病室から(その三十九)突然の退院

九月八日(火)晴れ

 さて一時は病室生活がこのまま永遠に続くのではないかと思われたときもあったが、なんと今私は、これを自分の部屋の、自分の机の上の、使い慣れた自分のキーボードを叩いて書いている。日中だったら、これまでだって時々自宅のパソコンに向かうことがあったが、今は夜九時ちょっと前である。いやいや病院を抜け出してきたわけではない。今日の午後四時にめでたく退院したのだ。
 今朝、昨日来考えてきたことをさっそく実行に移した。つまり朝食後ナースステーションにI医師を訪ねたのだ。しかし今日は午前中は外来検診、午後は手術に入り三階には来られないでしょう、という答え。実はこれは想定内のことであった。つまりこの病院での、患者の退院を決定する手順は知らないが、しかし常識的に考えて、治療面と入院生活両面を把握し、退院決定に関してその意見が重きをなすのが婦長であるのは明らか。それで彼女の気持ちが退院許可へと傾けば十中八九決まったも同然と踏んで婦長との面談を求めたのである。
 連絡を受けて婦長さんが病室に来た。そこでこう切り出した。おかげさまで手術も成功し、術後の経過もすべてにわたって順調です、そして歩行や階段の昇り降りなど、生活に必要な機能面での快復も或る程度のところまで来ました。となるといま心配なのは病室での生活によって認知症の進行が進むことで、だとすればできる限り早めの退院が望ましいのでは、とこちらの見解を披瀝したのだ。それに対して婦長は、全く異存がないので、さっそく医師たちと相談してみます、となった。
 そして午前の帰宅から病室に戻ったとたん、手術の執刀医S医師と婦長さんが病室に見えられ、先刻のご希望に対して医師側としても何の異存もないこと、そして退院は私の方の都合でいつでもいい、となった。それでは明日、いや今日の午後ではどうでしょう、もちろん結構です、それに向けて調整します。
 てなわけで。急転直下、本日退院という運びになりました。荷物といっても大きいものは例の組み立て式ベッド、それとても先だって自慢したとおり、ゴルフバッグの半分のがさで、重さは推定四分の一(って言いましたっけ?)、車と病室の間を三回ほど往復したら完了。あとは四十日ぶりに娑婆の服と靴を履いた美子の手を引いて、ナースステーションにご挨拶。そしてリハビリに親切に対応してくれたEさんと、名前は知らない若い看護師に挨拶(つまり彼らには全くの寝耳に水の話だったはずなので)してから帰宅した。
 こうなってみると四十四日間お世話になった病院の皆さんとの別れが辛い。いや本当にちょっぴり悲しかったです。いろいろありました。でも今日、退院が決まってから急遽レントゲンを撮りに行った時、そこの若い技師さんに言われたことが耳に残っています。病人の快復は、病人本人の快復への意欲と、例えばご主人様のように肉親の力強いサポートが決めてですよ。それと同じことは、I医師が御自分の家族のことを話されたときにも言われた。いやいやそれはこの私めが偉いなんてことを暗に自慢してるんじゃございません。生活や忙しさその他のもっともな理由から、家族からもある意味で見放された病人がいるということでしょう。もちろん一方で、絶望的な状態からようやく快復に向かいつつある老婆のために、遠方から日参している若い家族もいました。
 不思議なことに退院が決まってから美子は排便の方は全く失敗無し。そしていま、洗いざらしのパジャマを着せられて隣の部屋のベッドで安心しきって寝ています。毎晩飲んできた睡眠剤を一応はもらってきましたが、どうも今晩からは必要がなさそうです。彼女なりに緊張を強いられ心落着かない四十四日だったのでしょう。猫のココアも帰宅してからずっと私たちの身辺に擦り寄り、すぐ膝の上に乗ってきましたが、今は入り口近くの黄色いマットを自分の新しい寝床と決めたのか、安心したように眠っています。
 そんなわけで、長いあいだ書き続けてきたこの「病室から」も今晩を持って幕を引きます。淋しいです。明日から何を頼りに生きていけばいいのでしょう。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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病室から(その三十九)突然の退院 への1件のコメント

  1. ミチル のコメント:

    先生、御退院おめでとうございました。毎日拝見し、重たい内容を
    先生はいともおかしく書かれてもいらっしゃいましたが、
    わたしたちも遅かれ早かれという思いで受け止めさせていただいておりました。
    先生もお疲れがでませんよう、また奥さまも一日も早く
    元の生活に戻れますようお祈りしております。

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