ穴掘って汚す気かい?
 どこかにもう書いたことだけど、私の大嫌いな言葉の一つは、「そこに山があるから」だが、科学の進歩・発展を絶対視して、そこに何の危険も察知しない頭でっかちの進歩主義者たちよ、君たちは間違ってるぞー。もしかして君たちに限らず人間というものは、滑車の中の二十日鼠みたいに、スピードを上げて走っているつもりで、実は同じところを廻っているのかもしれない。《愚かさ》という車軸の周りを。近・現代の歴史をちょっと振り返っただけでも、そんなことは火を見るより明らかなこと。でも世の大勢はそっちの方にどんどん流れていくんだなー。

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小川国夫さんを訪ねて

先日ここでお知らせしたように、今月23日、浮舟文化会館で「島尾敏雄と小川国夫、そして『青銅時代』」というシンポジウムが行われる。小川国夫氏の講演会が氏のお怪我のため不可能となり、その代わりに仕組まれた催しである。平行して行われる青銅時代の例会参加者の中で地元勢はもちろん私しかおらず、したがってコーディネーターを務める羽目になった。
 そんなわけで、レジメ代わりにパネリストや聴衆に配る予定の簡略な「島尾敏雄と小川国夫の交流史」を作り始めた。もっぱら頼りとするのは昭和51 年の4月2日~4日、飯坂温泉で、同月9日~11日、場所を変えて長崎市で行った全6日間の二人の対話録『夢と現実』(筑摩書房、昭和51年)である。
 この本は出版当時、一応は購入したが、二人のあいだにどんな話が交わされるか、なんとなく分かるような気がして読まないでいるうち、だれかに貸してしまい、それが戻ってこないままになっていた。今回の準備のためにはどうしても一度読まなくては、と急遽ネット古本屋に注文していたのが今日届いた。
 昭和40年6月、島尾敏雄がとつぜん藤枝の小川氏の家を訪れるところとか、同年9月、「朝日新聞」の「一冊の本」というコラムで、島尾氏が『アポロンの島』を激賞したあとの小川氏の一種の虚脱状態のあたり、断片的に知っていたことばかりだが、あらためて当事者二人に語ってもらうと、またいろいろ新発見があった。
 読みながら私自身が島尾氏と同じく藤枝を訪れた時のことを思いだした。日記で確かめると昭和42年9月のことだった。島尾氏の藤枝訪問から2年後のことである。まだJ会の哲学生であったが、すでに退会を決めていたころである。どういう経緯だったかは覚えていないが、聖書学専門でドイツ人のB神父と一緒に伊豆大島へ出かけ、その帰りに単身で藤枝に寄ったらしい。

「9月27日(水) 11時20分出航の《はまゆう丸》に乗船するため、三人で(B神父と土地のS神父)ゆっくり海岸に出て、港まで歩いていく。Bさん、埠頭に立って見えなくなるまで手を振っていた。1時少し過ぎ熱海駅に着く。2時5分発の急行霧島で静岡へ。静岡へは3時14分ころ。大和銀行前のバス停から金谷行きのバスをつかまえ、長楽寺に着いたのは4時20分ころ。小川さんのお家は、文字通り長楽寺前だった。ちょうど行き違いに、小川さん会社に出勤した由。男の子二人、あきお君(小2)たかし君(6歳)。奥さんたいへん明るい方。」

 30日の日記に「小川さんのお家を訪問したこと(27~28)については別の機会に思いだして書くつもり」とあるが、このときの貴重な体験を記録せずに今日まできてしまった。図々しくも一宿一飯の恩義を受けたらしい。このときの写真が一葉残っている。訪問の後すぐ、小川氏から一枚のハガキと手紙があるが、手紙の書き出しはこうなっている。

「†主の平安 過日は失礼しました。貴兄が大事な時期を越え、疲れておられたのは察しがつきましたが、それほど外見に現われていませんでしたので、安心していいものと自分できめて、お話ししました、あるいは貴兄にとっては、チグハグな感じではなかったか、と気に懸ります。」

 それほど外見に…いや内面もちゃらんぽらんだったのではないか。ともあれ小川氏の優しいお心遣いが、いま痛いほど伝わってくる。

藤枝の小川国夫さんを訪ねて
たしか三宅島から熱海経由でお邪魔しました。
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バッカじゃなかろか!

閑話休題

 えっ、これまでが閑話だったの?私としては(どの私?)モノディアロゴスの新しい行き方として、いつかは論文の一部に組み込まれてもいいような文章を層々と積み上げていくのも「あり」かな、と思っていたのだけど。いや私としても(今度はどの私?)そのつもりです。オルテガや島尾敏雄だけでなく、スペイン思想一般、旧満州問題、人間学、ともかくありとあらゆる問題を書きながら考えていくつもりです。
 でも、大事にしたいのは、瞬時に後方へと流れさって行くその時々の心象風景を書き留めたい、と漠然とながら考えてます。いやいや心象風景なんて奇麗事を言いましたが、絶えずどろどろと私の足元にからみついてくる厄介な日常些事との悪戦苦闘を、なんとか言葉にして、その言葉にした部分でだけでもどろどろから抜け出せるのでは、と淡い期待を抱いているのです。
 事実、これまでだって書くことによってどれだけ助かってきたか。そりゃあ書く以上はだれかに読んでもらって、共感してもらったり同情してもらったり(表立ってそう言われるとキズつきますが)したい気持ちはあります。でも負け惜しみじゃなく、それはどうでもいいこと、もう一日一日が必死なのです。認知症という得体の知れない怪物は、思ったよりホント手ごわい。その向こうにあの懐かしい、素直で思いやりのある妻がいるはず、と思いながらも、目の前にいるのは…うーん、やっぱ妻だべさ。ほんの時おり発せられる「パパごめんね」という言葉だけが救い。
 さて天気予報を信じるなら、今日からしだいに暖かさを増し、もう寒さにもどることはあるまい、とのこと。本当だったらありがたい。最低夜中三回のトイレの世話も、これで少しは楽になる。
 夕飯時に見たテレビのニュースが先ほどから気になっている。県立高校での入試問題用紙に一部印刷が不鮮明なところがあり、それで県の教育長とかがテレビ・カメラの前で、あの滑稽至極のパフォーマンス、頭を深々と下げて謝っている。若いアナウンサーがもっともらしく、何重ものチェック体制をさらに強めなければ、などと駄目押しをしている。バッカじゃない!
 もちろん給料をもらっていい加減な仕事をしてる税金泥棒はけしからんが、「挙国一致」だかのその「国」の漢字が不鮮明であったことにガタガタ言うんじゃない!そんな不鮮明な問題を見て、精一杯想像力を働かせ(るまでもないぜ、そんな簡単な四文字熟語)、用紙欄外に「この部分不鮮明ですが、この文脈から見てこれは国という字以外にありませんので、そのつもりで解答します。もしそうでなかったら、もちろん非はそちらです。ソコントコヨロシク!!!」ぐらい書ける奴がいて欲しい。この受験生、他のところが出来なくても、この解答だけでゴーカク!だってそうじゃない?実際の人生はいたるところ不鮮明な字や伏字、わけの分からぬ象形文字だらけじゃーん! 

 あーこれでやっとスッキリしたー!っと。

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ぎりぎりのところで思いとどまる

実は、これからご紹介しようと思っている私宛ての私信は、このところ何回かご登場願っている西澤龍生氏からのものである。なぜあえて公表しようとするか、それについては既に述べた。本当は実物をそのままご紹介したいのだが(なぜ実物などと言うか、その理由も後回しにする)、それは技術的に(?)無理なので、私が読みえたものをデジタル文字にする。昨日も言ったように、まず解説というか注記しなければならないことがあった。すなわち歴史的仮名遣いと正字、その対極にある現代仮名遣いと当用漢字(そして常用漢字)についての確認だが、それをやっていれば今晩もご紹介できないので、ともかく以下にお目にかけよう。
 とここまで書いて、いざネットに載せようとしたのである。しかし最後ギリギリのところで踏みとどまった。便箋6枚にわたる実にご丁寧なお手紙、万年筆だから墨痕鮮やかなとはいかないが、先生若かりしころから藤岡保子先生という書家に師事された筆跡はさすがで、できればそのままコピーしたいくらいである。
 いやいや最後の段階で踏みとどまったのだ。なぜか。ちょっと説明は難しいが、先日ご紹介した二通のお手紙と違って、あくまでそれは私的な書き方であり私的な内容の、文字通りの私信だからである。ともかく、お手紙をそのまま公表するのは今回はあきらめよう。ただ、ドイツ留学中、どのような経緯でオルテガと出会われたかとか、先日来話題にしてきた「エル・エスペクタドール」の訳語についてのお考えだとか、『スペイン 原型と喪失』執筆のご苦心や裏話など、興趣尽きない言及については、いずれ小出し(?)に御紹介するつもりである。
 なんだか一人で大騒ぎしたようで、そして思わせぶりな書き方で、読んで下さっている方々を「引っ張って」しまったとしたらお詫びしなければならない。
 ただ自分自身にかかわることとなると、いままでどおり、つまりプライバシーについての考え方は、世間の考え方と大きくずれたままで生きていくことになろう。このモノディアロゴスの名付け親ウナムーノを引き合いに出して申し訳ないが、おそらく彼もある時点で(脳水腫の息子ライムンドを四六時中視野に入れながらの読書・執筆の中で)、まるで甲殻類のように互いに内面を隠しながら生きていくことの愚かしさ・空しさから脱皮していったように、私も最近は特に、内面を吐露することになんの恐れも感じないようになって来た。もちろん他人にもそれを求めることはしたくないし、またすべきでもないが。

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プライバシー守秘という妖怪

これから私宛ての一つの私信を紹介するつもりだが、その前に、プライバシーなるものについて日頃から考えている私自身の基本的な考えを述べておきたい。これまでもいくつか、私宛ての私信をここで公表して来た。たいていは事前に了解を得たが、ときには事後承諾という形もとった。なぜ公表するのか? 実にかんたんである。それらが私一人の独占物にするのは勿体ないから、いやもっと言えば、独占物などにすべきではないからだ。
 いつごろからか、たぶん二、三十年くらい前からだと思うが、極端なまでに、時には滑稽なまでに、個人情報の守秘が叫ばれだした。役所など公の機関からの、たとえば病歴や経済状況などの個人情報が漏洩することは、私もけしからぬことと思う。しかし学生の名前や住所や出身校を記載したいわゆる学生名簿についてなら、話は別だ。つまり現在多くの学校・大学では学生名簿そのものを刊行しないようだし、原簿あるいはコピーも身分証明書を示さなければ見せてくれない、という現状についてはどうも納得できない。要するに現在、ある学生が入学した大学で、自分と同じ学校を出た先輩、ときには同級生を探す場合でも、学生課に出向いて、学生証を提示した上でしか知りえない、というのはどう考えても行きすぎだと思うのだ。
 もうどこかで書いたことだが、学生同士の横の連絡や交流・結束がこれでどれだけ阻害されているか、私自身、過去なんども苦く腹立たしい思いをした。「おれおれ詐欺」(現在は何と言うのか失念した、そうだ!「振り込め詐欺」だ)のような、手の込んだ悪事が絶えない世の中だから、そうした過敏なまでの守秘の意図も分からぬでもない。しかし乱暴な喩えかも知れぬが、病原菌を警戒するあまりに殺菌しまくって、逆に免疫力を弱めてより重い病気に罹るのと同じ愚に陥ってはいないだろうか。
 これまた乱暴な比喩かも知れぬが、やたら臆病になって身を隠し、それによって、悪人(?つまり他人の個人情報を悪用しようとする輩)にはむしろ格好の標的になる場合だってある。またそれとは反対に、自分を衆人環視のもとに晒すことによって、かえって安全である可能性だってあるのだ。
 これまたすでに論じた気がするが、いわゆる著作権なるものについても、あまりに保護され過ぎの場合がある。本来、人類全体にとって役立つ情報が、ごく限られた人間や組織に独占されてしまう場合が多すぎないか。先般も中国のどこかの公園で、ディズニーの人気キャラクターが盗用されたと大騒ぎになった。もちろんそれによって不正な、しかも巨万の利益を得る輩がいればそれを取り締まらなければならないが、しかしちょっと不恰好なミッキーマウスに安い料金で幼い夢を抱くのを禁じて、高い使用料を巨大なコングロマリット《ザ・ウォルト・ディズニー・カンパニー》に貢がせる必要があるのかどうか。世界中の子供たちに夢を与えるのがディズニーさんの夢だとしたら、いま天国の彼は果たしてあの問題をどう考えているであろうか。
 確かにプライバシーの問題は一筋縄ではいかない。これ以上深みにはまると先に進めないので、今回はこの辺で。実は本論に入る(ある書簡を紹介する)前に、もう一つ断っておきたいことがあるのだが、紙幅の関係もあるので、それは明日にしよう。

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「新訳」の対極にある訳業

昨夜は風呂に入って日頃の疲れが出たのか、確か3時にセットした目覚ましにまったく気づかず、ふと眼が覚めたときは5時近くだった。頼みの綱ならぬ紐もいつの間にか外れていて、今月一回も無かった厄介ごとにまた巻き込まれてしまった。浴槽の湯がまだ温かかったのが不幸中の幸い。
 朝食後、さすがに我慢できず、籐椅子でしばらく仮眠をとる。眼が覚めたらちょうどばっぱさんを施設に迎えに行く時間、ぐずぐずしている妻を息子夫婦にあずけて施設に。ばっぱさんにすれば、もう一週間近くも楽しみにしていた日だ。いわきから姉と、そして昨日車で千葉からきていた姉の長男の奥さんと娘二人、合計四人がやってくる日なのだ。
 ばっぱさんを家まで連れて帰り、今度は妻と息子の嫁と三人で、まず買い物をし、その足で駅に迎えに出た。めでたく東京の中学に合格したAちゃん、小3になったMちゃんというかわいい曾孫と一緒に食事ができて、ばっぱさん大満足。あっという間に二時になった。三時の電車で帰る四人と施設に帰るばっぱさん、それと妻の六人を乗せ、最初に施設、次いで駅まで。昼食後雷が鳴り雨もぱらついたのに嘘のように晴れ上がっていた。しかし風が強い。ちょっとした風でも電車が止まる常磐線のことが心配だったが、案の定、予定の着時間よりはるかに遅い時間にいわきから電話があり、やはり途中電車が止まったが、富岡駅で用意されたバスには乗らず、ばっぱさんからもらった「お車代」でタクシーを使ったそうだ。
 さて唐突だが、先日話題にしたオルテガの『傍観者』、というよりその訳者の西澤龍生さんについて、この数日来考えてきたことを覚え書きしておく。以前、といっても大昔(昭和50年)、『傍観者』の一部を訳載した『沈黙と隠喩』についての書評で、小生意気(こなまいき)にもつぎのように書いている。

「最後に訳文についてだが、評者自身がオルテガ作品の翻訳をしたことがあって、それこそ《自分のことは棚に上げて》式の手前勝手な言いぐさだが、訳者自身の非常に個性的な文体が、ある場合にはオルテガ散文の難解ではあるが明快な語り口を圧倒し、その微妙な偏差から新しい難解さが生まれている部分無きにしもあらずである。若い世代の読者にその点少々近づきにくいのではないか、というのが評者のぜいたくな危惧あるいは身のほど顧みぬ注文である」(「日本読者新聞」、三月十七日号)。

 それこそ慇懃無礼な言いぐさである。こんなことを書かれながら、西澤氏はいつもにこやかに、紳士的に私を遇しつづけておられる。だから、ではけっしてないが、今ならこう言い換えるであろう。「氏の幅広い教養と深い学識に裏打ちされた訳文とオルテガの文章とのあいだに不思議な共鳴音が発せられて、氏の日本語を通じて浮かび上がるオルテガの思想は、いつの間にかまた格別な広がりと深さを帯びている」。つまり「つるんとした」訳文に比べれば難解と思われる氏の訳文を理解しようとつとめるほどの読者には、一段と魅力的なオルテガに出会うことができるであろう、ということだ。

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博物館協議会で

先日話題にした El espectador の訳語だが、フリアン・マリアスのオルテガ論(Las trayectorias)を見ていたら、あっけないほど簡単に正解が分かった。つまりオルテガは自分の個人誌の名前を、1711年にイギリスの J. アディソンと R. スティールが創刊した評論・随筆新聞 The Spectator からとったということ。とすると適切な訳語としては、「目撃者」あたりになる。事故や事件の目撃者という意味らしいから、すこしかっこうをつけて「時代の証人」とも訳せよう。しかしアディソンの新聞がわが国の英文学史ではあえて訳されずに「スペクテーター」となっているように、「エスペクタド-ル」としようか。マタドール(闘牛士)くらいには認知されるかも知れない。
 認知で思いだしたが(?)、今日の午後、市の博物館協議会に妻と出席してきた。一時間半ほどの会議中、妻は私設秘書よろしく、私の隣りに神妙に座っていてくれたので助かった。昨年度事業報告、本年度事業計画と議事は粛々と進んでいく。暖かな午後の日差しが会議室の中にも伸びてきて、ときおり気合を入れないと眠ってしまいそうだ。それで議長に質問か意見を求められ(いやこちらから手を上げて)学識経験者として(えっほんまに?)こう話し出した。

 「いや意見というほどのものではないのですが、先ほどからの種々のご報告のように、博物館業務のみならず学としての博物学は研究や発掘そして保管という、私にはとても真似できない地味な作業から成り立っているのですが、でもその学芸員にしろ外からの見学者にしろ、刻々と変化する現代に生きているのであります。たとえば保全すべき郷土の自然にしろ、あるいは相馬中村藩の近世武士社会の歴史にしろ、生きている私たちの問題意識や興味と無縁なものであってはならないのではないでしょうか。たとえば郷土の守るべき自然にしても、現在世界規模で問題化している深刻な環境破壊と密接に関連しているわけですし、相馬藩の歴史にしても、丹下左膳が相馬藩士であったことや、志賀直哉の祖父直道が、あの相馬事件に直接からんだ家令であったことなど、つまり虚構の世界や暗黒史の部分とも関わりあう、あるいは直視する視点というものも必要ではないでしょうか。以前、申し上げたことですが、市の若い職員たちが自分の職場を越え、縦割りの組織をまたいで、さまざまな職種や分野の人たちとの意見交換や交流をはかり、その中で、自分たちの町の文化が活性化する方途を創り出してもらいたい、そうこの老人は考えるのであります」

 帰り道、施設のばっぱさんを訪ねる。ばっぱさんの部屋にも、まだ暖かな陽光が差し込んでいた。
 「さっきまで博物館の会議さ出てきたところだ」
 「んっ、会議だって、なにか話したのか?」
 そのとき悟ったちゅうか、血の濃さを思い知ったんだわさ、このばっぱさんもほんの最近まで、各種の会合で、今日の午後の私みたいに大層なご意見を吐いてきたということを。

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平和のジュエリー

「変なおっちゃん」の『新戦争論 “平和主義者” が戦争を起こす』(光文社、1981年)なるものを新刊カタログで探したが絶版のようである。それなら、と「日本の古本屋」で検索。ありました。しかし、なななんと3,500円と3,990円の二冊だけ。初版が600円のはずだから6倍近くの高値になっている。どうやらオルテガに関する部分は全200ページ中の20ページくらい、となると志摩の素人哲学者が引用したものに毛が生えたくらいの分量か、それじゃ大枚3,500円なりはドブに捨てるようなもの(失礼!)。
 それに、おっちゃんが第二次世界大戦後のオルテガに言及しているのを読んで(もちろん引用で)、おっ、このおっちゃんなかなか勉強してるじゃないの、と早とちりしたのだが、実はそれら情報は色摩力夫の『オルテガ』(中公新書、1988年)に書かれてる情報と重複していることが分かった。おっちゃんが先か色摩氏が先かは分からないが、その『新戦争論』カバーに山本七平と一緒に推薦文を寄せているホセ・マリア・アララギなる人物の本名が色摩力夫らしく、つまり両人は以前から親しい仲なのだろう。結論=だから『新戦争論』に大枚をはたく必要なし。
 ところでその色摩力夫の『オルテガ』を久しぶりに手に取ってみたが、巻末に鉛筆で以下のような覚え書きを記していた。

 「私のオルテガ像とはまったく異なるものだが、しかし政治の場にいる著者らしく、オルテガの文明論・政治論をかなりよくソシャクしている。初めに考えていたより、かなりマシな論考となっている。それにしても私自身のオルテガ論を進めなければ話にならない。 1988年9月27日」

 その同じ新書からそれよりずっと前にオルテガ論執筆の誘いがあったのに、力不足からとうとう書かずじまいだったのだから、偉そうなことは言えない。だからなおのこと、今回は少なくともまともな「解説」を書かなければならない。実は中公ブックス版の『大衆の反逆』(寺田和夫訳、2002年)に書いた解説は、私としてはかなりいい線を行ってると自負しているのだが、今回はそれを越えるものにしなければ。
 ところで今回改めて知ったのは、インターネット上に探しようによってはかなり有用な情報が流れているということである。
 そしてついでにこんな情報も拾ってしまった。すなわちアメリカ・インディアン「黒熊」族のジュエリ―製作者(メタルワーク)のトマス・バニヤッカの父は、第二次大戦中の広島・長崎への原爆投下を予言した人物で、その自然観、平和主義の思想が息子トマスの作るジュエリーにも込められているそうだ。そしてそれを販売する会社がオルテガ社(!)だと。そのメタルワークの写真入りカタログもネット上に見ることができる。おっちゃんの本を買うなら、トマスさんのジュエリーを買った方がいいかも。

 ※ いま手元に無いので確かめようがないが、たしか1980年代の初めころ、雑誌『中央公論』にオルテガの戦争論について(二回に分載だったか?)書いた中原與一郎なる人物も色摩力夫のペンネームかも知れない。もしそうだとしたら、この人たちこそ「何ものかを恐れはばか」ってるのかな。

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オルテガの戦争論


El Estado en guerra es el Estado en su plenaria actuacion.(戦時国家はフル回転の国家である)。

 これはシェーラーの言葉である。これに関しては、オルテガにも異論がない。というか、両者の意見が一致しているのはまさにここまでなのだ。平たく言えば、戦争と単なる虐殺や殺人と違うのは、戦争のなかになにか崇高なもの、単なる欲望や私怨を越えるものがあるということだ。戦争肯定論者はここで感極まって軍歌イデオロギーの世界に陶酔していく。まだ相当箇所は見つけていないけど、三島由紀夫がオルテガを《信用》したのは、戦争をしない軍隊は、あるいは本来の目的を遂行しない軍隊は、軍隊にあらず、ということに我が意を得たりと感じたからに他ならない。
 とここまで書いて、念のためグーグルで「オルテガ 平和主義」を検索してみた。するとあったんですね、「志摩の素人哲学者」というウェブ・サイトに「オルテガの戦争論」というノートが。ノートと言ったわけは、それが小室直樹著『新戦争論』の中のオルテガ論からの引用らしいからである。小室直樹? えっあの変なおっちゃんのことかいな。

…《戦争とは国際紛争解決の手段である》との認識に立ち返り、これを法的次元から文明論の次元にまで高めたのがスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセである。

 そして小室はこんなことも書いているらしい。

…『大衆の反抗』の…「イギリス人のためのエピローグ…平和主義をめぐって」は…今や『大衆の反抗』と不可分一体となっているのだ。しかるに、わが国ではそのように取り扱われていない。…戦後、スペイン語よりの直接訳だけでも三種類出ている。ところが、その三種類のいずれも、この「エピローグ」をまったく省略しているのだ。内容がよく理解できなかったからか、それとも何ものかを恐れはばかったのか、なんともわけがわからない。

 三人の訳者の一人は恩師で、もう一人は先輩であるので彼らの名誉のために言わせてもらうが、これまで訳出されなかったのはそのいずれでもなく、たんなるスペースの関係なのだ。しかし今回の私めの訳では、スペースに余裕があるのと、新訳の「売り」として、その「イギリス人のためのエピローグ」を訳すことになったのである。つまり私の場合、内容がよく分からないままに訳したのである。もちろんこれはまったく自慢になる話ではない。だから「何ものかを恐れはばかった」のではなく、「盲蛇に怖じず」ゆえに訳したのだ。もちろんこれも自慢できる話ではない。
 「変なおっちゃん」などと確かテレビかなんかで見た風貌からつい出た言葉だが、小室氏については実はなにも知らない。それで彼の著作を検索してみた。かなり見つかった。『太平洋戦争、こうすれば勝てた』、『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』、『日本国民に告ぐ 誇り無き国家は、滅亡する』、『これでも国家と呼べるか』、『三島由紀夫が復活する』…いやー参りました。やっぱり変なおっちゃんや、いやちょっと危険なおっちゃんや。
 それならなおのこと、この際オルテガの政治思想、もっと具体的に、彼の戦争と平和についての思想を解明してみよう。ホセ・アントニオや三島由紀夫、そして小室直樹のオルテガ論が正鵠を射たものなら、その部分の(一人の思想家を部分部分に分けるることが可能か、は別途見当の要ありだが)オルテガを徹底的に批判しよう。それもオルテガ自身の哲学、とりわけ生の理法に対する裏切りであり自家撞着であるという視点からの批判となろう。
 先日、孤独の作業に戻ろう、なんて書きながら、またのこのこ出てきてしまいました、スンマソン(古っー)。

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アクリル板の向こうに

オルテガ自身、derecho という言葉の両義性を注の16で次のように説明している。

「《の権利を私は持っている》(tengo el derecho de)という風に言われるときには、この derecho は、主体の或る観念上の所有権のことである。《裁判官は法に則って行動した》(el juez ha obrado conforme a derecho)と言われるときには、 derecho が意味するのは、客観的な或る規範である」。

 なるほどそこまでは分かる。しかし問題は、それぞれの文章の中で、derecho という言葉がそのどちらを指しているのか判然としない場合が圧倒的に多いということである。白状すれば、『大衆の反逆』の訳文で、その問題はいまだにすっきりしていないのである。日本語では二つは、つまり法と権利は明らかに違った言葉である。 

法 = 社会秩序を維持するために、その社会の構成員の行為の基準として存立している規範の体系。
権利 = 一定の利益を自分のために主張し、また、これを享受することができる法律上の能力。

 以上はたまたま机の上にあった『デジタル大辞泉』の定義の一部だが、『広辞苑』その他もこれと大同小異であろう。
 どうもこの数日、従来の『モノディアロゴス』とは明らかに異質な文章が続いていて、こんな研究論文の下書きみたいなもの読みたくもない、と思われるであろう。ごもっとも。この問題はこの辺で切り上げて、後は孤独な作業に戻ろう。
 それにしても寒い日が続く。二階の居間と障子一枚へだてた廊下の片隅でこれを書いているが、陽が差す日中ならともかく、夜になると底冷えがして、長時間机に向かっていることは無理である。昨年はどうしていたんだろう。たぶん電気ストーブを足元に置いていたのではないか。今年も最初のうちは小さなセラミック・ヒーターというのを足元に置いていたが、300Wでは寒すぎ、600Wに切り替えてもさほど暖かくはならない。電気代ばかりかかって不経済。ということで現在はネットの電気屋さんから購入した足温器を使っている。確かに30Wと60Wの二段切り替えで電気代は安くなったが、足の裏ばかり熱くなるが、脛から膝にかけては掛けたタオルケットだけでこの寒さに耐えることは無理のようだ。
 もう少しで暖かくなるから今年は我慢と思っていたが、先ほどネットの電気屋さんに電気ひざ掛けを注文した。足温器と合わせても80Wで済むのだから安いものだ。なぜ早くからこれを思いつかなかったのだろう。
 机に向かいながらも眼を右に転じれば、居間でテレビを見ている妻の姿が見える。つまり眼の高さの障子紙の一部に透明なアクリル板をはめ込んでいるのだ。だが今は妻の姿は見えない。夜の10時半、今晩はふだんよりすこし早めにベッドに入ったからだ。私が寝る前に起こしてトイレに連れて行けば、次は何時、その次は何時とケータイの目覚ましをセットする毎日にも慣れてきた。このまま無事に行けば有難いのだが。

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法と権利

ここ数日ご無沙汰が続いた。またぞろ怠けの虫が騒ぎ出したというわけではない。いまぶつかっている問題が、少々、いや大いに、私の能力を越える難所にさしかかっているからだ。もちろん四六時中、その問題を考えたり、関連する本を読んだりしているわけではない。それでなくとも朝起きてから夜寝るまで、雑用が目白押しに襲ってきて、あっという間に一日が終わる毎日がずっと続いている。
 問題とは、戦争と平和にかんしてオルテガはいったい何を考えているのだろうか、ということである。引き金は先日話題にした彼の『傍観者』の中にある「戦争の天才とドイツ人の戦争」(邦訳は『現代文明の砂漠にて』西澤龍生訳、神泉社、1974年に収録されている) というエッセイである。いや気楽に読みとおせる随筆なんぞではなく、要するに彼はそこで、表題にもなっているマックス・シェーラーという現代ドイツの哲学者の戦争論と真っ向勝負をしているのである。
 なぜそんな難物にこだわっているかというと、昨年来翻訳してきたオルテガの『大衆の反逆』でも、世上言われている平和主義を机上の空論と批判しながら展開している彼自身の平和論、というか戦争論、がいまひとつ理解できないままであることに、このあたりで決着をつけたいと、『大衆の反逆』より13、4年前に書かれた前掲のエッセイを読み始めたからである。
 『大衆の反逆』でも世に言う平和主義を批判していたように、彼はシェーラーの言うなれば戦争肯定論を批判しつつも、その対極にある平和主義を次のように批判している。「平和主義の根本的な誤りは、それが静的な概念、従って歴史の偽れる概念から出発する点にある。法的平等主義乃至人道主義と経済的平等主義――平和主義がとるこれら二つのかたちは、歴史的現実を前にしてのその盲目という点で一致している」。
 スペイン・ファシズムの首魁ホセ・アントニオ [・プリモ・デ・リベラ] の理論的支柱にオルテガの思想が巧みに利用されたという歴史的事実、あるいは三島由紀夫に唯一信用された西欧の思想家がオルテガであったというエピソードが、一切の理論武装をしない心情的平和主義者である私を不安に陥れるのだ。
 それでこの難解なエッセイの途中で、眼はうろうろと最終部分をさまよう。そしてここが最重要部分だと見当をつける。「ある人たちは、力の《持つ》法的権原を盾に、力を法〔正義〕にしてしまうし、また別の人々は、それとは逆に、力が侵害〔不正〕「である」がゆえに、力が持っている権原までをも剥奪する」(この部分は既訳を全面的に改訳した)。そして最後の言葉にかろうじて光明を見る。「これら権利が」定義され法典に組み込まれるとき、もはや武器は理解しがたい怪物として博物館に陳列されていることだろう」
 やっかい極まりないのはスペイン語の derecho が同時に法であり権利でもあることだ。さていかに訳し分けようか。

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エル・エスペクタドール

EXPECTADOR という言葉は、英語の expect と語源を同じくする言葉で、「ある重要な事象を好奇心と夢をもって期待する人」という意味である。「手を出さずに、ただ側で見ている人、その事象に関係のない立場で見ている人」、「手を拱(こまね)く人」つまり「傍観者」ではけっしてないわけだ。要するに、ある事象に対して並々ならぬ関心と興味を持ちながら、とりあえずは手を出していないが、必要とあらば、あるいは好機到来とあらば、積極的に、喜んでそれに関わっていく覚悟のできている人のことである。
 事実、「刊行の趣意」には、「芸術・道徳・学問・政治に関する思想の幾掴みかでも生き生きと行き亙らせる」ことを望みながら、それらが「大衆新聞からはみ出してしまう」現況を憂え、それなら「出版屋のお節介は真平御免」とばかり自前でこの個人誌刊行に踏み切ること、それも「先生顔してお話をする」というつもりはさらさらなく、「あらゆることにつき私は熱にうかされた者としてお話する」、なぜなら私の本領は「事柄を前にして燃えた立つ」以外にはないからだ、と述べている(※引用はすべて西澤龍生訳『傍観者』、筑摩書房、1973年より)。
 以上、彼の意気込みは「傍観者」の対極にあるとしか言いようがない。それでは日本語で何と訳せばいいだろう。おそらく先人たちもここで立ち止まって、適切な訳語が見つからず、つい通りのいい「傍観者」に落ち着いたのであろう。expectacion とか expectativa(期待) という名詞や expectante(今か今かと待つ)という形容詞はあるが、observador(観察者)とか expeculador(投機家・相場師)のようには expectador という人間を意味する名詞はめったに使われない。
 いい訳語が見つからないまま、午後妻といつもの散歩に出た。車で東ヶ丘公園に行き、駐車して、いくつかの丘を縫って走る小径を歩くのだが、行き交う散歩者は私たちのように年配者が多い。今日も私たちよりは歳のいってる四人ばかりの、元気な(とは言いかねる、中の一人は杖をついていたから)おじいさんたちと行き会ったが、期せずして両方から「こんにちは!」と挨拶を交わした。気持ちのいいものである。子供や若い人からの挨拶ももちろん嬉しいが、人生の最終コースを走っている同年輩かそれ以上の方からの挨拶は、共に闘ってきた仲間からのエールに聞きなせて心に染み入る。
 いや、そんな散歩の途中で、もしかしたらいいかも、と思われる訳語を思いついた。「夢追い人」。うーん、歌謡曲のタイトルみたいか。ならば「希望的観察者」、うーん、これも硬すぎるか。「期待に胸膨らませる人」、むふっ、長すぎらー。どなたかいい考えありませんか。

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オルテガへの近づき方

オルテガを読みたいのですが、最初なにから読めばいいでしょう、と時おり聞かれる。先日もある人にそう聞かれて、先ずは彼の哲学の出発点である『ドン・キホーテをめぐる思索』、次いで彼の思想の一つの到達点である『人と人々(個人と社会)』を読んではどうですか、と無難な答え方をした。つまり彼の名を一躍世界的なものにした『大衆の反逆』は、先の二著でその骨格を作り上げた彼の哲学の、いわば社会学的応用編である、と考えられるからだ。
 しかし昨年来その『大衆の反逆』の翻訳作業を通して思い知ったのは、これはけっして応用編などというものではなく、それ独自の新たな展開と発展を遂げた思想だということだ。優れた思想であれば当たり前のことかも知れない。つまりある時点で発見され定式化された処方箋をすべての問題にただ当てはめていけばいい、などと考えるのは本物の思想というものを知らぬ者の早とちりだということ。
 さてしかし、哲学者・思想家オルテガへの接近は先述の通りかも知れないが、オルテガという人間はそうした枠組みには納まりきらない広さと深さを持っている。それではなんという言葉で彼をくくることができようか。文明批評家? 違う。それではむしろ彼を矮小化することになってしまう。
 結論を急げば、言葉そのものはいささか古めかしいが、人文主義者という呼称がふさわしいのではないか。もちろんルネッサンス期にエラスムス、ビュデ、ビーベスたちが実践し開拓したあの新しい知識人のあり方である。人文主義者という日本語があまりに硬いというなら、渡辺一夫が生涯追い続けたあのユマニスムそしてユマニストという言葉がふさわしいかも知れない。
 つまり以後、近代化の波やナショナリズムの台頭、学問の専門分化の流れの中でいつのまにか姿を消してしまったあのユマニスト(本音を言えば、スペイン独自の人文主義思想を考慮するならウマニスタといきたいのだが、ここでは我慢する)という呼称ほど、オルテガを過不足なく表す言葉はないということである。そういう意味で、オルテガの多様な関心と旺盛な好奇心が巧まずして表現されている彼の個人誌『傍観者』全八巻が、もしかするとオルテガ接近のいちばんいい入り口かも知れない。
 幸い、すぐれたオルテガの研究者であり紹介者である西澤龍生教授の『傍観者』全訳が存在する。密度の濃いオルテガ研究の盛んなドイツの事情は知らないが、わが国よりオルテガ研究の歴史があるアメリカでさえ、これの翻訳はまだではないだろうか。ただ西澤教授も他の研究者・紹介者も原題の EL ESPECTADOR を「傍観者」としてきたのだが、不適切な訳語ではないかと、と最近になって思いだした。それではどういう訳語が適切か。これについては稿を改める。

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新訳ブーム

私自身まさにその渦中にあるので、ちょっと言いにくいのだが、最近の新訳ブームとやらにいささかの疑問なきにしもあらずである。
 確かに時代とともに、かつていかに名訳と言われたものであっても、新しい読者にはとっつきにくいものとなるということはありうる。だから新訳が試みられるのは当然の成り行きであろう。
 しかし売れる売れないという問題、もっとていねいな言い方をすれば、新しい読者層の広がり、ということになると、それが新訳のおかげである、と直結させるのはちと無理があろう。もちろん優れた新訳のおかげで売れた、という例はあると思う。どうも奥歯に物がはさまったような言い方しかできないのは、良書であることと売れることとのあいだに、ほとんど因果関係が認められないと言い切ってもいいからである。それまで売れなかった訳書が、表紙のレイアウトを変えたとたんに売れ出した、という例もその断定を裏付けてくれよう。
 ところで新訳なるものをすべて詳しく調べたわけではないが、それらに共通する一つの特徴だけはつかみ出せる。原文や既訳とつき合わせての評ではなく、ごく感覚的な感じに過ぎないが、要するに「つるんとした」訳文なのだ。それはたとえば「私」を「わたし」に、「既に」を「すでに」というぐあいに漢字が少ないことからの感触だけではない。
 翻訳についての褒め言葉に「こなれた訳」というのがある。これは先の「つるんとした」というのとはちょっと違うが、根っこは同じであろう。要するにこれは、学校での和訳に見られるように、辞書に出ている訳語の最初の部分にあるような言葉を連ねるのではなく、よほどたっぷりと訳語を並べた辞書にも無いような言葉や言い回しを、文章の随所に効果的にちりばめるといった、ちょっと高度なテクニックを駆使した文章について言われることが多い。たとえば「とまれ」とか「ことほどさように」とか「さもありなん」といった、いかにも「手足れ(手練)」の書きそうな言葉を巧みに配するのである。
 誤訳や不適切訳は論外としても、翻訳は結局はある特定の文化の中で育った表現や思想を、それとはまったく異質の文化の表現や思想に置き換える荒業なのであるから、ぎこちなさや「こなれない」部分が残るのは当然と考えるのがやはり原点ではなかろうか。それを踏まえた上で、つまりそれが本来持っているはずの特徴をできるだけ尊重しながら、日本語としての格好を構築する、それが翻訳というものではなかろうか。

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ウメさんの四回忌

昼食後、妻と息子と三人で公園墓地に行く。ウメさんが亡くなって丸三年が過ぎた。これを四回忌というのかどうかは分からない。仏教徒ならなにか決まった儀式があるだろうし、カトリック教徒ならさしずめミサを挙げてもらうなどのことをするのかも知れない。私たちは、いや少なくとも私と妻はそのいずれでもないから、自分たちがいいと思う様式で死者に祈り記念するしかない。
 嫁はおそらく妊娠中なので、墓に近づくことは控えたのかも知れない。先日、遺骨の埋葬に立ち会ったあと体調をくずしたことを気にしているのではないか。これもまた死者を遇する一つの様式であって、じゅうぶん尊重に値する。死者に対しては、いまのところ(というのはいつか考え方が変わるかも知れないので)、生者の記憶の中にしかその存在を認めていない私などより、この嫁の方がはるかに宗教的なのかも知れない。
 あと何年、いやもしかして何ヶ月後にはこの世からおさらばする老人、たとえばばっぱさん、などが、これから先もずっと生き続けるような意識で生きていることを奇妙に思ってきたが、この歳になるとそれも分からぬでもないな、という気持ちにはなってきた。つまり「生きる」とはもともとそのような構造を持っているに違いない。断頭台に登った死刑囚でも、ギロチンの冷たい刃が皮膚を切り裂き、骨を砕き、もう一つの皮膚層に達するまで、まだ生きている、いや「生きるつもりになっている」に違いない。
 ところでウメさんの遺骨は、三年近く我が家の二階仏間に祀っていた。福島市のお寺に埋葬されている義父の遺骨といつか一緒に公園墓地に埋葬しようと思っていたのだが、昨年暮れ近くに一足先にウメさんだけお墓に入ってもらった。義父の遺骨はそのうち福島から運ぼうと思っている。私自身の遺骨などどこに埋葬されようと、あるいは太平洋に撒かれようといっこうにかまわないが、できるだけ長く人びと、いやせめて子孫たち、の記憶の中に生き続けられたら、とは願っている。いや、かつてキリスト教徒(しかもある時は修道士)であったときよりはるかに激しく願っている。もしかしてこれは、ウナムーノの言う inmortalidad(不死・不滅)への希求に近づいているのかも知れぬ。

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書棚に眠る推理小説たち

最近「モノディアロゴス」を書かなくなった理由の一つ、いや最大の理由は、書いたものをすぐ妻に読ませてその反応を確かめるというささやかな楽しみがなくなったからではないか、とふと思った。読書力(読解力?)も読書量も私の上を行っていた妻が、ここ二年のあいだにすっかり読めなくなってしまったのだ。一生掛かっても読みきれないね、などと買い集めた本の背を見ながら、だれにともなくつぶやき、歳をとってからの読書を楽しみにしていた彼女のことを考えると、残念というか悲しいというか、やり場の無い悔しさがこみ上げてくる。いや本人の方がはるかに悔しいはずだ。寝室の鴨居の上二面にしつらえた棚には、未読のものも含めて推理小説(文庫本)がびっしり詰まっている。一時期、夫婦で推理小説にハマったことがあり、競って読み漁ったことなど、いま考えると夢のようだ。
 昨年初夏、老母と息子の嫁と四人で十勝に旅行したおり、田舎町で診療所を開いている従弟から、音読がいいよ、と勧められたのだが、それも続けられなかった。私の方でももっと本気になって世話すべきだとは思うが、それほど切迫感が無かったからか、あるいは結局は自分がエゴイストだったからか。恥かしいけれど後者だろう。だからハンディを背負った連れ合いのために、いろんな手段を駆使してリハビリに努めている人の話をテレビなどで見ると、恥かしくなる。恥かしくなるだけではどうしようもないが。
 一昨日の「朝日」に、「アルツハイマー原因物質除去ワクチン開発」の文字が第一面をかざっていたが、肝心の実用化の日程については曖昧なままである。
 でも不思議な病気だ。記憶力や判断力は劣化の一途をたどるのだが感情的な面での人格は保たれていて不変だ。私は誰か(自分についてもまた相手についても)ときに分からなくなるが、かといってまったくの闇に取り残されているわけではない。自分や相手を包み込む大きな関係性の皮膜のようなものがあって、その中でそれなりに安定している。また周りから見れば脈絡も意味も無い行為であっても、彼女なりに筋が通った行為なのだ。
 たとえば評判のいい病院や医者を求めて、全国行脚も辞さないくらいの熱意(愛情?)があってしかるべきではないか、との声が自分の中で聞こえないでもない。いやそれ以前に、果たして認知症かどうかさえ調べていなのである。そこらへんのことはちょっと説明(弁明?)が難しいが、どこかの専門医を尋ねて、何とかというアルファベットの頭文字が三つか四つ並んだ精密器具で調べてもらい、何時間も寒い(暖房が通っているかも知れないが少なくとも心理的には)待合室で待たされたあとで偉い医者の前に出頭し、「はい間違いなく認知症です」との宣告を受けて、それでどうした? 効果的な治療などない以上、あとはその「認定書」を「当局」に提出してしかるべき補助〈金〉を受けるだけではないか。ヘルパーさんとかが恩着せがましく(こちらの僻みか?)家に出入りし…。そんなことならまだ私自身が元気なあいだは…
 要するに私はけっして諦めたり降参などしていない、闘っているのだ(と言いたいわけである)。毎日かならず妻と散歩を励行しているのもその一環である。たとえ記憶や認識が駄目になっても、そんなものは私が補えばいいのだし、ともかく元気であればなんとかなる…

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ミルクの死

午前十一時きっかり、ミルクが死んだ。その少し前、長野の穎美ちゃんから電話をもらい、ミルクは少しずつ良くなってきたよ、と話したばかりだった。相変わらず何も飲まず食べずの状態からなんとか抜け出そうと、昨夕、K獣医から目薬をもらい(風邪のためかほとんど眼を開けなかったので)、次いで六号線沿いのペットショップで栄養剤を買い(獣医のところでは切らしていたので)、何度かスポイドで口から流し込むなどした結果、今朝は心なしか呼吸もしっかりするように見え、これで少しずつ快方に向かうと信じていた矢先だったのである。残念でたまらない。
 たとえば獣医のところで二度目の(ココアは二度打ってもらった)注射を打ってもらうなど、もう少し手を尽すべきではなかったか、と後悔する気持もあるが、しかしこれがミルクの寿命だったのだと諦める気持の方が強い。人間の場合も、いや自分自身の場合もおそらくそうであろうと日ごろから思っているのだが、生きとし生けるもの、すべていずれ死を迎えるべきもの、延命のため打てる手段をすべて尽すのも一つの「生き方」だが、従容として死を迎えるのも一つの「生き方」、いや「死に方」ではなかろうか。だから基本的には「臓器移植」は好きでない。他人に対しては認めてもいいし、あえて反対もしないけれど、端的に、理屈抜きに好きでない、そして自分にはしてもらいたくない。愛する人に対してのものだとしたら…迷いに迷ってやはりしてもらいたくない、と言うだろう、と思う。
 二〇〇〇年六月初旬の生まれ(のはず。当時は野良の子だったから、正確な日付は分からない)だから六歳五ヵ月の短い生涯だった。野良の「おかあちゃん」から生まれた子供たちの中で、もしかして(人間の眼から見て)いちばん頭が悪かったかもしれない。でも小さい体ながら気が強かった。体の大きな弟のココアと半分ふざけあっての取っ組み合いでは、最後は体力負けして、もうやめたとばかり戦線離脱がつねだったが、ふだんは姉さんぶりを発揮して、ココアを先導するようなところがあった。
 昼ごはんの後、妻の見守る中で、冷たく、小さくなった遺体を庭に埋めた。ちょうどすっぽり入るダンボールの箱の中に、折りたたんだ洗いざらしのバスタオルでくるんで入れ、死出の旅のお弁当のつもりで、いつも食べていた餌を口の側に置いてやった。獣医さんのところで注射を打ってもらう際に彼女に引っかかれた上唇の傷がちょっと眼には分からないほどになったが、こうなったらミルクの想い出としてはっきりと分かる傷痕であってもよかったのに、と思う。
 この十日間ほど、側に寝ているミルクがどうして元気がないのかを忘れるので、そのたびに風邪のことを思い出させてやらなければならなかった妻だが、ふと見ると眼が充血している。ミルクのこと?、と聞くと、そうだ、と言う。でもね、いまはもう寒さも痛さもない天国で幸福になってるんだよ、と言うと、違うよ、天国は私たちの心の中にあるんだよ、と答える。そうだよね、ミルクはいま私たちの心の中に生き始めたんだよね。それで急いでパソコンのなかの「死者のカレンダー」にミルクのことを書き加えた。

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気分はアナーキスト

べつだん理論的アナーキストを志したことはないし、そちらの方の勉強をしたこともない。つまり気分的な無政府主義者というわけだ。だから国家の消滅あるいは死滅の後の見取り図など持っているはずもない。要するにきわめて腰砕けのアナーキストである。確かに近代以後の国民国家にそれなりの歴史的存在意義があったことは認めよう。しかし現代ではもはやそのプラス面よりマイナス面の方がはるかに多いと漠然と思っているに過ぎないのだ。
 このところ、戦後日本の表層から一応は消えていたはずの国粋主義が、軍国主義とは言わないまでも悪しき国家主義が、またぞろ表層に露出してきている。この種の傾向を持っている人たちが言う「ふつうの国」というのは、先に述べたように近代国家像の延長線上にある国家のことであって、この程度の国家観ではまたもや愚かしい限りの利権と覇権争い、そこまで行かないにしてもくだらぬ面子やエゴのメカニズムに陥るのはバカでも分かる道理なのだ。
 オルテガの『個人と社会――人と人びと』が分析しているように、個人と社会の関係は実に複雑である。つまり社会は人間が作ったものであるからには人間的なものではあるが、しかしそれよりはるかに非・人間的な側面を持っている。まして、社会の究極形たる国家は、その非・人間性が純粋培養された形で、つまり考えられる限り最高の純度で固められたものである。国家論が、オルテガでさえ究明をあきらめたほど神秘主義やオカルティズムに似た難しさといかがわしさを持っているのはそのためである。
 だからろくに政治学を齧ったこともない私など軽はずみに近づかないほうが身のためであろう。ただ国家とはいったい何者あるいは何物ぞ、と考えざるをえないようなことが息子の嫁の来日に関して起こったのである。
 なにも難しく考えたわけではない。ただ単純に、オルテガも考え及ばなかったであろうことをつい想像してしまったのだ。つまり国家という非情な装置も、結局は来年に定年を控えて残ったローンをどう払っていこうかと考えている冴えない男や、勤め帰りに今晩のお惣菜に何を買おうか思案するいささかトウの立った女の匙加減で、在留資格認定が交付されるか、それとも不交付になるかが決められる、という想像である。たとえ形式上は種々のチェック・ポイントがあり会議らしきものが持たれたとしても、である。

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黄金色に輝く稲穂の波

ウメさんには、もうこちらを認識する力はないのか。今日も目を開けてはいるがこちらからの話しかけに答えることはない。しかしこうして生きていることそれ自体が、大いなる恵みであるし、生きていることの意味を静かに語りかけていると思いたい。静かにベッドに横たわったまま、これまでの生の瞬間瞬間を、頭蓋のスクリーンに映し出して、それをゆっくり反芻しているウメさんの存在が、例えば人類の現在と未来にとって無意味であるはずがない。
 実はそんなことをつくづく考えさせられたのは、大熊までの沿道に広がる黄金色の稲穂の波、あたりを領する不思議な光に心が満たされる思いをしたからである。このえも言われぬ感動はどこからくるのだろう。堪(こら)えなければ、涙が溢れ出たかもしれない。もちろん何か悲しいことがあってセンチメンタルになっていたわけではない。この大自然の美しいページェントを前にしたらだれでも感動するはずの光そして色だったのだ。
 そう言えば、絵心などまったくなく、描くこともまた不得手の私が、過去唯一写生大会で入選した絵が、この秋の稲穂の波を描いたものであったことを思い出した。中学生のときのことである。構図なんて考える余裕などなかった。ただただ眼前に迫る黄金色の稲穂に感動して、僅かな濃淡を見せてひろがる秋の稲田を画面の三分の二ほどに大きく描いただけのものであった。残っているはずもないが、今一度見てみたい気がする。
 そして今日は、道端に咲き乱れる可憐な花々にも心が締め付けられるような感動を覚えた。可憐に、健気に咲き乱れる名も知らぬ草花。通りすがりの見ず知らずの者にも自分たちの美しさを見せようとするこの無償の愛。私の住む町にも、いたるところ草花が咲き乱れている。もちろん誰かが手入れしているのだろう。こういうやさしさがあるかぎり、いつか世界に平和が実現すると思いたい。
 恥ずかしながら、いままで自分はそうした形で他人を喜ばせたことはない。でももしかして毎日細々と書き綴っているこのつたない文章たちも、どこかで落ち込んでいる誰かを励ましたり、微苦笑を誘っているのかも知れない。そんなことを考えて、今日は久方ぶりに『続・モノディアロゴス』を何部かプリントアウトして、このごろ足腰がままならぬとしきりに電話口でかこつK市の従姉などに郵送することにした。私なりの「花いっぱい運動」である。

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幸せに育つことの不幸

約三十五年間、若い人たちと付き合ってきた。その間、当世学生気質のあからさまな変化の見られた時期もいくつか経験した。最初のショックは、何に対しても「可愛っいいー」を連発する世代の登場で、彼らと共に精神年齢の幼稚化が始まった。次の変化は、若者たちが例えば親や教師といった年長者にどう思われるかよりはるかに切実かつ焦眉の問題として、仲間あるいは同世代の者にどう思われるか、異常なまでに気にする若者たちの登場である。いじめや画一化が話題になった時期と軌を一にする。
 そして現在は? きつい言い方をすれば、一見礼儀正しく「いい子」なのだが、世代間の軋轢・葛藤にもまれた経験や挫折の経験が少なく、そのためもあってか、受けた好意や親切に対して意外と鈍感な若者たちの登場と言えば当たらずとも遠からずか。この若者たちのもう一つの特徴は、洒落や冗談を含めた言語表現の機微がなかなか伝わらないことである。もちろんいつの時代も年長者から見れば「今どきの若者(わかもん)は…」と批判の対象になってきたわけで、こうした世代間ギャップこそが実は社会の成熟に必要なものと言えるはずなのだが。
 そんなことを考えていたとき、現役の大学教師の若い友人からこんなメールをもらった。

 私の学生の中にも、そういう子が増えてきました。何でもやってもらって当たり前、頼みはするがお礼の言葉は無し。でも悪気はない。何かの本で「幸せに育つことの不幸」という言葉を読みましたが、そういう時代なのかもしれません。でも、振り返ってみれば、学生の頃の私も同じようなもので、時間を割いていただいたことに対してきちんと感謝の言葉を伝えるという「躾」は、先生にしていただいたようなものですから、嫌われても何でも学生にそのことを伝えていこうと思っています。

 なるほど「幸せに育つことの不幸」か。言い得て妙である。
 昼前、二泊の滞在を終えて姪の恵が帰っていった。バッパさんの上(じょう)孫だけあって、夜もバッパさんの部屋に布団を持ち込んで一緒に寝てくれた。そしてバッパさんに、息子夫婦と如何にすれば幸福に共生できるかを懇々と優しく教え諭してくれた。上孫が帰っていって寂しかろうな、と心からの同情を呼び覚ますほど、バッパさんが珍しく穏やかないい表情をしている(さていつまで続く?)。

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部活、錦の御旗

この頃の高校生と付き合っていると、あれーちょっと変だな、と思うことがたびたびある。たとえば、英語を勉強したいというので、何とか都合をつけて時間を設定する。ところが時々、何の連絡もせずに約束の時間に来ない。理由を問いただすと、すみません急に部活が入って、連絡するのを忘れていました、と来る。
 もちろん連絡せずに約束をすっぽかすのは稀ではある。でも事前に連絡してくる場合でも、来週試験があるので、とか部活があるので、というのがやたら多い。そんな返事に、一度こう言ったことがある。勉強や試験を理由に、家事や約束事を免除される「幸福な」国は、世界広しといえども、もしかして日本ぐらいかもしれないよ。その日本だって、一昔前までは、家事を言いつけられて「母―ちゃん、俺いま勉強してるんだよー」などという理窟が罷り通る家庭など、よほどの「ブルジョア」でなければありえなかった、と。
 この元教師の言うことは俄かには理解できないらしい。勉強が「錦の御旗」「水戸黄門の印籠」として機能することの方が世界の非常識であることなど、いまやまったくの少数意見になってしまった。ではそんな特別待遇を受けながら、肝心の学力は、といえば、年々それの低下は目を被いたくなるほどであるのは周知の事実である。
 だから今や私にとって、「勉強」や「テスト」はともかく、「部活」という言葉は聞くだけでも虫唾が走るのである。今の中学や高校で、この「部活」にどれだけの指導教員と生徒たちが無駄な時間とエネルギーを浪費させられていることか。私の知るだけでも、体育系のクラブだけでなく文化系のクラブの指導教員を仰せつかったがために、休日・日曜返上を余儀なくされている教員たちがいかに多いことか。
 でも柔らかい頭で、自由な発想ができるためには、ぼんやり白い雲など眺める「余暇」が絶対に必要なのだ。今の中学や高校では、私の僻目かもしれないが、生徒や教師を暇にさせておくと碌なことがない、という不信感があるように思えてならない。

 よって本日から、付き合っている高校生たちにこう布告するつもりだ。約束事を守れないときの言い訳に「勉強」や「試験」や「部活」を出すことはご法度。「ちっちゃな弟妹の子守り」「家計を助けるためのバイト」「老・病人介護の手伝い」は可なり、と。

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地方都市の文化行政

話の途中で、あゝ切れるな、などと他人事のように自分を観察するもう一人の自分がいた。案の定、風向きがふと変わるように、職員室に呼び出された生徒と教師のようなそれまでの位置関係が逆転した。たぶん四十代のその職員は、この百戦錬磨の退職教師の前ではしょせん若造である。年齢を笠に着るつもりは毛頭無かったし、細かいところでいちいち世直しするつもりもなかったが、人間関係にはとかく弾みというものがある。
 フォルクローレの練習会場を借りに「文化センター」を訪ねたとき、同じ建物の五階にある生涯教育課など訪ねるつもりはなかった。ただ施設管理のセクションの係員に、市の芸術文化協会に登録すれば施設使用料が無料になるから、相談してみては、と言われ、背に腹はかえられぬ、とつい寄ってみる気になったのである。求められてフォルクローレ・サークルの母体であるメディオス・クラブがどういうクラブかを説明するうち、これはちょっと違うぞ、と思いだしたのである。つまり「査定」され、それに合格すれば「認定」してやる、といった雰囲気に気づき、とつぜん馬鹿らしくなってきたのだ。
 もともと市の文化行政などそんなものなんだろう。無定形のものから地方文化を「育てる」という意識はさらさら無く、書式や形式にかなったものだけを「認可」してやろう、というわけである。そんなことなら芸術文化協会などといっさい関わるつもりはないから、と憤然と席を立って廊下に出たら、課長さんがちょっとそこでお話を伺いたい、と廊下の隅の椅子まで案内する。これはいい機会だから、と言いたいことを率直に言わせてもらった。すると、別に芸術文化協会の傘下に入らなくとも、簡単な申請書を出してもらえれば、施設使用料の減免が可能だから、と一枚の用紙が渡された。(初めから言ってくれよー)。それでは近日中に提出しましょう、と受け取って帰ってきた。
 家に着いて見てみると、恐れていた通りの書式になっていた。つまり申請書の受け取り先(市教育委員会)がすでに「様」という敬称を自らに冠しているのだ。いまだに公的機関に限らず民間団体でさえこの無意識の横柄さを自らに許している。印刷された「様」に横線を引いて手書きの「様」を書き加えるか、それともそんな相手とはとうぶん関わりあわないようにしようか、いまちょっと迷っている。

【息子追記】その後、南相馬市の少なくとも市長宛の申請書の類には、返信の宛先の市長の名前の横に「様」はつかなくなった(笑)。

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その日の朝

二年ぶりの東京はやたら暑かった。といって昨日は全国的に真夏のような一日だったようだが。最初から波乱含みの一日だった。五時半にタクシーが来るというのに、目が覚めたのはその十五分前。一瞬頭の中が真っ白になった。ケータイと目覚し時計をセットしていたはずなのに、その両方ともが機能しなかったのだ。後から知ったのは、まずケータイは時間設定をしたのに「停止」のままだったこと。時計の方は、どうやら無意識裡に止めたらしい。
 火事場の馬鹿力のようなものが「機能」したようだ。パニック状態の妻に向かって「大丈夫、大丈夫、化粧などは電車に乗ってから」などとしきりに声を出して誘導し、猛スピードで服を着て、猫たちのご飯と水を用意し、電気や火の元(灯油ストーブは使ってないが念のため)のチェック、土産など持ち物の確認など、合計十分で完了。下に降りてバッパさんに留守を頼んで玄関先に出た途端、音もなくタクシーが接近。余裕である。
 いや、正直言うと、目が覚めて時計を見た時点で、こりゃ駄目だ、と思い、一電車遅らせる覚悟をしたのである。でももしかして間に合うかもしれないと、半信半疑のままエンジンをフル回転させたまでなのだ。もちろん兵隊の体験はないが、起床ラッパで飛び起きて真っ暗な営庭に整列する兵隊のような「神業」をやってしまったという感じ?(今風に語尾を上げて)。
 確かに幸先は決して良くはなかったが、おかげさまで(?)その後は全て順調、可愛い初孫に面会したり、旦那とお父さんに若夫婦の新居に案内してもらったり(娘と孫はまだ産院)、徒歩十数分のところにある旦那の実家で休んだり、近くの寿司屋でご馳走になったり……
 でもやっぱり強行軍だったことは間違いなく、上野発七時の(名ばかり)特急に乗って、あとは終着駅まで寝てこれたはずなのに、神経がテンションを上げたまま下がってくれず、どんよりした目を開けたままぼんやりしていた。それにしても、日ごろ超トロクサイ妻がなんとか付いてきてくれたのは収穫といえば収穫。やればでっきるじゃなーい。

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「くに」とは何か

今まで再三言ってきたことだが、現在の日本語では「国」という言葉の使い方が今まで以上に乱れてきた、というより矮小化されてきたように思われる。「くに」という概念には三つのレヴェルがある。つまり、たとえば国連に加盟するときなど問題にされる法的な意味での「国家=state」、人間の顔が見え始める「国民国家=nation」、人間のみならず風土が見えてくる「くに=country」の三つだが、現代日本語では全てが第一の法的な意味での国家に収斂しているようである。つまり「日本」というものを、現在の内閣が運営し代表する「日本国」に集約されているようなのだ。
 本来は第三のもっとも包括的な「くに」に対して自然と感得される愛国心までが、第一の最も狭い意味での「日本国家」に収斂している。だから今回の人質問題で話題になった「国」に対する迷惑も、ただただ現体制への迷惑へとすりかえられているわけだ。
 しかしよくよく考えてみれば、第一の意味での「国」、つまり狭義の「国家」でさえ、主権在民の、しかも三権分立の仕組みの下の「国家」なのであるから、現在出回っている「国」という言葉がひたすら三権のうちの一つに過ぎない行政府のみを意味しているのは、国概念のさらなる矮小化であり、実に危険であると言わねばならない。
 三つのレヴェルをすべて含んだ「日本」という国の幸福と繁栄よりも、ひたすら己が栄達やら権力やら次回選挙対策しか考えていないような政治屋ならまだしも、「ふつうの、まじめな」日本人がなぜしたり顔に「国の迷惑」などと言うのかな、と不思議に思っていたが、彼らの「くに」概念が現体制の言うがままの「くに」に卑小化されている、そしてその事実(誤用)を自覚していない、と考え及んで少し謎が解けたような気持になった。
 だからといって、この不思議な息苦しさ、閉塞感が消えるはずもない。そこのところをはっきりさせない限り、「民主主義」などどだい根付くはずもないからである。

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日めくりウェブ人間学

午後になってようやく『モノディアロゴス』の二回目の校正を終えた。風邪のためあまり頭の回転がよくないままの校正だから、はなはだ心もとない。昨日の「日録」にも、「期待にたがわず」が「期待にそぐわず」と完全に逆の意味になっていたところがあった(訂正済み)。もっともこれは、体調からくる間違いなのか、それとも老化からくる思い違いなのか、微妙なところではあるが。
 今回の校正でいちばん迷ったのは、どこまで実名を出すか出さないかに関してであった。たとえば土地の名前、人の名前。特に隠す必要もないなら、変に思わせぶりに伏せるより、実名を出した方がすっきりする箇所がいくつもあった。また他人に関する批判であっても、その人が公的な立場にある場合(有名人である場合も含めて)、やはり実名を出した方がいい場合が何箇所もあった。要は、自らを匿名にする場合も、相手を仮名にする場合も、初めから逃げ腰であるのはみっともないし、卑怯であるということであろう。つまり自分の言葉に責任を持たないで物を言うな*、ということであろう。
 さて副題を何としようか、宣伝文句(惹句)をどうしようか、という難題が残っているのですが、どなたかヒントいただけませんか。
 「日めくりウェブ人間学」とか何とか……
 他人のことだったら気の利いた言葉が思い浮かぶのだが、自分のことだとどうもうまくいきません。どなたか本当に助けてください。
 もっとも校正をふくめて、最終的には行路社の楠本さんにすべておまかせできるという安心感がありますが(あれっ、先ほどは助けて、と言ったのでは?)…
 私なりに努力しないと…


*文中の太赤字の箇所の処理は、息子・佐々木淳がやったことである。

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或る兆し

教壇を離れて二年以上経ち、人前で話す機会もなく、またヘルペスで高熱を出したあと物忘れがひどくなっているので、ちょっと無理かな、と思いながら、会場まで妻を送ってから小高の「島尾敏雄を読む会」の方に向かった。今日は欠席者が多かったが、めげないで「ちっぽけなアヴァンチュール」の読みを続ける。というより私の島尾論の中心テーマの「生の構造」という聞きなれない言葉の意味をなんとか解きほぐして伝えようとして、どんどん深みにはまってるな、と思いながら話を続けた。幸い終了前に、聴講生から質問が出たり、感想が述べられたりして、なんとか今日も無事終了。哲学的なテーマをいかにわかりやすく伝えるか、これはなかなか難しいことだと改めて思った。これからこういう機会があると思うので、もう少し勉強しなければなるまい。
 帰ってみると妻はすでに帰宅していた。会場から家までかなりの距離なのに歩いて帰ってきたそうだ。なんとなく元気がないので、聞いてみると、会場設定その他の下働きはみんなと楽しくできたが、肝心の通訳のときになって、演台に立ったとたん頭の中が真っ白になって、言葉が飛んでしまったそうだ。インターナショナル・スクールに勤めて、それなりに通訳の経験もあるからと安心していたが、パニクってしまって言葉が出てこなかったようだ。たぶん司会者がうまく事態を収拾したのであろう。
 依頼主のY. Wさんにさっそく電話を入れて、お役に立てなかったことを謝った。29日のファイナル・パーティーもこんなことでは無理なので、とお断りした。ベテラン舞台俳優だって、一瞬頭の中が真っ白になることがあるんだから、気落ちしないで、明日からリハビリしよう、と慰めているが、やはり本人にしてみればよほどのショックだったようだ。自信が無い、というのを無理に送りこんだようなところがあり、可哀想なことをした、と反省している。この失敗に懲りていよいよ自信をなくしてしまわないよう、明日からのリハビリにも付き合うつもり。
 実はこんなこと日録に書いていいかい、と妻に言うと、いいというので書いておく。つまり隠さないで、元気にこの難局に立ち向かうということ。老いやぼけなんかに負けるものか、ということである。

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 半ば予想していたことだが、佐藤知事は東電の社長に第一原発の六号機運転再開を認めたようだ。国のエネルギー対策の根底からの見直しを迫って、政治生命を賭ける政治家などいないのだろう。まあ、ここまでよくやったと褒めるべきか。いやいや、間違ってもそんなことはしません。原子爆弾やチェルノブイリの悲劇を経験してもなお、経済や暮し向きのことだけしか考えない人が、たとえばこの福島県でも半数以上いるという苦い現実があり、それを考えると徒労感に襲われるが、でも絶望はすまい。それにしても明日はその原発の側を通って義母を訪ねなければならない。
 この梅雨空の下では元気も出ないが、今日久しぶりにカストロの『葛藤の時代』の訳稿を取り出してみた。せっかく訳し終えたのだから、なんとか出版までこぎつけよう。ともかく毎日訳稿を見て、徐々にやる気を出そう。

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葉桜


葉桜

 今日も柔らかい午後の光の中を、櫻の花びらが風に舞う。もう六、七割がた散ってしまったろうか。葉桜、そうだ太宰治に確か葉桜のころを描いた短編があったはず。寝室の本棚を探すと、それぞれ三、四冊の太宰の文庫本を合本にした背革の三巻が見つかった。『新樹の言葉』という短編集の中の「葉桜と魔笛」がそれらしい。一度読んだのかも知れないが、いつものとおりすっかり内容を忘れている。ともかく短いので読んでみる。太宰の独壇場である女性の語りで物語りは構成されている。はるかな昔、彼女が二十、妹が十八の時の思い出話である。妹は不治の病で床に臥している。ある日、妹の恋人から来た手紙の束を見つけた姉が、つれなく去っていったその恋人に成り代わって妹当てに手紙を書く。妹の最後に花を添えるため。しかし実はその恋人自体が妹の作り上げた架空の恋人であったという悲しい話である。妹が死んでいくのがちょうど葉桜の季節。
 「見て、これ小さい時、お祭のときには必ず締めた帯よ」と妻が橙色 (昔は朱色か) を基調にした絹地に、櫻や水仙や紅葉などを配した三尺ほどの帯をどこからか見つけてきた。たぶん階下の未整理の箪笥から引っ張り出したのだろう。絹製ではあるがすっかり色褪せ、何かのしみも付いている。三、四歳のころに使っていたらしく、捨てるには未練があると言う。それでは、と今さっき読んでいた合本の表紙に切り取って貼ることにした。薄い布地なので、皺にならぬようにするにはかなりの技術が必要である。
 いや、もったいぶっても始まらない。ものの十五分程度、ちょちょいのちょいでできてしまった。初め見た時は汚らしい布切れだったものが、厚紙にきっちり貼り付けられたのを見ると、光の加減で花々が微妙な色合いを見せてくれる。かくして『新樹の言葉』、『ろまん燈籠』、『津軽』のちょっと趣きのある合本が出来上がった。
 ふと窓外を見ると、夕陽の中で小さな夫婦の蝶が風にたわむれ、また互いにたわむれている。まさかこの季節に、と思ったら、それは一本の蜘蛛の糸に絡まった二枚の花びらが微風に揺れて舞っているのである。視線を少し右にずらせば、夕映えの国見山の真上に鼠色の大きな雲がかかっており、もしかすると明日は天気が崩れるかも知れない。ここまで来たら、むしろ一思いに残った花びらもすべて雨に洗われたほうがいいかな、と思う。

(4/19)

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水の低きに就く如く


 小泉純一郎に代表される日本の保守政治家に
(いや政治家一般と言ってもいいだろうが) 政治哲学が不在であるということが言われてきたが、しかし何を指してそう言うのか。簡単に言えば、アメリカ追従だけでなく現実追従以外の何物でもないということである。だからイラク武力攻撃容認をめぐっての今回の小泉答弁に見られるように、明確な理由説明などどだい無理である。ああだからああなり、こうだからこうなった。つまりもともと思想などありえないのである。
 現実にぴったり寄り添う論理 (実はその名に値しないのだが) は実に頑丈である。ちょうど机の端がそうであるように、生半可な理想論などいっぺんに撥ね返すほどのしたたかさを持っている。
 しかしもちろん真の意味で思想の名に値するのは、実はそうした現実に一旦は拠りながら、しかもそこから強靭な意志をもって離陸するものの謂いである。現実から離陸できない思想は、はっきり言って思想の名に値しない。なんども引き合いに出して恐縮だが、セナンクール『オーベルマン』の主人公のように、
「人間は死すべきものである。――確かにそうかも知れない。しかし抵抗して死のうではないか。そして、無がわれわれに予め定められているとしても、それを当然と思わぬことにしよう」というところからしか思想は生まれようがないのである。もちろんこの場合、オーベルマンの言う「無」を「現実」と言い換えたが我田引水の謗りは免れているはずである。
 現実から出発しつつ、しかもあるべき理想に向かって点線で仮説を立て、しかるのちにそれが実線となるべく具体的な方途を積み重ねる。これが政治哲学の通常の形成過程である。私自身政治哲学についてはずぶの素人ではあるが、それほど見当違いのことは言っていないつもりである。
 もちろんこうして生まれた思想が、今度は現実を無視したり歪めたりして、人間の「生」を疎外する危険性はつねにつきまとう。だからこそ思想は絶えず現実からのチェックを必要とする。つまり「思想」と「生」の間につねに往還がなければならない所以である。
 傍観者の立場からならなんとでも言えるさ、という皮肉っぽい反論はもちろん覚悟している。しかしぎりぎりの思索から生まれた言葉は、もしかすると生物細胞内のDNAよりも伝達能力を持っているかも知れない。いやそう信じて、以後執拗に反戦と平和の思想を構築していきたい。
                                (3/19)

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花曇りの中で


 浜通り地方は午前中天気はぐずつきますが、午後には回復に向かうでしょう、との予報通り、大熊町からの帰途、行く手がしだいに明るさを増してきた。なぜか私は薄曇りや花曇の不思議な明るさの中で、思い出の小径へと導かれることが多い。少し意識を凝らせば、そのうちの一本へ容易に入っていけそうだ。幸い眠気もないことだから、運転に気をつけながら少しその小径を進んでみようか……

 いや嘘をつくのはやめよう。以下のことは確かに車の中でフラッシュバック風に思い出したのではあるが、脈略をつけて思い出したのは家に帰ってきてからである。しかし夕食前にほとんど書き上げたのだがどうもしっくりこない。つまりなぜそれを想い出したのか、その意味が分からないのである。もちろん想い出なんてものはそんなもので、強いて意味づける必要はないのだが。いや待て、分かった、なぜそのことを思い出したのか。
 花曇の中、一つの風景が浮び上がってくる。満州からの引揚げの途中らしい。これはどこの町だろう、小高い丘の上の、校舎のような建物が連なっている。そうだ私たちが逗留していたのは坂道の一番下の棟だった。ある日、その坂道を上がってくる他の棟の男の子にふざけて投げた小石が、まともに彼の頭に当たってしまった。数人の友だちもそれぞれに投げたのだが、私の石が当たったとの感触があった。幸い小さなたんこぶを作っただけだったらしいが、たいへんなことをしでかしてしまった。
 夕刻、その子の棟の大人が数人押しかけてきた。私たちは玄関脇の物陰に隠れていたが、応対した私たちの棟の小父さんがしきりに謝っている声が聞こえてきた。たしかに石をぶつけたのは悪いが、その子からは以前それ以上の被害を受けていた。だからあそこまで無条件に謝るのは行き過ぎだくらいに思っていたようである。
 男たちが帰っていったあと、小父さんはみなの頭をひとわたり撫でながら、世の中にはたとえこちらに非がなくても謝っておいたほうが丸く収まることがある、と言った。あのとき初めて世の中には「建て前」というものがあり、それが大人たちの世界を動かしているんだ、と落雷に打たれたように悟った。
 そう、確かにこのことをきっかけに世の中の動きが本音と建て前の二重構造になっていることを認識し始めたわけだ。だがもう建て前はネクタイとともに捨てよう。残された日々、可能なかぎり本音で生きていこう。
(3/17)

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素朴経験主義の陥穽


 戦争や戦場を体験したことのない人の反戦は頭でっかちである。これは自ら報道記者として戦場体験のある人が述べた言葉である。いやもしかすると自らではなく戦場で命を亡くした友人を持っているだけだったのか。実は一読するや腹が立って破り捨てた
(消去のキーをクリックした?) ので、実際はどっちだったか、今となっては確かめようがない。著者その人は別段好戦的な人でもないし、右翼でもない、それどころか、穏健な平和主義者だと思う。つまりそう書いたのは報道記者としての過去の経歴をちょっと自慢したくて筆を滑らせたのだろうと思う。「爺ちゃんの若い頃はなー」のたぐいである。だからいちいちつっかかる必要はないのだが…。
 実体験を潜り抜けた人の言葉はたしかに重い。経験もなしに単に観念的に発言する人のそれよりも傾聴に値する、と一応一般論としては言えるだろう。しかし経験が無いから、その人の発言に重みがないか、といえば必ずしもそうとは限らない。たとえばボールを打つとか、物を売るとかだったら、確かに経験の有無は決定的である。しかし戦争とか平和とか、あるいは愛とか信頼といったもの、つまりはそれ自体、誤解を恐れずに言うなら、観念的なものについては、素朴経験主義は時に間違うのである。なに戦争が観念的だと、と即座の反論が返ってきそうだが、はっきり言って個々の戦闘と違い「戦争」は「平和」ともども、いやもっと言えば「愛」や「信頼」と同じく、すこぶる観念的なものなのだ。つまり「戦争」を経験しようとして前線に赴こうとも、そこで体験するのは耳をつんざく砲声、至近距離で肉片と化して散乱する味方の死体、失禁してもそれさえ気付かないほどの恐怖感であって「戦争」ではない。そしてそこにいるのは刻々の危険に自動的に激しく反応する筋肉の束であり、人間性をゼロまで縮小させられた「人間らしきもの」に過ぎない。だからこそ「戦争」は悪である、と認識するのは、まさしく観念の働きなのだ。
 むかし「君、愛なんて理屈じゃないぜ。いろいろな体験を経なけりゃ分からんものよ」と言った御仁がいた。「色町通いで性病うつされたけど、君これは男の勲章だぜ」と言った時には、あっこいつは完全な馬鹿だ、教師になったのが間違いだ、と思ったが、馬鹿相手に喧嘩する気にもなれない。私もいい歳になってきたが、素朴経験論で若い人に説教するじじいにだけはなるまい、と肝に銘じている。
(3/15)

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もううんざり


 時事ネタは黄ばむのも早いから、あまり話題にしたくはないのだが、今はそうも言っておられない。今朝の新聞で、アメリカ外交問題評議会中東研究部長の肩書きを持つレイチェル・ブロンソンのコメントをつい読んでしまった。イラク攻撃容認派らしいが、とたんに気分が悪くなった。彼女もそうだが、小泉首相を初め日本の政治家やコメンテーターの言い草に、市民たちによる反戦のうねりはこれまで自分たちが適切な説明をしてこなかったせいである、というのがある。一見謙虚なようでいて実はとんでもなく思い上がった考え方である。これは裏を返せば、民衆の動向などというものは、多くの情報や裏事情を知っている自分たち政治家のさじ加減でどうとでもなる、というたちの悪い傲慢さが潜んでいる。

 違うんだな、君たちのいささか高揚した気分とわれわれのうんざりした気分とは。この「うんざりした」という言葉は、実はスペイン語の escatológico という言葉のうまい訳語はないかなと考えていて思いついた言葉なのだが、要するに「とどの詰まり」「ぎりぎりのところ」ほどの意味で、学問的 (?) に気取って言えば「終末論的な」という意味である。
 政治の世界は小賢しい事情通が幅を利かせるところである。しかしその事情なるもの、下らぬ駆け引きの具ではあっても、大所高所から見て肝要なるものとはほど遠い。またそれを報じるマスコミ関係者と政治家のじゃれ合いは不快の一語に尽きる。プロ野球の番記者たちがグラウンドを去る監督のコメントを取りたくて金魚の糞みたいにまとわりつくのとさして変わらない。つまりまずい試合だったか良い試合だったかは、解説やコメントなどなくても誰の目にも明らかだからである。
 アメリカがこう動けば、他国はどう出る、その場合わが国はどう動けば「国益」を守れるか、などという視点から市民たちが動いているのではない。それこそ切羽詰って、もううんざりという気持ちでデモに参加しているのだ。
 いま世界を覆いつつある反戦のうねりは、はっきり言って従来のそれとは質を異にしていると思う。つまり理屈やイデオロギーじゃなくて、気分なのだ。しかし気分だといって侮ってもらっては困る。「生きる」に当たって理屈なんてよりはるかに大事なものであり、本当は歴史を大きく動かしてきたものなのである。要するに、もう人殺しには「うんざりしている」のだ。
(3/13)

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絶交


 最初は、朋あり遠方より来たる、また楽しからず哉、という心境だった。どこから狂い始めたのだろう。昔から癖のある人であった (それはお互いさまである)。それを承知で付き合ってきた。思い返すとこれまでだって、決定的な仲違いになりそうな局面を危うく回避したことが何回かあったような気がする。その都度それが避けられたのは、互いがまだ若く、柔軟だったからであろう。だから双方の歳を考えに入れなかったことが、取り戻しようのない決裂を招いたのかも知れない。いや、歳のせいだけではなかろう。どうしてか分からないが、すべてが悪い方悪い方へと傾き出し、そして魔の一瞬が訪れた。避けようがなかった。「俺はもう帰る」、彼がそう口にしたとき、破局は一気に訪れた。その時、修復は不可能、と観念した。
 それでも一応は引き止めた。未練たらしく、こちらに非があるなら謝るから、と通りまで追いかけていって引き止めようとした。もちろん「こちらに非があるなら」という限定つきの謝罪で事態が逆回転するはずもなかった。彼も私もそのことはよく分かった。夜道を帰っていく彼の後姿を一瞬見送ったあと、後ろを振り返らずに家に戻った。無性に腹立たしかった。
 その日、再会の瞬間から破局の予兆がいくつもあったのかも知れない。いつもよりやけに愚痴話が多かった。おいおい、そんなこと言ってたら、そのうち刃傷沙汰になって週刊誌ネタになっちゃうぞ、と茶化したほどである。だからあの決定的な瞬間を招来するには、話題はなんでもよかったのかも知れない。しばらく会わないうち、揶揄や冷やかしの言葉が、剥き出しのまま相手に届く感じで、かつてのようにそこに緩衝材のような暗黙の間合いの入る余地など無かった。
 だが、これもまた人間関係の一つ。ともあれ日頃から肝に銘じているのは、断絶によって相手が不幸になるのであれば、どうにかして関係修復に努めるべきだが、そうでないなら、きれいさっぱりそれぞれの道を歩むしかない、ということである。複雑な人間関係の中で当然あっておかしくはない絶交というものが、コミュニケ―ション手段の変遷・変化のせいか、次第に少なくなっているような気がする。けっしていいことではない。しかし、互いに譲れぬものがあって当然。いい加減な妥協や同情より絶交の方がいい場合がある。
 ともあれ今は相手も同じ考えであることを念じるのみである。 (1/5)

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かくして移住一年目は…

いささかの誇張もなしに言うのだが、今年はいつの間にか大晦日になっていた。生活が充実していたからか、それともボケてきたからか。願わくは前者であらんことを。
 昨夜遅く東京から帰省した息子を連れて、今年最後の大熊詣で。しかしあれほど孫の訪問を心待ちにしていた義母が、今朝から少し熱があり、体調があまり良くないとのこと。孫の顔を見て分かったのか頷いたきり、午後の昼寝に入ってしまった。今はただ水分を取って眠ることが大切とのスタッフの親切な言葉に、目覚めたらよろしく伝えてほしいとお願いして、ふだんより早めに施設を後にした。
 初めて施設を見た息子によると (現在医学専門の出版社で働きながら夜間、出身大学付属の社会福祉専門学校で介護士の勉強をしている)、こんなに環境のいい、そしてスタッフが感じのいい老人施設はないとのこと。そう言われて改めて見てみるとなるほど、全ての棟が平屋で、それぞれの個室は広々とした庭に面していて、その先も遮るものがない。ここの理事長が南仏の避暑地をイメージして作ったらしいが、さもありなん、海岸が近くさぞかしオゾンも豊富。ところがであるーっ、何キロか先に福島第一原発があるのだーっ。願わくは、少なくとも義母健在なりしあいだは、げに恐ろしき事故の無からんことを!いや、そうじゃない、一日も早く覚悟をきめての永久稼動停止が実現せんことを!
 しかしよくよく考えてみれば、不吉な原発の存在以外にも、このみちのくの小さく平和な町では想像もできないほどの悲惨な状況が世界中いたるところに現出しているわけだ。今もいま、この地球上のどこかで、確実に戦火に怯えている人たちが何万、何十万、いや何百万人といるわけだ。
それを考えると、こうして安穏な生活のできること自体申し訳ない気がしてくる。いや、気がしてくるだけじゃない、事実申し訳ないことなのだ。
 今年最後だから、今まで何度も別のところで紹介してきた一人の哲学者と一人の詩人の言葉を引用して締めくくりたい。


「私は、私と私の環境である。もしこの環境を救わないなら、私をも救えない」…オルテガ『ドン・キホーテをめぐる思索』より。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」…宮澤賢治『農民芸術概論綱要』より。                    

(12/31)

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あまりにも突然の死


 二人はいつも、暑い夏も木枯らしが吹く寒い冬も、 JR八王子駅北口の本屋さん二階の文庫コーナーで六時半に待ち合わせた。いつからかそこには彼が訳した『ドン・キホーテ』が並んでいたから、彼が少し遅れても、なぜか安心だった。「やぁっ」、とどちらからともなく声を出し、近くの飲み屋に行った。時に牛タンの店であったり、時に騒がしいチェーン店であったりした。話題はスペイン文学や、ときには日本の現代文学にまで広がった。二人とも最後までクソ真面目な酔客であった。
 日録を見たが最後に会ったのがいつだったか記録にない。ともかく二人とも四月からの去就を決めていて、当分会えないね、お別れ会兼激励会のつもりで飲もうということだったから、昨年暮れか今年に入ってすぐのはずだ。彼は長年勤めた国立大学を定年まで一年を残して南島の大学に移り、そして私は定年前に教師生活そのものを辞めて田舎に帰ることにしていた。
 私は、彼とあまり仲のよくない彼の同僚とも付き合いがあり、また彼といつからかギクシャクした関係になってしまった若い教師とも付き合っていた。もちろん彼はそのことを承知しており、時に苦しい胸のうちを私に向かってこぼすこともあった。しかたがない、人間、たとえ互いに善意であっても、どうしようもない悲しいすれ違いがあるものだ。ただいつか行き違いや誤解が解けて、皆で美味しい酒が飲みたいな、と思っていた。皆、不器用なまでに善意の人だからだ。
 私が静岡から八王子の短大に移ったとき、彼は私のためにスペイン思想の講座を用意してくれ、その後も機会あるごとに声をかけてくれた。いつか一緒に仕事をしよう、たとえば「九十八年の世代」の作品集を編むとか、二人ともオクタビオ・パスの最重要作品と認めていた『尼僧フアナもしくは信仰の罠』を一緒に訳そうなどと話し合ったこともある。今となっては1996年の野間文藝翻訳賞の日本側審査員としてご一緒しただけになってしまった。「三月に入ってちょっとひどい病気をしまして、それを押して沖縄、学内残務…体がおかしいままですが明後日出発します」、このはがきに何の悪い予兆も感じず、五月下旬にやっと返事を出したことが悔やまれる。彼はここ数年、他人の何十年分にもあたるいい仕事をした。仕事は残ったが、彼ともう飲めないのは寂しくてたまらない。彼、牛島信明、十三日、横行結腸がんで死去、享年六十二歳。 
(12/17)

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…主義


 気がついたら師走に入っている。第二の人生 (と言うほどのものでもないが) の初年度が終わりかけている。いくつかまだ遣り残していることがあるが、もともとノルマを自らに課さないことにしているので、アワテナイ、アセラナイ。
 昨日の問題に関して若干のことを付け加えたい。愛国心のその「国」が何であるかが重要であるが、もう一つある。すなわち愛国心はそれが自然発生のもの、排他的でないもの、自らの環境をさらに大切にする心を育てるものなら、あった方が無いよりずっといい。いま「持たないより持ったほうがいい」と言おうとして辛うじて踏みとどまった。なぜなら愛国心は持つものではなく、私たちの方がその中に「ある」ものだからである。言葉を換えれば、愛国主義は御免だということである。
 たとえば伝統というものがある。これは、何らかの価値を持ち、大切にされる要素を持っているものが自然と形を成し、そしてそれが伝えられるときに生まれる。人類が他の動物に比してこの地球上で大きな顔ができるのも、この伝統を他人や子孫に伝える能力を持っているためである。このことはラテン語を見れば実によく分かる。つまり伝統 (traditio) とは引き渡す (tradere) ことなのだ。他の動物も、たとえば食物を川で洗うという習慣を仔に伝えるなどのことができるが、人間は単に所作だけでなく、それを様々な仕掛けを通じて正確に、時には創始者の予想をはるかに越える意味と精神性を加味しつつ子孫に伝えることが出来る。
 伝統は、伝えられた者が、それを再び生きるときに初めて「生き返る」が、伝えられた者が伝えられたものを「生きる」のではなく、たんに「繰り返す」とき、伝統は内部から崩壊する。各種家元がときに醜い跡目争いで腐臭を漂わせるのはそのためである。あるいは各地の史跡保存委員会なるものがもっとも伝統から遠ざかっていることがあるのもそのためである。
 愛国者ではありたいが、愛国主義者にはなりたくない。といって、その場合の国は、政治的あるいは経済的 (現代両者は分かちがたく結ばれている) な存在ではなく、文化的な共同体であり風土であってほしい。外国人という他者との共存でその独自性が脅かされるような国あるいは文化など、もともと伝承に値しないものと思って間違いない。あるいは神話や作られた美談で鎧わなければならぬ国など、祖国の名に値しないということである。
(12/3)

 

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ある偏倚

昨日の夕方、バッパさんの見舞いに千葉県から姉夫婦が車で来た。姉とは一昨年の夏、義父の葬式の折に会ったが、義兄とは十年ぶりである。最近覚えたばかりのパエーリャをご馳走しようとしたが、お米の扱いに失敗。焦げ臭いパエーリャと相成った。それはともかく、この義兄は実は私の高校生時代の英語の先生である。もともと口数の少ない人で、今まで数えるくらいしか話を交わしたことがない。昨夜は久しぶりの再会、それに美味しい酒が後押しして、大いに話が弾んだ。身内ゆえに私のことをいろいろ心配していたらしい。ところが私の節目節目の行動を、思っても見ない角度から見ていたことを知って仰天した。姉とも私のことはあまり話題にしたことがないらしく (当たり前でしょう)、姉自身もびっくりするような推測をしていたことが判明。
 しかしよくよく考えてみれば、彼の見方はごくごく自然なものだということが分かる。つまり人間行動の確率からすれば、彼の解釈の方が当然だということである。たとえば大学四年のときに突然修道会入りを表明したり、五年後にこれまた唐突に還俗したり、東京の私大の教師になってまもなく、国立大教師への道が開かれたが、それを土壇場で反故にし、ついで急転直下、地方の小さな私大に移り、最後は東京西郊のさらに小さな女子短大に転進。とどのつまりは、定年前に職を辞して田舎に帰ってきたのだから。義兄から見れば、野望が次々と崩れ、行く先々で問題を起こして自暴自棄に陥ったのでは、と考えたらしい。無理もない。
 ただ自分としてはその都度、最良の決断をしてきたとの自負があり、その決断を後悔したことは一度もない。というより、後悔するような決定方法をとらなかったといった方が正確であろう。つまりプラスとマイナスを天秤にかけての決断ではなかったということである。もちろん逡巡がなかったわけではない。しかし大抵は二つあるいはいくつかの選択肢を前にほとんど思考停止・判断放棄の状態が続き、そのうちふとした瞬間に、ちょうど秤の針が一方に傾ぐ具合に、唐突に決断の瞬間が訪れる、ということを繰返してきた。だから後悔のしようがない。なぜならその決定に己の意思はほとんど関与していなかったからである。
 しかしそうした決断の根底に、大よりも小を、晴れがましさより惨めったらしさを好む奇妙なバイアスが、島尾敏雄風に言うと偏倚があるのかも知れない。 
(8/10)

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投機と愛

「どうしたい、浮かない顔して」
「浮かない顔? 浮かないんじゃなくて本当は怒り狂ってるんだよ」
「体に悪いよ、怒ってばかりじゃ。君と僕の関係なんだから、何でも言ってごらんよ」
「それじゃ聞くけど、君、この世界は究極的にはどんな原理で動いていると思う?」
「なんだい、いきなり難しいこと聞くなあ。そうだなあ、そんなこと考えてみたこと無いけど、敢えて言うなら、物理的には万有引力の法則、エネルギー保存の法則、経済的には市場経済の原理 (そんな原理ある?)、うーん、悪貨は良貨を駆逐するの原理……? 」
「分かんないんだったら無理すんなよ。といって僕が知ってるわけじゃないから、浮かない顔してるんだけどね。でも最終的にはこれか、という原理にたどりついた」
「なんだい、それは?」
「投機の原理、つまり英語で言えば speculation、スペイン語では especulación の原理」
「そんな原理ないよ。それにどうしてそこで英語やスペイン語が出てくるんだい?」
「別に知ったかぶりしてるんじゃないよ。でもね日本語で投機って言葉の意味君分かる?」
「機会に乗ずること。偶然の幸運や金儲けをねらう行為。市場の変動による差金を得るために行う取引」
「辞書を見たな。いや怪しいことは必ず辞書を引いてみるに越したことは無い。それはともかく、英々辞典が今手許にないので西西辞典で見てみると、黙考する、内省するという語意のあと、何かを用いて利益や儲けを得ようとすること、と出ている」
「それでなぜそれが世界を究極的に動かしているんだい?」
「現に動かしているじゃない。経済的なことに関しては君も知っての通り僕はまったくのド素人だけど、為替や株の動きはまさに投機によって変動してる。ということは政治が世界が投機によって動いてる、っていうことだろ?」
「だからそれがどうしたんだい?」
「それってものすごーく不真面目なことじゃない?世界は誠実とか愛とか友情、あるいはせめて節約とか節制の原理で動いてくれなくっちゃ」
「………」(今回はここで時間切れよりもっと深刻な理由から中断させていただきます)

(7/29)

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どうってこたあねえ


 先日、方言というより家庭内隠語とも言うべき「あんにゃげーだ」を紹介した。それで思い出したのだが、もう一つ我が家で昔はやった言葉がある。先の言葉がおそらくは○町○集落から自然と伝わってきたのとは違って、自信はないが今度のはもしかすると中学生の私自身が発信源ではなかったか、と思われる言葉である。「無理すんなー。無理して死んだ人あっからなー」。爾来、どのようなときにも無理はしないことを基本方針
(?) として生きてきた。だから鈴木宗男みたいにいつも無理ばかりしている人を見ると、本能的に嫌悪感がこみ上げてきて、「ばっかじゃなかろか」とつぶやく。あの初選挙の時の宗男ちゃん、明らかにムリしているよね。
 ムリはしないけれど、生きている以上時にはままならぬ事態に巻き込まれる。そんなとき、呪文のように唱えてきた別の言葉もある。韓国の革命詩人キム・ジハ (金芝河) が三島由紀夫自刃に抗議して書いた「アジュッカリ神風」という詩の冒頭の言葉と同じである。彼のいい読者ではないが、この言葉を見つけたとき、彼の詩の核心に触れたような気になった。すなわち「どうってこたあねえ」。
 別に特に「醒めている」というわけではない。ときに人が「ひたむきに」生きることは美しいとさえ思う。でも世の中、実はどうでもいいことに本気になりすぎだ。実業の世界なら、たとえば保険の勧誘員なら、自分の努力の成果が棒グラフなどに、まことえげつない形で出てしまう。それに比べれば、虚業といったら少し言い過ぎだが、時に実体を伴わぬ言葉が一人歩きしてしまう教育界では、どうでもいいことに本気になりすぎることがままある。ままある?いやー、しょっちゅうでしょう。たとえばある大学のある日の教授会で、成績表記はアルファベットにすべきか点数にすべきかで、延々何時間も白熱した (?) 議論が続いたそうな。点数表記派の教授がその理由をのたもうた。「だってせっかく苦労して出した点数じゃないですか」
 成績をつけたりそれを保管することがどうでもいいことだ、などと言うつもりはない。言いたいのは、教育というのは、たとえば学ぶ者が教える者の言葉や態度に触発されて何か新しい真実に目を開くとき(その逆もまた可なり)、その両者の間にはじめて成立する価値の世界であり、それ以上でもそれ以下でもないということである。(7/17)

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無事でおります

昨年のクリスマスイブ以来の投稿は、遅すぎる新年のご挨拶となり、父のモノディアロゴスを愛読してくださる方々にはひたすら失礼をお詫び申し上げます。母のことで日々いっぱいいっぱいであったのと(プラス、今日、目の上のたん瘤であった出来事を感染予防に努めながらようやく消化しました)、一番は、いよいよ厳しい状況になってきたいわゆるコロナ禍へのこの国、その民の対処、向き合い方に、つまり官民一体の愚劣、不義、はっきり言うと狂いぶりに、近代日本(人)、あるいは戦後民主主義なるものの虚妄を決定的に見せつけられたようで、気が滅入ってほとんど何も手つかずにおりました。決してアベやスガ、もしくは西村、もしくは「専門家の皆さん」と呼ばれる無能集団、人でなし(彼らは身を挺しての警告を怠りました)だけの(無)責任ではありません。むしろ主犯はこうした前者を押しいただく、能天気でタガの外れた、そして自己中心的な民にあるでしょう。ともかく、コロナに打ち勝つだののかけ声は盛んですが、この人類規模の災厄・危機を人々は真剣に憂い、対処したことがあったでしょうか。常に中途半端で半ばふださけた態度ではありませんでしたか。未知の感染症に対し、あまりにも認識が甘い。世界中で日々出されるおびただしい犠牲者を悼む空気も皆無(奇怪なことに、コロナ問題は常に邪魔者として正面から扱われることはありませんでした)。無知(無恥)と偏見と差別にまみれ、自らの生活を改めようともしない民の姿に、人間社会に対する悲しい結論を思わずにはいられませんでした。有史以来、人間の救済のため紡がれてきたあらゆる文学・思想、あるいは宗教をすべて踏みにじるかのようなこの一年の日本人(米国をはじめとする西側諸国の在り様にも失望した)の来し方だったのではないかと残念に思っています。父が生きていたら、果たしてどんな思いで言葉にしたでしょうか。
 語弊を恐れずに言うと、さながら “日本コロナ”(「武漢肺炎」だの「中国ウイルス」などと揶揄する動きを許せない。翻って、自国のあり様が “日本コロナ” でなくて何だろう)によって今や自ら墓穴を掘る様相ですね。ワクチンの確保も残念ながら遅れるでしょう。この国(民)ならではの愚かさで、この一年のあり様を見てもわかるように、ゆっくりじっくりと破滅に向かうでしょう。
 求められているのは今、はらわたが千切れるほどの自らの社会に対する痛悔でなくして何でしょう。

今日あったある出来事(催し)も、私は挙行に反対で、今週に入り、主催者や町の教育委員会など各々の関係部署に抗議したものの延期・中止の考えはないとのこと(教育委員会は何をお高くとまってるんだか直接の回答はないまま。まぁ教育委員会らしいといえばそれまでだが)。うちだけ辞退するわけにはいかないので最終的には受け入れたが。このような世界情勢を鑑みることなく挙行する文化的意義など欺瞞に過ぎないと思っている。今やる文化的イベントは、この世界的災厄への配慮があって初めてやることに意義が生じると思う。この一年の福島は何ですか。コロナ問題をそっちのけで古関裕而の神格化とオリンピック礼賛、復興記念に明け暮れたようにしか思えません。それと馬鹿の一つ覚えのように県知事を筆頭に猫も杓子も「アンゼン・アンシン」の連呼(裏を返すと、それがないことを白状しているようなものだが)。まぁ、この町の人間なぞうちの父には関心がないから(生前も没後も)、書いても目に入ることはないが。
 ともかく、今の世界情勢において、日本を含む西側諸国は、民主主義の美名のもと、その本質的欺瞞、少なくともその担い手の体たらくが、感染爆発、膨大な死者、エゴイズムの裏返しでしかない低劣なデモ、暴動という悲惨な形で露呈したのではないかと感じています。

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