あるこだわり

テレビなどでだれかの家の書棚などが映されると、つい気になって見ることがある。つまりどんな本があるかより、まずどういう扱いを受けているかに目が行くのである。買ったままの状態、すなわち帯をつけケースに入ったままの状態であるか、それとも……
 私が持っている本のうち、かなりのものは原形をとどめていない。まず帯はすべて解かれ、箱は解体され、カバーは捨てられるか、あるいはカバーの中の(あるいは下の?)本体の表紙に書名とかイラストがない殺風景なものであるなら、カバーの字や絵を適当な大きさに切って張り付けたりする。
 要するに最終的に残った本体が、その本のもっとも見映えのいいものになっていればいいのである。そんなことを言えば、装丁を仕事にしている人に叱られるかも知れないが、本体は粗末なのに、外装がやたら豪華なのは困る。外国の本の事情に詳しいわけではないが、しかし日本は少し異常ではないかと思っている。たいていの本は、カバーをかけ、それを箱に入れ、それに帯を締めている。いや汚れがつかないためにか、さらに透明のビニールをかぶせている。古本の場合、その帯があるかないかで価格がだいぶ違ってくる。
 だから買ったままの姿で書棚に本が並べられているのを見ると、この持ち主はいずれ古本屋に払い下げるつもりかな、と邪推さえしてしまう。
 まっ、そんなことは他人様の勝手で、とやかく言うつもりはない。ただ私としては、運命によってか自分のところに来てくれた本は、できれば自分の死後も朽ちるまで我が家に留まってほしいと願っているだからできるだけ見映えのいい形にしておきたい。もう何回も書いてきたと思うが、古くなった革製品を解体してできた皮や、もう着ることもない古着から作った布きれで、背革布装の豪華本に生まれ変わらせたり、何巻かに分かれているものを合本にしたりする。
 いい機会だから、いいこと教えます。私たち老夫婦がいま住んでいる旧棟は、建付けが悪いせいか、風の強い春先など、本棚の中の本の天(つまり上の部分です)に土砂(つまり埃なんてものじゃない)が積もっていたり、暑い夏の終わりには、栞の入ったページの隙間から虫が入っていたりする。ケースなどを取り去るのは、虫の寝床を作らないというはっきりした目的があるからである。で、いいこと、というのは、下手にカード状の栞など挟んでおくと、埃(時に土砂)や虫が入り込むので、その代りに、百円ショップなどで売っている五色の刺繍用の糸を適当な長さに切って、本の背の花布(はなぎれ)の裏側に糊で固定することである。一本でも三本でも必要なだけ貼り付けておけばいい。
 でもこんなに愛着を持って遇している本も、私の死後、だれも世話しなかったり、古本屋に二束三文で売り払われたり、最悪の場合、町のクリーンセンター(つまりゴミ処理場)に持ち込まれたり…いやそこまで行かなくても、どだい紙そのものの耐用年数が四、五十年しかないとしたら(恐いので詳しく調べたことがないが)、こんなこだわり何の意味もないか。でもやっぱりこだわりますぞ。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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