イ・サンファ(李相和)の詩

昨日に続き、ギャラリートークでの佐々木の二度目の発言を紹介する。


 はい。最初にイ・サンファの詩を読んだときも、鄭さんの写真集見たときと同じだったんです。つまりこの詩は、あの日帝時代の、非常に苦しい時代の朝鮮の人たちの心情をうたって、そして最後に「奪われた野に春は再び来るか」っていう問いかけをしているわけで、見方によっては非常に悲観的な詩です。だけど、あの詩全体を読んだときに、畦道を歩きながらの、詩人の心躍る言葉、表現があるんですね。で、私はそれが非常に印象的でした。つまり一方にはもちろん国土を奪われるという悲惨な状況があるんですけれど、自然は裏切らない。そしてイ・サンファはそこに強い「希望」を見ている…それはさっき言ったように、何て言うのかなぁ、その希望というのは多幸症的な幸福感でない、つまりすべてをその場限りの幸福感で満たすような幸福じゃなくて、絶望とか悲惨の中に、あるいは悲惨の中だからこそ見えてくる光を、イ・サンファは描こうとしていると、私はそういうふうにとったんです。
 それからさきほど徐さんがおっしゃったことと関係しますが、この詩と、今度の原発との関連ですが、私はまさに同じ構図って言いましょうか、つまりですね、奪われた野というのは、まさに原発、国策の原発によって奪われた被災地に重なるんです。今回の事故で土地を奪われた人の中には私の親戚もいっぱいいます。もう農業が出来ない人とか、家を離れていまだに疎開っていうか避難している人たち。かつての朝鮮の人たちと同じように、やはり国策というものによって土地を奪われた悲しみ、苦しみがある。私はそうした国と人間の関係性を、単に今だけの問題じゃなく、先ほど徐さんがおっしゃったように、歴史的なものから見てみる、見直してみる必要があると思います。
 私はこの原ノ町の住人ですけども、原ノ町の方だったらだれもが御存知でしょうけど、この町に200メートルの無線塔があったんです。私の子供時代、遠くに出かけて帰って来るときに、汽車の窓からでも道路からでも無線塔が見えて来るとホッとしたわけです。シンボル的な存在だったんです。それが老朽化して壊されまして、今は20メートルですか、そのミニチュアがあるんですけれども、ただ、よく考えてみますとですね、それはあの200メートル、ちょうどあのあれですよ、関東大震災の2年前でしょうね、ですから単純な比較はおかしいかもしれませんけれども、無線搭は今のスカイツリーなんです。無線搭と関東大震災、スカイツリーと原発事故と、もちろん時間的なズレも意味の違いもありますけれど、無線塔っていうのはやっぱり国威を海外に示すための一つの大プロジェクトだったんです。先ほどちょっと無線搭の写真を見直してみたんですけれど、あの時代の鉄筋コンクリートの工法はですね、スカイツリーを作るよりかはるかにその強度の問題とか難しかったはずです。
 で、話は、ここからなんですけれども、つまり、その200メートルの無線塔を建てるために、これはある意味では公然たる秘密なんでしょうが、危険な作業にはですね、死刑囚と、それから徴用された朝鮮人が使われたっていうことです。もちろん彼らだけじゃなくて一般の日本人も使われたわけでしょう。けれども、主にその危険な作業には…私はそれを旧悪をあばくというような意味で言っているんじゃないんですよ。つまり、そういう歴史がこの町にもあったっていうことをね、ぜひこの際、私たちは肝に銘ずるべきだと思うんです。今回の震災後に、徐先生とNHKのクルーが来たときのことですが、あの後から何故徐さんが原発事故についてあのように心配していたんだろう、心痛めていたんだろう、と考えたんです。それは、ひとつには多分、あの関東大震災の時に、何千人という半島出身の朝鮮の方たちが虐殺されたっていう歴史があるんですよ。虐殺、誰がした?日本人ですよ。それも特にね、謂れのないデマをまともに信じた消防署や警察署までも加担して起こったことなんです。原発事故の後、そのことを思い返した日本人がどれだけいましたか、と私は問いたいと思います。で、それはさっきも言った、別に旧悪をあばくためじゃない、その傷口の深さをやっぱり私たちは知らなきゃいけない。それを誤魔化しちゃあまずいなぁと。
 で、今ね、政治問題やいろんな難しい問題があるでしょ、たとえば「従軍慰安婦問題」とか。そんなとき私が思うのは、日本人よ真の誇りを持ってほしい、ということです。それはどういうことかって言うと、やったことに対して謝れとかそれ以前の問題なんですよ、私が言うのは。要は心に深く感じることです。私たち、今度の被災によってですね、心にいろんなことを思いを持ちました。さっきも言ったように、ちょっとね言葉は大袈裟ですけれども「奈落」というものの中で、やっと東アジアの人たち、つまり朝鮮だけじゃなく中国、広く東アジアの人たちに対して与えた苦しみ、悲しみ、屈辱感を、何となくわかる状況になったんです。遅すぎますけれども。だけど、遅すぎることではあっても、これから遅れた分だけ本気になって頑張るしかない。つまり戦後の日本はそういう大事なことをないがしろにしたままここまで来てしまったんですよ…。
 それからね、謝る謝らない以前だって言ったわけは、人間同士だってそうだ思いますけど、本当に深く反省した友達がいたとしたらね、こちらは「謝れ」っなんて言わないですよ。「いいよいいよ、もういいから、一緒に頑張ろう」っていう気持ちになるでしょう。それを自分はやらなかった、とかそんなことばっかし言ってるからね、そういう問題が今なお起こっているんですよ。それは、私は日本人の誇りとして肝に銘じておくべきことだと思います。まぁ今の安倍さんには通じないことでしょうね、聞く耳持たない人たちですから。だけど、私は、今回のことを通じて、被災地の我々、まぁ南相馬も含めてですね、単に日本人の問題としてじゃなくてですね、東アジアの問題、それから原発は全世界的な問題ですね、そういうもののね、やっぱり、このことがおかしなことであるということに対するメッセージを、私たちは出すべき、発信すべきだと思います。
 それには、これから、それこそ長い時間かかるかも知れない、だけど、それは是非やらないとね、そうでなかったなら、この原発事故によって私たちがこれだけの状況に置かれているっていうことに意味がなくなると思います。ですから、明日がちょうど2周年になるわけですけれどね、まぁいろんなところでいろんな催しがありますよ。で、1年目の、あの追悼集会の時にブログに、「けじめなんかつけるな!」って書いた。たぶん誰にもその真意が伝わらなかったと思いますけれども、私が言いたかったのは、けじめをつけて、あぁこれで1年終わったわいでは意味がないということです。そうした思いを未来につながないと意味が無い。で、さきほど言ったこと、つまり、南相馬で今、本当にささやかな集まりがを行われていますが、そして、鄭さんの写真展がありますが、それは2周年の迎え方の一番、まぁ一番って言いませんけど、非常に意味のある迎え方を私たちはしてるって、心から思いますし、皆さんも多分、同じお考えだろうと思います。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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