絶望の中の希望

 相変わらず忙しない毎日が続いた。例のスペイン語版だが、マドリード大学教授・フロレンティーノ・ロダオさんの素晴らしい長文の序文、そして気鋭の装丁家エバ・バスケスさんによる表紙絵も完成し、あとは出版(五月?)を待つばかりとなった。先の中国語版や朝鮮語版とはまた違った感慨を覚えている。
 ところで先日、南相馬市立中央図書館・鄭周河写真展の際に行われたギャラリートーク(徐京植司会・鄭周河・佐々木孝)の速記録がNHKディレクター鎌倉英也さんから届いた。西内さんが頼み込んで出来上がった記録だ。わが友人ながら、それは番組作成で多忙を極める鎌倉さんに対してちと強引過ぎたのでは、と思い、そのむね西内さんにも当の鎌倉さんにも伝えたが、でもそこがわが畏友の持ち味、結果、果敢なく空中に消えたかも知れぬ言葉の数々が文字となって残った。徐さんや鄭さん、会場にいらした参加者の貴重な発言など、すべて紹介したいのだが、今回はとりあえず私の発言を何回かに分けて紹介させていただく。
 実は速記録の原型では、私の発言は意味のない繰り返しとか感嘆詞(感動詞)が多数あり、我ながら話術の下手さ加減が露出していて恥ずかしいので、内容を変えない程度に少し整理した。

鄭さんの写真集をはじめて見たとき、とても小さな版でしたけれど、何枚か見ていくうちに、まず最初に思ったのは、それとは対照的な、原発事故のあとの沢山の報道写真のことでした。それらは、あるいはテレビの画面であれ、悲惨な現場映像ばかりでした。つまり白装束の防護服を着た人たちの映像などですが、それらをもう嫌なほど見せつけられたわけですよ、私たちは。で、時にはね、日本人はマゾヒスティックな人種ではないかなと思えるくらいそうした映像満載の写真集まで売れるわけです。
 先ほどのその鄭さんの写真集に戻りますけれども、それを見たときに、そういうものがほとんどないんですね。見慣れた南相馬の田園、まぁ山とか海とか、きれいな自然の写真を見ました。もちろん、そこには人影がないんですよ。それは悲しい事故の後っていうのが画面を見てゆくとわかってゆくことなんですね。けれども私は、そこに非常な感銘を受けたんです。つまり写真家の鄭さんの「優しさ」っていうのかな、それを感じたんです。
 そうですねぇ、原発の事故を通じて私たちはいろんな思いを持ちましたが、鄭さんの写真を見て、まぁこれは私だけかもしれませんが、希望を見たんですよ。それは、自然というものが、愚かな人間の所業にもかかわらず、毎年、花を咲かせる。さっきも、柿の実の写真がありました。まぁ立ち腐れにはなりますけどもね、それはあの原発事故前だってほとんど立ち腐れだったんですけれど、要するに、自然というものを私たちが粗末にして来たにもかかわらず、だけども自然はそれにめげずにっていうか、人間のその忘恩にもかかわらずと言えばいいのか、毎年、花を咲かせ、芽を出してくれる。それは、私にとって、まさに「希望」と言いたいのです。
 原発の後に、やたら絶望的な言辞、言葉、映像が流れました。でもそこに希望を見ると言い切ってしまっては、今でも苦しんでいる人たちには悪いんですけどね。被災地のなかのかなりのパーセンテージの人ちは、いまだに避難生活しているわけですから。戻れない人もいるわけです。悲惨な事実は確かにあるんです。けれども、ただ何て言いましょうかね、そういうものの中にね、やっぱり希望を持ち続けていくことがどれだけ大事なことか、ということを、鄭さんの写真を見たときに感じたんです。
 そうですねぇ、まぁ先ほども言いましたように、私たちは絶望という言葉をあまりにも軽く使っているのかも知れない。つまり本当の希望が見えてくるのは、本当の絶望の中ではじめて見えてくるんですね。これはあのベートーベンの第九を例に出すまでもないことでしょうけど。ただ私がいまちょっと思いついたのは、あの魯迅の言葉です。例の絶望と希望というものの不思議な、なんて言うか、まぁ関係って言いましょうか。御存知と思いますけど、魯迅は不思議なことを言っているんです。「絶望の虚妄なるは・・・」つまり、絶望というものが嘘偽りであるのは、「希望と同じ」、希望が嘘偽りであるのと同じだって言っているんですね。これ、非常に不思議な言葉なんですよ。
 で、私が、その魯迅の言葉について思うのは、絶望の中にこそ本当の希望が見えるはずだ、と。私たちは確かにこの被災地という考えてみれば非常に苦しいところに住んでいて、私はそれを「奈落の底」というちょっと大げさな言葉で表現したんですけれどね、そこで見えてくるものっていうものは、あとはもう光しかないんですよ。これは、どういう天の配剤わかりませんけれども、私たちは希望なしには生きられない存在なんです。
 つまり、初めは多分、印象としては人影がない悲惨な状況として映ったのかもしれない。だけど、私は思うには、それならなぜ創作者は、あるいは作家と言ってもいいんですが、なぜシャッターを切るか、あるいは先ほどの齋藤先生の詩もそうですけど、なぜ詩を書くのか、ということです。それは希望があるからですよ。もしも絶望しかなかったなら、書くことさえ、シャッターを切ることさえないはずです。つまり、その絶望の中で、あるいは暗闇の中で、曙光を見る、光を見るからこそ人間は生きてゆく。
 鄭さんの写真集を見て、さきほども言ったことですが、私が「希望を見た」って言ったのはそういう意味なんです。で、私はこれを是非、被災地の人たちに見てもらいたかった。ですから徐さんからその話があったとき、ほかのところでは写真展の可能性あるけど、南相馬はどうかっていう打診を受けたとき、私は、「ぜひそれを、南相馬を最初の出発点にしてその写真展をやってください」と、まぁ無理にお願いしたような次第です。
 私は、それは非常に意味のあることだと思ったのです。2周年というものが明日やってきます。いろんな行事があると思います。けれども、私は、鄭さんの写真展を見ながらその2周年を迎えたっていうことがものすごく意味があると思ってます。その意味についてはまた、別のアングルから後からお話しできると思いますけれども、まぁ、とりあえず、私は、鄭さんの写真を見て、そう感じました。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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絶望の中の希望 への1件のコメント

  1. アバター画像 阿部修義 のコメント:

     先生が敢えて本の表題を『原発禍を生きる』にされた意味を考えることがあります。「絶望の中で、あるいは暗闇の中で、曙光を見る、光を見るからこそ人間は生きていく」という言葉から、先生が「生きる」を選ばれた理由(わけ)を感じます。

     スペイン語版『原発禍を生きる』の作者を「一山越えてまた一山」の中で富士貞房に出来ればしたいと先生が拘れていましたが、『飛翔と沈潜 ウナムーノ論集成』の中で先生はこう言われてます。

     「ウナムーノをもっとも良く理解するには、彼が『ドン・キホーテ』に対して企てたように、自分独自の「ウナムーノ」を創造しつつ、それを生きることであろう」。

     先生は富士貞房を創造されて、敢えて原発禍を「生きる」から富士貞房に拘られたのかも知れません。そして「絶望の中の希望」は『原発禍を生きる』ということのように私は感じました。それは「生きる」から「希望」が生まれて来るからなんでしょう。

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